資治通鑑梁紀十一 高祖武皇帝 中大通 四年 532年

正月・梁の任官と北魏の鄴攻略

  • 正月丙寅、梁では南平王偉を大司馬、元法僧を太尉、袁昂を司空とし、西豊侯正德を臨賀王に立てた。正德は朱异と結び、昭明太子の子らに比べて自分だけ遇されないと訴えていたためである。
  • また太子右衛率の薛法護を司州牧として、魏王元悦を洛陽へ護送させた。
  • 庚午、皇太子綱の長子大器を宣城王に封じた。
  • 北魏では高歓が鄴を攻め、地道を掘って支柱を焼き落とし、城壁を陥没させて壬午に鄴を落とし、劉誕を捕えた。
  • 高歓は楊愔を行台右丞とし、軍国の文書・号令の多くを楊愔と崔㥄に任せた。

元法僧の東魏王封と邵陵王綸の事件

  • 二月、梁は元法僧を東魏王とし、北へ帰らせようとして羊侃を軍司馬に付けた。
  • そのころ揚州刺史の邵陵王綸は、市中で錦綵・絹布を大量に掛け買いしようとして拒まれた。少府丞何智通が規定どおり奏上すると、綸は配下の戴子高らに命じて都の巷で槊で刺殺させた。
  • 何智通は死に際に、その血で車壁へ「邵陵」の字を書き残したため、事件が発覚した。
  • 庚戌、綸は庶人に落とされて自邸に幽閉されたが、二十日ほどで鎖を解かれ、やがて再び封爵を得た。

三月・安定王の追謚と高歓の進位

  • 辛亥、北魏では安定王元朗に敬宗へ「武懐皇帝」の諡を追らせた。
  • 甲子、高歓は丞相・柱国大将軍・太師となり、丙寅には高澄も驃騎大将軍となった。
  • 丁丑、安定王は百官を率いて鄴へ入り、そこを根拠とした。

爾朱氏再結束と斛斯椿の陰謀

  • 爾朱兆と爾朱世隆らは、相互不信に陥っていたが、世隆がへりくだって厚礼でなだめ、節閔帝に兆の娘を后に迎えさせる話まで持ち出したため、兆は機嫌を直し、天光・度律と改めて誓約して和解した。
  • 斛斯椿は賀抜勝に、天下はすでに爾朱氏を怨んでおり、このままでは自分たちも共に滅ぶから先に手を打つべきだと説いた。
  • 勝は、三方に勢力を張る爾朱氏を一挙に除くのは難しく、中途半端なら後患になると躊躇したが、椿は洛陽へ集めれば討てると見た。
  • そこで世隆をそそのかし、爾朱天光らを高歓討伐のため洛陽へ呼び集めさせた。

閏月・鄴での大決戦前夜

  • 爾朱天光は召しに応じて東へ出る前、賀抜岳に相談した。岳は、爾朱氏は三方にまたがって兵馬が盛んなのだから、骨肉が互いに疑わず力を合わせれば高歓ごときは敵でない、しかし内紛すれば存立も危うい、まず関中を固めて根本を守るべきだと忠告した。
  • だが天光は従わず、閏月壬寅、長安から出発した。爾朱兆は晋陽から、爾朱度律は洛陽から、爾朱仲遠は東郡から来て、みな鄴に会し、号して二十万、洹水を挟んで陣した。
  • 節閔帝は長孫稚を大行台として総督にあてた。
  • 高歓は封隆之を鄴の守りに残し、自ら紫陌に進出した。
  • 高敖曹は郷里の漢人部曲三千を率いて従軍し、高歓が鮮卑兵を混ぜようと提案したが、敖曹は、ふだん訓練した兵のままのほうが連携できるとして辞退した。
  • 庚申、爾朱兆は軽騎三千で夜襲して鄴城西門を叩いたが、攻め落とせず退いた。

