資治通鑑梁紀十 高祖武皇帝 中大通 二年 530年

春正月 魏の西南・東方で反乱鎮圧

  • 春正月、魏の益州刺史・長孫壽、梁州刺史・元儁らは将を派遣して厳始欣を討ち、これを斬った。これに連動して蕭玩らも敗死し、失われた兵は一万余にのぼった。
  • 辛亥、魏の東徐州で、下邳に置かれていた州城の民の呂文欣らが刺史・元大賔を殺して反乱を起こした。魏は都官尚書・樊子鵠を派遣して討たせ、二月甲寅に呂文欣を斬った。

万俟醜奴討伐の開始

  • 万俟醜奴が関中を侵掠すると、魏の爾朱栄は賀抜岳を討伐にあてた。岳は兄の賀抜勝に、醜奴は強敵であり、勝っても嫉視を受けるおそれがあるとして、爾朱氏の一人を総帥に立てて自分たちは補佐に回る策を語った。
  • 爾朱栄はこれを容れ、爾朱天光を都督・雍州刺史として派遣し、賀抜岳を左大都督、侯莫陳悦を右大都督として副将にした。

天光の西征と蜀賊平定

  • 天光が洛陽を発した当初、与えられた兵は千人にすぎず、西へ進みながら民間の馬を徴発して軍用に充てた。
  • このころ、鄭県北方の赤水一帯では、関中へ移された蜀人たちが乱に乗じて群盗化し、交通を遮断していた。魏は侍中・楊侃を先行させて慰撫させ、あわせて馬を徴発させたが、賊は疑って容易に従わなかった。
  • 軍が潼関に至ると天光は進軍をためらったが、賀抜岳は小賊にすら躊躇していては大敵にどう対するのかと叱咤し、みずから進んで渭北で蜀賊を破った。馬二千匹を得、そのうち壮健なものを兵に配し、さらに民馬を集めて総数一万余匹とした。
  • ただし兵数がまだ少なかったため進軍は遅れ、爾朱栄は怒って参軍・劉貴を急使として送り、天光を杖打ちにし、さらに二千の兵を増援した。

三月 渭水で尉遅菩薩を破る

  • 三月、万俟醜奴は自ら岐州を囲み、部下の大行台・尉遅菩薩、僕射・万俟仵を武功から渭水南岸へ渡らせて砦を攻めさせた。これに対し、天光は賀抜岳に千騎を与えて救援に向かわせた。
  • 岳は、敵がすでに砦を抜いて退くところを、あえてその配下の吏民を殺掠して挑発し、渭北へおびき出した。菩薩は歩騎二万を率いて応じた。
  • 岳はわずかな騎兵を率いて渭南から隔水して国威を説いたが、菩薩が通訳役を介して応答させると、その者を射殺して敵を怒らせた。翌日も同じように挑発しつつ東へ引き、浅瀬まで誘導すると、敵の軽騎だけを先に渡らせたうえで横岡に伏兵を置き、半ば渡河したところを急襲した。
  • 敵軍は大敗し、岳は「馬を下りた者は殺すな」と命じたので、賊兵はみな馬を捨てて降り、三千人を捕え、馬も失わずに回収した。さらに尉遅菩薩を生け捕りにし、渭北へ渡って歩卒一万余を降し、輜重も奪った。

夏四月 万俟醜奴を平定

  • 醜奴は敗報を聞いて岐州包囲を解き、安定へ退いて平亭に柵を築いた。天光は岐州で賀抜岳と合流したのち、汧水と渭水の間に至った。
  • ここで天光は、暑気のため今は進めない、秋涼を待って進退を決めると公言し、捕えた斥候をわざと逃がした。醜奴はこれを信じて兵を分散させ、細川で耕作を始め、太尉・侯伏侯元進に五千を与えて険地に柵を守らせ、その他にも小柵を多数置いた。
  • 天光は敵が分散したのを見るや、晡時に密かに諸軍へ命じて順次出発させ、黎明に元進の大柵を包囲してこれを抜いた。捕虜はみな解放したため、周辺の諸柵はその報を聞いて次々に降った。
  • そのまま昼夜兼行して安定城下に迫ると、賊の涇州刺史・侯幾長貴が城を挙げて降伏した。
  • 醜奴は平亭を捨てて高平へ向かおうとしたが、天光は賀抜岳に軽騎を率いさせて追わせ、丁卯、平凉でこれに追いついた。直閤・侯莫陳崇が単騎で敵中に突入し、馬上で醜奴を生け捕りにすると、賊衆は総崩れとなって大敗した。
  • 天光が高平城に迫ると、城中では蕭宝寅を捕えて差し出し降伏した。蕭宝寅はもと魏に叛いて醜奴に奔っていた者で、これにより醜奴・宝寅の両者が平定された。

