資治通鑑梁紀 高祖武皇帝 天監 十年 511年

春正月 張稷・王珍国の怨望

  • 辛丑、武帝は南郊を祀り、大赦を行った。
  • 尚書左僕射の張稷は、自分の功績に比して恩賞が薄いと不満を抱いていた。宴席で酔いに任せて不満を口にすると、武帝は「お前の兄は郡守を殺し、弟は主君を殺した。名誉ある家とは言えまい」と言い返した。
  • 張稷は「自分に名誉がないのは認めるが、陛下は私に勲功がないとは言えない」と応じ、義兵は自分だけでなく皆で起こしたものだと主張した。武帝はその胆力を面白がりつつも警戒し、張稷は恐れと怨みを抱いて外任を求めた。
  • 癸卯、張稷は青・冀二州刺史として出された。
  • 王珍国も同様に不満を抱いていた。梁・秦二州刺史を罷めて帰朝した後、酒席で「このごろ梁山に入るたび涙が出ます」と言ったため、武帝は「東昏侯のことなら遅いし、私のことなら私はまだ死んでいない」と驚き、場はそのまま解散した。
  • 以後、王珍国は疎んじられ、のち都官尚書にされた。

正月―四月 山胡の反乱と北魏の東夏州設置

  • 丁巳、北魏の汾州の山胡・劉龍駒が衆を集めて反乱し、夏州を侵した。
  • 北魏は諫議大夫の薛和に東秦・汾・華・夏四州の兵を率いさせて討たせた。
  • 甲戌、薛和は劉龍駒を破って党与を平定し、さらに東夏州設置を奏上した。

三月―四月 朐山の乱

  • 三月、琅邪の民・王万寿が東莞・琅邪二郡太守の劉晣を殺し、朐山に拠って北魏軍を招いた。
  • 壬戌、北魏の広陽王嘉が死去した。
  • 北魏徐州刺史の盧昶は郯城戍副の張天恵、琅邪戍主の傅文驥を相次いで朐山へ送った。
  • 張稷は青・冀二州の兵でこれを防ごうとしたが勝てなかった。
  • 夏四月、傅文驥らは朐山を占拠したため、梁は振遠将軍の馬仙琕を討伐に派遣した。
  • 北魏も仮安南将軍の蕭宝寅、仮平東将軍の趙遐らを送り、盧昶の指揮下に入れた。

五月―十二月 朐山攻防と北魏軍の大敗

  • 五月丙辰、北魏では張充が尚書左僕射となった。
  • 馬仙琕は朐山を包囲し、張稷は六里に駐屯して補給を監督した。武帝もたびたび兵を増派した。
  • 秋、盧昶は兵六千・米十万石の増援を求めたが、北魏主が与えたのは兵四千のみだった。
  • 冬十一月己亥、北魏主は揚州刺史の李崇らに寿陽で軍備を整えさせ、朐山の梁軍を牽制させようとした。
  • 盧昶は文人出身で軍事に不慣れだったうえ、朐山城内では食糧も薪も尽き、傅文驥は城を挙げて梁に降った。
  • 十二月庚辰、盧昶は真っ先に退却し、諸軍も次々と潰走した。大雪のため凍死や四肢の凍傷が続出し、助かった者はごくわずかであった。
  • 馬仙琕は二百里にわたって追撃し、北魏軍を大破した。糧秣・家畜・器械の鹵獲も数え切れなかった。
  • 盧昶は単騎で逃げ、節や儀衛をすべて失った。郯城で趙遐の節を借りて軍威を装ったが、北魏主は甄琛を派遣して驛でこれを捕え、敗因を厳しく追及し、盧昶・趙遐は免官された。蕭宝寅だけが兵を保って帰った。

年内 北魏の朐山論争と游肇の建議

  • 盧昶が朐山にいた頃、御史中尉の游肇は北魏主に対し、朐山は海辺の狭小で湿潤な土地で、魏にとって急所ではなく、梁にとってのみ利益がある、攻めても守り続ける価値が乏しいと進言した。
  • さらに、梁が宿豫との交換をたびたび求めているなら、それに応じて兵役を解き、旧来の国境を回復する方が利益が大きいと説いた。
  • 北魏主は一時これに従おうとしたが、ちょうど盧昶の敗報が届き、游肇は侍中へ転じた。

年内 馬仙琕の将器

  • 馬仙琕は将として兵と苦楽を共にし、衣服は布帛にとどめ、居所にも帷幕・寝具の贅沢を置かず、飲食も厮養と同じであった。
  • 辺境にいる時はしばしば単身で敵地に潜入し、壁塁・村落・険害を自ら視察したため、攻戦で勝つことが多く、兵も喜んでその命に従った。

年内 北魏洛陽の治安改革

  • 北魏で甄琛が河南尹となると、洛陽の治安悪化を受けて、旧く代都で用いた里宰・主司の制度にならい、里正・経途尉・六部尉の権限を強化するよう奏請した。
  • 八品以下の実務に強い者を選んでそれらの職にあて、俸給も手厚くする案が認められた。
  • さらに羽林兵を巡察隊として坊巷の盗賊取り締まりに用いた結果、洛陽の市中は静まり、この制度は後々まで踏襲された。

年末 梁・北魏の州郡数と梁政の一面

  • この年の梁領内は州二十三、郡三百五十、県千二十二に達した。その後は州名の増減・分合が多く、把握しがたくなる。北魏も同様であった。
  • 武帝は宗族や朝士には情を厚くし、罪を犯しても法を曲げて庇うことが多かったが、百姓には法を厳格に適用し、連座では老人や子どもも免れなかった。逃亡者が出ると家族を人質労役にしたため、民は窮し、かえって奸宄が深まった。
  • 郊祀の際、秣陵の老人が車駕を遮って「庶民には厳しく、権貴には緩い法では長続きしない」と諫め、武帝はようやく民への刑罰緩和を考えるようになった。