資治通鑑梁紀四 高祖武皇帝 天監十六年 十七年 517年

正月から三月 梁・北魏の政事

  • 正月辛未、梁の武帝は南郊を祀った。
  • 北魏では法慶の残党である大乗の余賊が再び集まり、瀛州へ乱入した。宇文福の子の延が奴客を率いて防ぎ、火中から父を救い出しつつ奮戦して鎮圧した。
  • 甲戌、北魏は大赦を行った。
  • 北魏初年以来、民間では貨幣使用が定着せず、孝文帝の太和十九年から五銖銭を鋳造していたが、洛陽・諸州・鎮で通用銭がばらばらで商業に支障を来していた。
  • 任城王澄は、禁ずべきは鶏眼銭・環鑿銭の類だけで、その他の大小さまざまな古銭や新鋳銭は土地の便に応じて流通させるべきだと上言した。河北は銭不足がひどく、絹布を裂いて尺度替わりに使うほどだったためである。
  • 詔はこれに従ったが、河北ではなお物々交換が続き、銭は市に十分出回らなかった。
  • また軍功の詐称が多かったため、盧同が勲簿を照合して三百余人の不正受勲者を発見し、券を左右に割って一方を本人、一方を門下に送る制度を整えた。
  • 元匡も景明以来の考簿・除書・勲案を検査して冒階の者を摘発しようとしたが、任城王澄は法が煩苛になると反対し、太后も中止した。代わりに元匡は鎮東将軍を加えられ、二月には東平王に立てられた。
  • 三月丙子、織官の文錦に仙人や鳥獣の文様を織ることを禁じた。裁断の際に生命形象を断つのが仁に背くと考えたためである。

四月 去牲の議

  • 丁亥、北魏の広平文穆王懐が死んだ。
  • 戊申、胡国珍を司徒とした。
  • 梁では、宗廟の牲を用いることは冥道に累を及ぼすとして、すべて麪で代える詔が出された。
  • 朝野は大いに騒ぎ、宗廟が血食を断たれると非難したが、武帝は方針を変えなかった。
  • 八座の議により、ひとまず大脯をもって「一元大武」に代えることになった。

夏から秋 宗廟供饌の改革

  • 八月丁未、北魏では高陽王雍が太師として門下に入り、尚書の奏事を参決するよう命じられた。
  • 十月、梁では宗廟になお脯脩が用いられているとして再議し、大餅で大脯を代用し、そのほかはすべて蔬果とした。
  • また至敬殿・景陽台を建て、七廟の座を設け、毎月二度、清浄な饌を供えた。

晩秋から冬 北魏・柔然・梁の任官

  • 乙卯、北魏は旧都・平城方面に残る士民について、移住していない者はそのまま永業として居住を認めた。
  • 十一月甲子、巴州刺史牟漢寵が叛いて北魏へ降った。
  • 十二月、柔然の伏跋可汗は俟斤尉比建らを派遣して北魏に和を請い、対等な国としての礼を用いた。
  • 梁では馮道根を豫州刺史とした。彼は寡黙で軍紀に厳しく、他将が功を争っても沈黙を守り、政は簡明で、武帝も「彼のいる州は朝廷が存在を忘れるほど安定する」と称えた。
  • 北魏では崔亮が王屋山などで銅を採って銭を鋳ることを請い、許されたが、これ以後私鋳が増え、銭はしだいに薄小となって価値も軽くなった。