醜奴・蕭宝寅の処断と関中平定

  • 壬申、魏は吐谷渾王・佛輔を西秦州・河州刺史とした。
  • 甲戌、魏は関中平定を受けて大赦を行った。
  • 醜奴と蕭宝寅が洛陽へ送られると、閶闔門外の大路にさらされ、男女が三日間見物に集まった。
  • 丹陽王・蕭贊は叔父にあたる蕭宝寅の助命を願った。李神儁・高道穆も旧交から救済を図ったが、外地から帰った王道習が、宝寅は今の朝廷の下でも醜奴の太傅として反逆していたのだから赦すべきでないと進言した。
  • 魏主はこれを容れ、蕭宝寅を駝牛署で死に至らしめ、醜奴は都市で斬った。

六月 梁が元悦を送り返す

  • 丁巳、梁帝は魏の汝南王・元悦を改めて「魏王」とし、北帰させることにした。
  • 庚申、魏へ降っていた范遵を安北将軍・司州牧に任じ、元悦に従わせて北へ帰らせた。
  • 戊寅、魏では胡太后の親族のうち朝廷から爵位を受けている者を、みな平民に落とす詔が出された。

万俟道洛・王慶雲の残党蜂起

  • 醜奴滅亡後、涇州・豳州以西から霊州に至るまでの賊党はみな魏に降ったが、ただ行台を称していた万俟道洛だけは六千を率いて山中へ逃れ、服従しなかった。
  • このころ高平は大旱で、爾朱天光は馬の飼葉に困り、城東五十里に退いて駐屯し、長孫邪利に原州を守らせた。
  • 道洛はひそかに城民と通じて邪利を襲い、その部下もろとも殺した。天光が諸軍を率いて赴くと、道洛は敗れて牽屯山に入り、険阻に拠って守った。
  • 爾朱栄は、邪利を失い道洛も捕えられなかったとして、再び天光を杖打ちにし、官爵を降して撫軍将軍・雍州刺史、侯に貶めた。
  • その後、天光が牽屯で道洛を破ると、道洛は隴山方面へ逃れ、略陽の賊帥・王慶雲のもとに身を寄せた。慶雲は道洛の勇猛を頼みに、水洛城で帝を称し、百官を置いて、道洛を大将軍とした。

七月 水洛城陥落

  • 七月、天光は諸軍を率いて隴へ入り、水洛城に進んだ。慶雲・道洛は出戦したが、天光が道洛の腕を射抜いたため、道洛は弓を失って退却した。天光は東城を奪い、賊は西城へ立てこもった。
  • 城中は水に乏しく、渇きに苦しんだ。降兵から、慶雲と道洛は夜襲して脱出しようとしていると知らされると、天光は表向き降伏を促し、夜間に木槍を大量に作らせて要路に並べ、さらに槍列の間へ伏兵を潜ませ、また城北には長梯子を密かに備えた。
  • その夜、慶雲らは案の定馬で突囲しようとしたが、槍列にかかって馬が倒れ、伏兵に捕えられた。別働隊は梯子を使って城内へ入り、残兵は南門から出たがやはり槍列に阻まれて窮し、降伏を請うた。
  • 丙子、天光は兵仗をすべて収めたうえで、降兵一万七千を坑殺し、その家族を分配した。これにより三秦・河州・渭州・瓜州・凉州・鄯州までが魏に帰服した。
  • 天光が略陽に駐したのち、朝廷はその官爵を回復し、間もなく侍中・儀同三司を加えた。また賀抜岳を涇州刺史、侯莫陳悦を渭州刺史に任じた。
  • 秦州・南秦州では城民がそれぞれ刺史の駱超・辛顕を殺そうとしたが、二人は察知して天光のもとへ逃れ、天光は兵を送ってこれを平定した。
  • 歩兵校尉・宇文泰は賀抜岳に従って関中に入り、功により征西将軍・行原州事に進んだ。疲弊した関隴の人々を恩信で撫したため、民は「早く宇文使君に会っていれば、そもそも乱に従わなかった」と語った。