韓陵の戦い

  • 壬戌、高歓は戦馬二千に足らず、歩兵も三万に満たなかったため、韓陵で円陣を敷き、牛や驢馬をつないで退路を塞ぎ、将士に決死の覚悟を固めさせた。
  • 爾朱兆は遠くから高歓を責め、爾朱栄の仇討ちだと言ったが、高歓は、そもそもともに帝室を助けるために立ったのであり、君主が臣を誅したにすぎぬのに何の仇討ちか、と反駁した。
  • 戦いが始まると高歓は苦戦したが、従弟の高岳が五百騎で正面を衝き、斛律敦が散兵を収めて後ろから迫り、高敖曹が栗園から千騎で横撃したため、爾朱軍は大敗した。
  • 賀抜勝と徐州刺史杜徳は陣中で高歓に降った。
  • 爾朱兆は慕容紹宗に、以前の助言を用いなかったためこの敗北を招いたと嘆きつつ、西へ逃げようとしたが、紹宗は旗と角で散兵を収め、軍形を整えて退却させた。
  • 兆は晋陽へ、仲遠は東郡へ逃れた。

四月・河橋の変と爾朱氏滅亡

  • 爾朱彦伯は敗報を聞き、自ら兵を率いて河橋を守ろうとしたが、世隆は許さなかった。
  • 爾朱度律と爾朱天光が洛陽へ向かう途中、斛斯椿は賈顕度・賈顕智兄弟と相談し、先に爾朱氏を捕えなければ自分たちが滅ぶとして、夜に桑の下で盟約した。
  • 世隆は外兵参軍陽叔淵を河橋北の北中城へ急行させて敗兵を整理しようとしたが、椿は「天光の西人兵は洛陽で大掠奪し、都を長安へ移す恐れがある。先に私を入れて備えさせよ」と欺き、城内に入った。
  • 四月甲子朔、椿らは河橋を占拠し、爾朱氏の党を皆殺しにした。
  • 度律・天光はこれを攻めようとしたが、大雨が昼夜止まず、兵馬は疲れ、弓矢も使えず、西走して灅陂津に至ったところを捕えられ、椿のもとへ送られた。
  • 椿は長孫稚を洛陽へ送り、高歓の功を奏して爾朱氏誅滅を請わせ、別に賈顕智・張歓に命じて世隆を急襲させた。
  • 彦伯は禁中直宿中で、長孫稚から情勢を聞いて狼狽し逃げたが捕えられた。
  • 世隆・彦伯は閶闔門外で斬られ、その首は度律・天光の首とともに高歓へ送られた。
  • 節閔帝は盧辯を遣わして高歓を労ったが、高歓が安定王元朗に会わせようとしても、盧辯は抗弁して従わなかった。
  • 辛未、侯景が安定王に降り、尚書僕射・南道大行台・済州刺史となった。

爾朱仲遠来奔と高歓の信義論

  • 爾朱仲遠が高歓のもとへ逃れて来る途中、配下の喬寧・張子期が先に滑台から高歓に降った。
  • 高歓は、仲遠が徐州から兵を挙げた時には先頭で協力し、盟約を重ねておきながら、いざ主君が敗れるとまた裏切るのは忠義も信義もない、犬馬にも劣るとして二人を斬った。

関中で賀抜岳・宇文泰が長安を奪取

  • 爾朱天光は東下に際し、弟の顕寿を長安に残し、侯莫陳悦を呼び寄せようとした。
  • 賀抜岳は、天光が必敗と見て、悦を引き留めて顕寿を討とうと考えたが、策が定まらなかった。
  • そこで宇文泰が、まず侯莫陳悦の配下に働きかけて不安を作り、その上で悦本人を説けば成功すると進言した。
  • 岳はこれを喜んで泰を悦の軍へ送り、泰は説得に成功した。
  • その結果、悦は賀抜岳とともに長安を襲い、宇文泰が軽騎で先導した。顕寿は城を棄てて逃げ、華陰で捕えられた。
  • 高歓は賀抜岳を関西大行台とし、岳は宇文泰を行台左丞・府司馬として、大小の政務を委ねた。

青州・建州の帰順

  • 爾朱世隆は韓陵敗戦前、房謨に兵を募らせて四瀆へ向かわせ、弟の青州刺史爾朱弼にも乱城方面から北渡の姿勢を示させていた。
  • だが世隆らの死を聞いた弼は東陽から高歓のもとへ来ようとし、たびたび左右と割臂して盟いを立てた。
  • ところが、信任していた都督馮紹隆が「今は一層強い盟いが必要だ」と言って胸を開かせ、その場で刺し殺し、首を洛陽へ送った。
  • 丙子、安東将軍辛永が建州を挙げて安定王に降った。