八月 元悦送還と魏朝の爾朱栄専横

  • 庚戌、梁帝は徳陽堂で元悦を送別し、兵をつけて国境まで送らせた。
  • このころ魏では、爾朱栄が外藩にありながら遠く朝政を左右し、近親や党与を宮中・朝廷の要所に配置して、皇帝の動静を細かく探らせていた。
  • それでも魏主は政務に励み、訴訟や冤獄を自ら裁こうとしたが、栄はこれを快く思わなかった。
  • さらに李神儁とともに選部の刷新を図ったところ、栄が押し込もうとした曲陽県令人事を李神儁が不適格として退けたため、栄は激怒し、独断でその人物に赴任させた。神儁は職を辞し、代わって爾朱世隆が選事を取り仕切るようになった。
  • 栄は北方出身者を河南の諸州に配したいと願い出たが、魏主は許さなかった。太宰・爾朱天穆が面会して迫っても、魏主は「もし天柱が臣であるなら、天下の百官を一人で取り替える道理はない」と面前で言い切った。
  • 栄はこれを聞いて深く怨み、また皇后も、皇帝は自分の家が立てたのだと誇って尊大であったため、皇帝は内にも外にも圧迫され、帝位を楽しめなかった。
  • 関隴平定の捷報が届いたとき、魏主はむしろ不快そうで、臨淮王・元彧に「天下に賊がいなくなった」と言い、賊平定後こそ聖慮が労される、と返されると、すぐに話題をそらした。

爾朱栄の性格と宮廷の不安

  • 栄は九錫を勧めた参軍・許周を遠ざけたと奏しつつも、実際には朝廷からの特別待遇を望み、その意向をほのめかしていた。魏主はこれを拒み、忠節を称えるだけにとどめた。
  • 栄は狩猟を好み、寒暑を問わず兵を動かした。隊列を乱したり鹿を取り逃がしたりしただけで死罪にし、虎を素手で捕えさせることすらあったため、配下はひどく苦しんだ。
  • 天穆が、今は政治と民生に努め、狩りも時節に応じて行うべきだと諫めたが、栄は天下未定を理由に聞き入れなかった。嵩高山で貪官を虎と戦わせる、三荆を巡って生蛮を押さえる、六鎮を補充する、さらには江淮へ進んで梁の蕭衍を屈服させるなど、大きな構想を語った。
  • 城陽王・元徽、侍中・李彧らは権勢を求め、日々栄を帝に讒言し、除去を勧めた。帝は河陰の惨事を忘れず、いつか栄が自分をも脅かすと恐れて、ひそかに誅殺を考えるようになった。楊侃・元羅らもこの計画に加わった。

九月まで 栄誅殺計画の進行

  • 栄は皇后の出産を見舞う名目で入朝を求めた。元徽らはこの機会に刺殺するよう勧めたが、李侃晞や済陰王・暉業は、栄は必ず備えをして来るから軽々しく図るべきではないと反対した。
  • 洛陽では不穏な空気が強まり、邢子才らのように先に東方へ避難する者も出た。
  • それでも栄は朝士たちに手紙を配って去就を探り、自分の勢いを疑わなかった。奚毅だけは帝に対し、もし変事があるなら命を賭して尽くすと言い、帝もその忠を覚えた。
  • 爾朱世隆は、帝が楊侃・高道穆らとともに栄を殺そうとしているという匿名文を作って自宅の門に貼り、これを栄に見せた。だが栄は強さを恃み、書を破り捨てて少しも意に介さなかった。栄の妻の北郷長公主も入洛しないよう勧めたが、従わなかった。
  • この月、栄は四、五千騎を率いて并州を発し、洛陽に至った。人々は栄が反するか、あるいは帝が必ず図るかと語り合った。

栄の入洛と宮廷の決断

  • 洛陽到着後、帝はただちに栄を殺そうとしたが、天穆がまだ并州にいるので後患を恐れ、まず天穆も呼び寄せた。
  • 栄はしばしば入謁したが、従者は数十人にすぎず、武器も持たずに来ることが多かった。帝がなお決断をためらうと、元徽は「たとえ反逆しなくとも、このままでは耐えがたい」と迫った。
  • 以前、長星が中台から大角を掃いたとき、恒州の高栄祖はこれを「古いものが除かれ新しいものが布かれる兆し」と解して栄を喜ばせた。栄の周囲の者たちはますます増長し、九錫や禅譲にまで言及する者も現れたため、その不敬の言葉はすべて帝の耳に入った。
  • 奚毅はあらためて帝に密謁し、変を決するなら協力すると述べた。帝はこれを受けて元徽・楊侃・李彧に奚毅の言葉を伝えた。
  • また、栄が自分の娘を陳留王寛に嫁がせ、将来この婿の力を借りると言っていたことから、元徽は、皇后に太子が生まれなければ幼い皇族を擁立しようと考えているのだろうと帝に警告した。
  • 帝が十指を自ら切り落とす夢を見て不吉に思うと、元徽は「毒蛇に噛まれた手を切り落とすようなもので、かえって吉兆だ」と解した。

戊子以後 実行直前の逡巡

  • 戊子、天穆が洛陽に到着し、帝は出迎えた。栄と天穆はともに西林園へ入り、宴席で射礼を行った。栄は帝に、近頃の近侍は武を習っていないから、五百騎を率いて狩りに出て、その際に訴訟も視察してはどうかと奏した。
  • 以前から奚毅は、栄が狩りに乗じて天子を連れ出し、遷都させるのではないかと告げていたため、帝はいっそう疑いを深めた。
  • 辛卯、帝は中書舎人・温子昇を呼び、栄誅殺の計画を告げたうえで、董卓を殺した王允の故事を問うた。子昇が経緯を述べると、帝は「自分は生きながらえるだけの凡庸な君主にはなりたくない。たとえ死んでも自ら決する」と決意を語った。
  • 王道習は、世隆・司馬子如・朱元龍のように栄に重用され、天下の形勢を知る者を生かしてはならぬと進言したが、元徽・楊侃らは、彼らを赦せば爾朱仲遠や天光も挙兵しないだろうと説き、帝もそれに従った。
  • 元徽は、栄は腰刀を帯びているから、変が起これば帝は席を立って避けるよう進言し、楊侃ら十余人を明光殿東に伏せた。だがその日、栄と天穆が殿内へ入り食事を終えて出てくると、楊侃らが階を上る前に中庭まで来てしまい、計画は実行できなかった。

戊戌 爾朱栄・天穆の誅殺

  • 甲午、栄は陳留王家で酒を飲み、ひどく酔って病を口実に数日入朝しなかった。計画が漏れ始め、世隆も栄に早く行動すべきだと勧めたが、栄は帝を侮って相手にしなかった。
  • 元徽は、皇子誕生を口実に栄を呼べば疑うまいと提案した。帝は皇后がまだ妊娠九か月であることを気にしたが、元徽は早産は珍しくないと言って押し切った。
  • 戊戌、帝は明光殿東序に伏兵を置き、皇子誕生と称して元徽を急使に仕立て栄の邸に向かわせた。栄は天穆と博戯中であったが、元徽が帽子を脱がせて舞い、宮中からも文武が次々と到着を促したので、これを信じて天穆とともに入朝した。
  • 帝は栄が来ると顔色を変えたが、温子昇に赦文を作らせ、自らは酒を重ねて気を奮い立たせた。温子昇が赦文を持って出る途中、栄に何の文書か問われたが、とっさに勅書だと答えて切り抜けた。
  • 帝は東序の下に西向きに座り、栄と天穆は御榻の西北に南向きで座った。元徽が一拝するや、魯安・李侃晞らが東戸から抜刀して入り、栄は御座へ駆け寄ろうとした。帝は膝に横たえていた刀を取り、自ら栄を斬り、魯安らが乱刀でとどめを刺した。天穆も同時に殺された。
  • 栄の子・菩提と、車騎将軍・爾朱陽覩ら三十人も宮中で伏兵に殺された。栄の持っていた手板には、帝の側近を残す・外すという名簿があり、腹心でない者は排除対象となっていたため、帝は「今日を過ぎれば抑えられなくなるところだった」と語った。
  • 都城は内外とも歓声に満ち、百官は入って祝賀した。帝は閶闔門に登って大赦を発し、奚毅と崔淵を北中の鎮守に向かわせた。