高歓の洛陽接近と節閔帝廃立論

  • 辛巳、安定王は邙山へ到着した。高歓は安定王が皇統からやや遠いことから、いったん魏蘭根に洛陽を慰撫させ、節閔帝の人物を見て、なお奉じるべきかを探らせた。
  • しかし魏蘭根は、節閔帝は神采が高く、後に制御しにくいと見て、高乾兄弟や崔㥄とともに廃位を勧めた。
  • 高歓が百官を集めて誰を立てるべきか問うと、多くは黙したが、綦母儁だけは節閔帝の賢明さを称えて社稷の主にふさわしいと主張した。
  • これに対し崔㥄は、賢明なら高王が徐々に位を進めればよいのであって、逆胡に立てられた広陵王をなお天子とするのでは義兵の名目が立たないと反論した。
  • 高歓はついに節閔帝を崇訓寺に幽閉した。

斛斯椿・賀抜勝と高歓

  • 高歓が洛陽へ入ると、斛斯椿は賀抜勝に「天下のことは今や我らと君の手にある。高歓が来た直後なら図るのは難しくない」と持ちかけた。
  • しかし勝は、高歓は時局に功があり、しかも近夜同宿して旧交と恩義を語ったばかりで、害するのは不祥だと拒んだ。
  • 椿はこれでいったん手を引いたが、その反覆ぶりは後々まで伏線となった。

孝武帝の擁立

  • 高歓ははじめ、汝南王悦が高祖の子であることから擁立を考えたが、狂暴で常軌を逸した行状を聞いて断念した。
  • 次いで、諸王の多くが逃亡・潜伏するなか、広平王懐の子である平陽王修が田舎に隠れていると知り、斛斯椿に探索させた。
  • 修の所在を知る王思政は、椿の意図を確かめたうえで案内した。修ははじめ顔色を変え、自分が売られたのではないかと疑ったが、やがて高歓のもとへ迎えられた。
  • 高歓は涙を流し、誠意を尽くして修に勧進を請い、夜通し警備を固めた。
  • 明け方、文武百官は鞭を執って朝し、斛斯椿が勧進表を奉ると、修は「こうなっては朕と称せぬわけにいかぬ」と言い、安定王に禅位の詔策を作らせた。
  • 戊子、孝武帝が洛陽東郭外で即位した。代都以来の旧俗にならい、黒氈を七人で支え、高歓もその一人に加わったうえで、帝は氈上で西向して拝天した。
  • その後、太極殿に入り、群臣の朝賀を受け、大赦して太昌と改元した。
  • 高歓は大丞相・天柱大将軍・太師・世襲定州刺史となり、庚寅には高澄も侍中・開府儀同三司に進んだ。

高歓の側近と賀抜岳の自立

  • 高歓が信都で起兵した時から、司馬子如は旧知として左右にあって軍国を助けていた。洛陽入城後も大行台尚書として重用された。
  • また、広州刺史韓賢は高歓の旧知だったため、爾朱氏が授けた官爵を一律剥奪した際にも特例でそのままとされた。
  • 樊子鵠は東南道大行台となり、杜徳とともに爾朱仲遠を追ったが、仲遠はすでに境外へ去り、かわって元樹の守る譙を攻めた。
  • 一方、高歓は賀抜岳を冀州刺史に召そうとしたが、岳は単騎入朝さえ危ぶんだ。
  • 薛孝通は、高歓は今は群雄の上に立ってはいるが、并州にはなお爾朱兆が残り、内には群雄の懐柔、外には強敵への対処があるから、当面は関中まで争う余裕はない、むしろ岳は華山と黄河を拠り、進めば山東へ、退けば函谷へ拠れる地勢を生かして自立すべきだと説いた。
  • 岳はこれを是として、辞退の表を送り、召しに応じなかった。

節閔帝の死と北魏の人事

  • 壬辰、高歓は鄴へ帰る途中、爾朱度律と爾朱天光を洛陽に送って斬らせた。
  • 五月丙申、孝武帝は節閔帝を門下外省で毒殺した。年三十五であった。
  • ただし喪儀は通常の諸王よりは重い特別の礼を用いさせた。
  • 沛郡王欣を太師、趙郡王諶を太保、南陽王宝炬を太尉、長孫稚を太傅とした。宝炬は京兆王愉の子である。
  • 丞相高歓は天柱大将軍を辞退し、戊戌、これが許された。