その夜以後 爾朱氏の反撃

  • その夜、爾朱世隆は北郷長公主を奉じ、栄の部曲を率いて西陽門を焼き払い、河陰へ退いた。
  • 賀抜勝は田怡らとともに栄邸へ駆けつけたが、兵が少ないまま宮門を攻めても成功しないと田怡を止めた。のちに世隆らが出奔すると、勝はこれに従わず、帝はその判断を大いに評価した。
  • 朱瑞はもと栄に重用されていたが、朝廷との関係もよかったため、世隆に従って逃げたものの、途中で戻ってきた。
  • 一方で司馬子如は栄の家からその妻子とともに逃れ、世隆に、弱みを見せず河橋を押さえて京師へ向かい、不意を突けば成否にかかわらず威勢を示せると説いた。世隆はこれを用い、己亥、河橋を攻めて奚毅らを捕え、殺し、北中城を占拠した。
  • 魏朝は大いに恐れ、段育を慰撫使として送ったが、世隆は斬ってさらし者にした。
  • 朝廷は爾朱天光を侍中・儀同三司とし、楊津を都督并・肆など九州諸軍事、并州刺史、兼尚書令、北道行台として河汾経略にあたらせた。

高敖曹の起用

  • 栄が洛陽に入った際、かつて拘束していた高敖曹を駝牛署に禁じていたが、栄の死後、帝はこれを召して慰労した。
  • 敖曹の兄・高乾は東冀州から急ぎ洛陽へ来た。帝は乾を河北大使、敖曹を直閤将軍とし、郷里へ帰って兵を集め、都城の外援となるよう命じた。
  • 帝は河橋で兄弟を見送り、水を指して「もし京城に変があれば、この河の上に一すじの塵を立てるように、すぐ来てほしい」と言い、乾は涙ながらに詔を受け、敖曹は剣を抜いて必死を誓った。

十月 洛陽近郊の戦い

  • 癸卯朔、世隆は爾朱拂律帰に胡騎千を与え、白服で洛陽城下に来させ、太原王たる爾朱栄の遺体を求めさせた。帝は大夏門に登って応対し、栄は法により誅したのであり、降るなら官爵はそのままだと伝えた。
  • 拂律帰は、ただ遺体を得たいだけで、生死は問わぬと泣き訴え、胡人たちもみな号泣した。帝も心を動かされ、朱瑞に鉄券を持たせて世隆へ送ったが、世隆は、長楽王たる天子が誓約を守らず太原王を殺した以上、鉄字二行など信用できないとして拒んだ。
  • 帝は倉庫の物資を城西門外に積み出し、敢死の士を募ったところ、一日で一万人が集まった。しかし洛陽の兵は戦いに不慣れで、郭外での戦闘では、戎馬に習った胡騎にたびたび敗れた。
  • 甲辰、李叔仁を大都督として世隆討伐に向かわせた。
  • 戊申、皇子が生まれたとして大赦が出され、魏蘭根は河北行台を兼ね、定州・相州・殷州の節度を統べた。

李苗の河橋焼断

  • 爾朱氏の兵がなお城下にあるなか、朝臣の会議では皆おびえ、対策を決められなかった。そこで李苗が立ち、五百ほどの兵で河橋を断つ策を請うた。元徽・高道穆も賛成し、帝はこれを許した。
  • 乙卯、李苗は馬渚より上流で船を集め、夜陰にまぎれて橋の数里上から火船を流した。火はたちまち河橋に及び、南岸にいた爾朱氏の兵は争って北へ渡ろうとしたが、まもなく橋は落ち、溺死者が多く出た。
  • 苗は百人あまりで小洲に泊まり、南からの援軍を待ったが来ず、爾朱氏に攻められて配下を失い、自らも入水して死んだ。帝はこれを惜しみ、車騎大将軍・儀同三司を追贈し、河陽侯に封じて忠烈と諡した。
  • 世隆は兵を収めて北へ退いた。

西道・東道の討伐軍と建州の惨禍

  • 丙辰、源子恭に歩騎一万を与えて西道から、楊昱に募兵八千を与えて東道から、世隆討伐に向かわせた。子恭は太行の丹谷にとどまって塁を築き、防衛線とした。
  • 世隆が建州に至ると、刺史・陸希質は城門を閉ざして拒んだが、世隆はこれを攻め落として城中の人々を皆殺しにし、ただ希質だけが逃れた。
  • また、元顕恭が晋州刺史兼西道行台に任じられた。
  • 東徐州刺史・斛斯椿はもと爾朱栄に依附していたので、栄の死を恐れ、国境に来ていた元悦のもとへ州を棄てて走った。元悦は椿を侍中・大将軍・司空、霊丘郡公とし、大行台前駆都督に任じた。
  • 爾朱兆は汾州から騎兵を率いて晋陽を押さえ、長子で世隆と合流した。壬申、二人は長広王・元曄を擁立して皇帝位につけ、建明と改元した。兆は大将軍・王、世隆は尚書令・楽平王・太傅・司州牧、度律は太尉・常山王とされた。仲遠もまた兵を起こして洛陽へ向かった。

関隴の爾朱天光・賀抜岳の動向

  • かつて爾朱天光に降っていた宿勤明達が再び叛いて東夏へ走ると、賀抜岳が追討した。だが栄の死を聞くと深追いせず、涇州へ帰って天光の対応を待った。
  • 天光も侯莫陳悦とともに隴を下り、岳と洛陽へ向かう策を議した。魏の敬宗は朱瑞を派遣して慰撫したが、天光は一方で帝を外へ逃がし、別の宗室を立てようと考えていた。
  • そこで表向きは異心がないと頻りに奏しつつ、同時に配下にも「天光には密かに異図がある、備えよ」と上奏させ、両面作戦で魏朝を揺さぶった。

河北・平州の動揺と元徽の失策

  • 范陽太守・盧文偉は平州刺史・侯淵を狩りに誘い出して郡城に入れず、門を閉ざして拒絶した。淵は郡南に屯して爾朱栄のために喪を発し、南へ向かって進軍したが、中山で魏蘭根に邀撃されつつもこれを破った。
  • 敬宗は城陽王・元徽に大司馬・録尚書事を兼ねさせ、内外の総指揮を委ねた。
  • しかし元徽は、栄さえ死ねばその枝葉は自然に散ると考えていたため、世隆・仲遠らの蜂起が広がると狼狽した。しかも嫉妬深く、他人が自分に先んじるのを嫌って、群臣の献策を帝に採らせず、「小賊など心配するに足りない」と言い続けた。
  • また賞賜も惜しみ、中途で削ったり与えてから取り返したりしたため、費用だけがかかって恩は人心に及ばなかった。

十一月 各地で形勢悪化

  • 癸酉朔、敬宗は鄭先護を大都督とし、行台・楊昱とともに爾朱仲遠討伐に向かわせた。
  • 乙亥、長孫稚を太尉、臨淮王・元彧を司徒とした。
  • 丙子、敬宗は雍州刺史・爾朱天光の爵位を王へ進めた。一方、長広王側もまた天光を隴西王に封じて取り込もうとした。
  • 丁丑、仲遠は西兗州を攻め落とし、刺史・王衍を捕えた。
  • 癸未、敬宗は賀抜勝を東征都督とし、壬辰には鄭先護を行台にして勝とともに仲遠を討たせた。
  • 戊戌、魏蘭根の行台を罷め、薛曇尚を北道行台とした。
  • しかし庚子、賀抜勝は滑台東で仲遠と戦って敗れ、ついに仲遠へ降った。

高歓の台頭

  • 以前、爾朱栄は「自分がいなくなったら誰が軍を統べられるか」と周囲に問うたことがあり、人々は爾朱兆を推した。だが栄は、兆は勇戦はできても多兵を統御できず、自分の後を継げるのは賀六渾、すなわち高歓だけだと言っていた。兆にも、いずれ歓に制せられるだろうと戒めていた。
  • 兆が洛陽へ向かうにあたり、高歓を呼び寄せたが、歓は山中の蜀人がまだ平定されていないとして応じず、定まれば河を隔てて犄角となろうと答えた。兆は不快となった。
  • その際、兆は孫騰に、自分は吉夢を見た、耕し終えた地に残る馬藺だけを祖先が抜き尽くせと命じたので、出征すれば必ず勝つと言ってのけた。これを聞いた歓は、かような狂愚の者が反逆を企てるのなら、もはや爾朱氏に長く仕えることはできないと考えるようになった。

十二月 爾朱兆の洛陽制圧

  • 壬寅朔、爾朱兆は丹谷を攻め、都督・崔伯鳳を戦死させ、史仵龍を降伏させた。源子恭は退却した。
  • 先に敬宗は黄河の深さと広さを頼み、兆は急には渡れないと思っていたが、この日は水かさが馬の腹にも及ばなかった。
  • 甲辰、暴風と黄塵のなか、兆の騎兵が宮門をたたくまで宿衛は気づかなかった。ようやく弓を引こうとしても矢は発てず、たちまち潰走した。
  • 華山王・元鷙はもとより爾朱氏に附しており、帝が自ら軍を率いて討とうとしたときも、黄河は渡れまいと説いて安心させ、兆が宮中に入ってからも衛兵を制して戦わせなかった。
  • 帝は雲龍門を徒歩で出たところ、城陽王・元徽が馬で逃げるのに出会い、何度も呼びとめたが、徽は振り返らず去った。帝はついに兆の騎兵に捕えられ、永寧寺の楼上に鎖でつながれた。寒さをしのぐ頭巾を求めても与えられなかった。
  • 兆は尚書省に陣を置き、天子の金鼓を用い、庭に刻漏まで据えた。さらに皇子を撲殺し、嬪御や妃主を辱め、兵に大掠奪を許し、司空・臨淮王彧、尚書左僕射・范陽王誨、青州刺史・李延寔らを殺した。