六月・高隆之と宝炬

  • 己酉、清河王亶が司徒となった。
  • 侍中の高隆之はもとは河南の徐氏の養子で、高歓の命で弟分とされていたが、その勢いを頼みに公卿へ驕った。
  • 南陽王宝炬がこれを叱って「鎮兵の分際で何事か」と罵ると、孝武帝は高歓への配慮から、六月丁卯、宝炬を驃騎大将軍として邸に帰した。
  • さらに孝武帝は、父広平武穆王の諱を避けるため、元朗がかつて敬宗に贈った「武懐皇帝」の諡を改め、「孝莊皇帝」とし、廟号を敬宗とした。

秋七月・并州平定

  • 秋七月庚子、宝炬は再び太尉となった。
  • 壬寅、高歓は滏口へ兵を進め、庫狄干には井陘から爾朱兆を攻めさせた。
  • 庚戌、孝武帝は高隆之に歩騎十万を率いさせて高歓の太原会戦に合流させ、軍司とした。
  • 高歓が武郷に進むと、爾朱兆は晋陽で大掠奪を行ってから秀容へ北走し、并州は平定された。
  • 高歓は晋陽が四塞の地であることを見て、ここに大丞相府を建てて居住した。以後、晋陽は高氏政権の副都のような位置を占めることになる。

青州の郭遷反乱と譙城の陥落

  • 北魏では、夏州から移された郭遷が青州で反乱を起こし、刺史元嶷は城を棄てて逃げた。侯景らがこれを討ち、城を奪うと、郭遷は梁へ奔った。
  • 東南道大行台の樊子鵠は譙城の元樹を囲み、さらに蒙県など五城を奪って援兵の道を断った。
  • 元樹は、兵を率いて南帰し、土地は魏へ返すという条件で退去を願った。子鵠らは誓約したが、元樹の兵が半ば出たところで攻撃し、元樹と譙州刺史朱文開を捕えて連れ帰った。
  • 羊侃は官竹まで進んでこの敗報を聞き、引き返した。
  • 九月、元樹は洛陽へ到着したが、のち再び南奔しようとして魏人に殺された。

冬・南至祭祀と元氏諸王の処分

  • 乙巳、梁では袁昂が司空のまま尚書令を兼ねた。
  • 冬十一月丁酉は冬至であり、北魏の孝武帝は圜丘で祭天を行った。
  • 甲辰、北魏は安定王朗と東海王曄を殺した。ともに一度は擁立された経歴を持つため、廃されていてもなお疑いの地にあったからである。
  • 己酉、汝南王悦を侍中・大司馬とした。

梁の対魏方針の変化と元法僧

  • 梁の武帝は魏の政局が一応定まったと聞き、十二月庚辰、あらためて元法僧を郢州刺史に戻した。
  • 北魏では、孝武帝が汝南王悦を近親で地位も高いことから危険視し、丁亥に殺した。
  • さらに大赦して永興と改元したが、この号は太宗の初元と重なるため、すぐに永熙へ改めた。

高歓と李元忠

  • 孝武帝は高歓の娘を皇后に迎えた。
  • 太常卿李元忠が晋陽へ納幣に赴くと、高歓と旧事を語り合った。李元忠は「かつての建義は轟々たる盛況だったが、近ごろは寂しく誰も問わない」と冗談を言った。
  • 高歓が「この人が私に起兵を迫ったのだ」と笑うと、李元忠は「侍中の位をくれないなら、また別の建義先を探さねばならぬ」と応じ、高歓の鬚をひねって大笑いした。
  • 高歓は彼の本心をよく知って、いよいよ深く重んじた。

爾朱兆討伐への布石

  • 爾朱兆は秀容に退くと、険しい要地を分守してたびたび出て略奪した。
  • 高歓は討伐を口にしつつ、何度も出兵するふりをしては引き返し、兆を油断させた。
  • そして年初の宴会時を狙うべきだと見て、都督竇泰に精騎を与え、一日一夜で三百里を走らせ、自身も大軍で続いた。これは翌年の本格的な爾朱兆討滅の伏線となる。