城陽王元徽の最期

  • 元徽は山南へ逃れ、かつて自ら引き立てた前洛陽令・寇祖仁の家に身を寄せた。祖仁は金百斤・馬五十匹を見て利を起こし、外面では受け入れつつ、内心では元徽の首を取って千戸侯になる好機だと思った。
  • 祖仁は、官軍が迫るから他所へ逃れよと欺き、途中で人を待ち伏せさせて元徽を殺し、その首を兆に送った。兆はとくに賞しなかった。
  • その後、兆は夢に元徽が現れ、自分の金二百斤・馬百匹が祖仁の家にあると告げたため、夢を真に受けて祖仁を捕え、夣に示された通りの金馬を出せと責めた。
  • 祖仁は実際に得た分しか認めなかったが、兆は隠匿していると疑い、家にあった別の財産まで差し出させたうえ、なお信じず、ついに木に首を吊らせ足に石を付けて打ち殺した。

爾朱氏内部の軋轢と敬宗の終焉

  • 世隆が洛陽へ着くと、兆は、叔父は長年朝廷にいて耳目も広いはずなのに、どうして天柱にこの禍を及ぼしたのかと剣を按じて激しく責めた。世隆は謝罪したものの、以後深く兆を恨むようになった。
  • 仲遠も滑台から洛陽へ着き、戊申、長広王政権はあらためて大赦を行った。
  • 敬宗は先に河西の賊帥・紇豆陵歩蕃へ、爾朱氏の本拠たる秀容を襲わせていた。兆が洛陽へ入ると、歩蕃は南下して勢いを増したため、兆は洛陽に長くとどまれず、世隆・度律・彦伯らを留めて自らは晋陽へ引き返した。
  • 甲寅、兆は敬宗を晋陽へ移した。
  • 髙歓は、敬宗が晋陽へ送られると聞き、騎兵を率いて東巡し、途中で迎え撃とうとしたが間に合わなかった。そこで兆に手紙を送り、天子を殺して悪名を負うべきではないと説いたが、兆は聞き入れなかった。
  • 天光は軽騎で洛陽へ入り、世隆らと会ったのち、すぐ雍州へ帰った。
  • 敬宗はかつて南方へ逃れる道も考えており、高道穆を南道大行台に任じようとしたが、実行前に兆が洛陽へ入ったため、道穆は病を称して去った。世隆はこれを殺した。
  • 主者が李苗への追封を請うと、世隆は、当時は朝議が定まらずあと一、二日あれば自軍は京師で大掠奪するところだった、李苗が河橋を焼いたため都は救われたのだから、その善を認めるべきだとして、追奪しなかった。

房謨・楊津らの動き

  • 爾朱栄死後、世隆らは泰寧太守・房謨に兵を出させようとしたが、謨は応じず、前後して使者三人を斬った。弟の房毓を洛陽へ遣わしていたが、兆が勝つと、建州刺史・是蘭安定が謨を逮捕して州獄に繋いだ。
  • 郡中の蜀人がこれを聞いて叛くと、安定は謨に弱馬を与えて軍前慰労に向かわせた。賊たちは謨を見ると遠くから拝礼し、彼の乗馬が戦乱で失われたと聞くと、これを悼んで手厚く養った。世隆はこの評判を聞き、謨を赦して自らの府の長史とした。
  • 楊津は北道行台として鄴にとどまり滏口から并州へ入ろうとしたが、兆が洛陽に入ると、軍勢を散らして軽騎で帰朝した。

衛氏殺害と敬宗の死

  • 世隆は兄弟と密議し、長広王の母・衛氏が朝政に関わるのを恐れていた。そこで彼女が外出したとき、盗賊を装った数十騎に京巷で殺させたうえ、すぐ多額の懸賞を掲げて犯人捜索を装った。
  • 甲子、爾朱兆は敬宗を晋陽の三級仏寺で縊り殺し、陳留王寛もあわせて殺した。敬宗は二十歳で没した。

年末 紇豆陵歩蕃敗死と高歓の兵権掌握

  • この月、紇豆陵歩蕃は秀容で爾朱兆を大破し、晋陽南方に迫った。兆は恐れて高歓を召して共同対処を求めた。周囲は高歓を呼ぶ危険を説いたが、兆は自分は歓と誠をもって交わっているとして取り合わなかった。
  • 歓は、今まさに天下多事で人々に異望がある時だからこそ好機だと見ていたが、表面上は兆の急を救うため赴き、途中で意図的に足を止めつつ、ついに合流した。
  • 歩蕃が平楽郡に至ると、歓と兆は兵を合わせて大破し、石鼓山で歩蕃を斬った。兆は歓の助力に感謝し、兄弟の誓いを立て、数十騎のみを伴って歓のもとで終夜宴飲した。
  • もと葛栄の部衆として并州・肆州へ流れてきた六鎮の人々は、爾朱氏の支配下で虐げられ、反乱と誅殺が繰り返されていた。兆がこれを憂えて策を問うと、歓は、全員を殺すのではなく、腹心に統率させて違反者はその主将を罰すればよいと答えた。
  • 賀抜允がその統率者に高歓を推すと、歓は怒って允を殴り、かつては自分たちは天柱のもとで鷹犬のように使われていただけであり、今さら僭越なことは言うなと演技して兆の疑いを解いた。兆はこれを真に受け、ついに州鎮兵の統率を歓に委ねた。
  • 歓はこれを受けると、汾東で号令を受けよと触れを出し、陽曲川に牙門を立てた。六鎮兵はもとより兆を憎み、歓に属することを望んでいたため、こぞって集まった。
  • さらに歓は、并州・肆州では霜害と旱害が続き、降戸たちが田鼠を掘って食うほど飢えているので、山東に移して食わせたいと申し出た。兆はこれを許したが、慕容紹宗は、兵権を握らせたまま外へ出せば制御できなくなると強く諫めた。兆は、兄弟の香火の誓いがあるから心配ないと退けた。
  • 兆の側近たちはすでに高歓の金を受けており、紹宗に旧怨があるのではないかと逆に讒言したため、兆は紹宗を捕えてまで歓の出発を促した。
  • 歓は晋陽を出て滏口へ向かう途中、洛陽から来た北郷長公主の馬三百匹を奪って自軍に換えた。兆がそれを聞いて追いつくと、歓は、公主の讒言を信じて自分を追ってきたのかと訴え、もし今ここで死ねば部衆は離反すると述べた。兆は疑いを解き、軽騎で川を渡って歓の幕下に入り、刀を渡して自分の首を斬れとまで言った。
  • 歓は泣いて忠節を誓い、兆は再び白馬を斬って盟約した。夜、尉景は壮士を伏せて兆を捕えようとしたが、歓は今殺せばその党が散って新たな英雄のもとへ集まり、かえって害が大きいとして止めた。
  • 翌朝、兆は帰営したが、なお歓を召した。孫騰が歓の衣を引いて止めたため難を避け、兆は川向こうから罵って晋陽へ帰った。
  • その後、兆の腹心・念賢が降戸の家属を別営に置いていたが、歓はこれを籠絡して人心をさらに集めた。

斉州・荆州・元悦・陳慶之

  • 斉州では城民の趙洛周が、爾朱兆の洛陽入りを聞いて刺史・丹陽王蕭贊を追放し、城を兆に帰した。贊は姿を変えて僧となり長白山に逃れ、流浪の末に陽平で死んだ。梁人がその棺を盗んで帰すと、梁帝はなお子として陵次に葬った。
  • 魏の荆州刺史・李琰之は敬宗の外戚であったが、南陽太守・趙修延が梁へ奔ろうとしていると誣告し、州城を襲って琰之を捕え、自ら州事を行った。
  • 元悦は更興と改元していたが、兆がすでに洛陽を制したと知ると、もはや機を失ったとして南へ引き返した。斛斯椿も再び悦を棄てて魏へ奔った。
  • この年、梁では陳慶之を都督南北司など四州諸軍事・南北司二州刺史とし、魏の懸瓠を囲ませた。慶之は溱水で潁州刺史・婁起らを破り、さらに楚城でも魏軍を破って、義陽鎮の兵を撤収させ、水陸の漕運を停止に追い込み、江湖諸州を休息させた。六十頃を開墾し、二年後には倉廩が充実した。