資治通鑑梁紀二 高祖武皇帝 天監四年 505年

春正月 学制の整備と儒学振興

  • 高祖は、後漢以来の人材登用は経術に基づいていたのに、魏・晋以来は風俗が浮薄となって儒教が衰えたとして、五経博士を各一人ずつ置き、学館を広く設けて後進を集めるよう命じた。
  • 賀瑒・明山賓・沈峻・厳植之らが博士に任じられ、それぞれ学館を受け持った。各館には数百人の学生がおり、食糧の支給もなされた。試験に通じた者は官吏に取り立てられた。
  • わずか一年で、経書を抱えて学問を求める者が群れ集まった。さらに学生を会稽の雲門山へ送り、何胤に学ばせた。何胤には、経学に明るく品行のよい門弟を選び、その名を朝廷に報告させた。博士祭酒を各州郡に巡行させ、学校設立も進めた。

春正月 夏侯道遷の離反と漢中の喪失

  • もと裴叔業に従って寿陽にいた夏侯道遷は、南譙太守であった頃に裴叔業と不和となり、単騎で北魏へ逃れた。北魏では王粛の配下として合肥を守ったが、王粛の死後に持ち場を捨てて梁へ戻った。
  • 梁では秦梁二州刺史の荘丘黒のもとで長史・漢中太守となったが、荘丘黒の死後、後任の王珍国が到着しないうちに、ひそかに軍中と結んで北魏への降伏を図った。
  • 先に北魏から梁へ亡命していた仇池鎮将の楊霊珍父子が漢中防衛に加わっていたため、道遷はこれを恐れ、朝廷から派遣された使者の呉公之らを殺したうえで兵を起こし、楊霊珍父子も斬ってその首を北魏へ送った。
  • 白馬戍主の尹天宝がこれを聞いて南鄭を攻めたが、道遷は氐の楊集朗の援軍に助けられた。北魏は夏侯道遷を平南将軍・豫州刺史・豊県侯とした。
  • あわせて北魏は邢巒を鎮西将軍として派遣し、漢中方面を攻略させた。道遷は平南将軍号は受けたが、豫州刺史職は辞し、公爵も求めたものの、北魏の君主は許さなかった。

正月・二月 朝廷と北魏の人事

  • 正月辛亥、高祖は南郊で祭祀を行い、大赦した。
  • 乙丑、北魏では高陽王元雍が司空となり、広陽王元嘉に儀同三司が加えられた。
  • 二月丙子、北魏は宕昌世子の梁弥博を宕昌王とした。

二月 対魏軍事と交州平定

  • 高祖は北魏討伐を計画し、衛尉卿の楊公則に宿衛兵を率いさせて洛口をふさがせた。
  • 壬辰、交州刺史の李凱が州を挙げて反乱したが、長史の李畟がこれを討って鎮圧した。

閏二月から夏 邢巒の進撃と梁州の失陥

  • 邢巒は漢中に到着すると諸城戍を次々に攻略した。晋寿太守の王景胤が石亭に拠ったが、北魏軍はこれを追い払った。
  • 北魏は邢巒を梁秦二州刺史とし、巴西太守の龐景民が抵抗すると、郡民の厳玄思が自ら巴州刺史を称して北魏に付き、龐景民を斬った。
  • 楊集起・楊集義は、北魏の漢中制圧を恐れて氐族を率い、北魏に叛いて漢中への補給路を断ったが、邢巒にたびたび破られた。
  • 四月、孔陵ら二万の兵が深杭を守り、魯方達は南安、任僧褒らは石同を守って北魏を防いだが、王足の進軍を受けて敗退した。北魏軍は剣閣に入り、梁軍は梓潼へ退いた。
  • この結果、梁州十四郡、東西七百里・南北千里の地が北魏の手に入った。

益州方面 鄧元起の失政と蕭淵藻の到着

  • 益州刺史の鄧元起は母の老いを理由に帰還を願い出て、右衛将軍への召還が決まり、西昌侯蕭淵藻が後任となった。
  • 夏侯道遷の叛乱や晋寿の危急が伝えられた際、諸将は鄧元起に急援を勧めたが、元起は侵攻が深まってから自分が討つべきだとして出兵を急がなかった。やがて朝廷は元起に征討諸軍事を仮授したが、その頃には晋寿はすでに陥落していた。
  • 蕭淵藻の着任が近づくと、鄧元起は営中の装備・食糧・器械を持ち去ってしまった。これを恨んだ蕭淵藻は、さらに良馬を求めて拒まれると、酒席の勢いもあって鄧元起を殺した。
  • 元起の配下は城を囲んで理由を問うたが、淵藻は詔命によると称して散らせ、さらに元起を謀反人として訴えた。高祖は疑いを持ち、元起の旧吏の訴えを聞いて真相を悟った。淵藻は冠軍将軍へ降格され、鄧元起には征西将軍を追贈し、忠侯と諡した。

益州 焦僧護の乱

  • 益州では焦僧護が兵を集めて反乱した。蕭淵藻はまだ若年であったが、自ら討伐を議し、反対意見を述べた者を怒って斬った。
  • そのうえで平肩輿に乗って賊営の周囲を巡察し、矢が雨のように降っても楯で防ぐのを禁じたため、人心は落ち着いた。ついに焦僧護らを討ち平らげた。

六月から九月 孔子廟創建と各地の戦況

  • 六月庚戌、初めて孔子廟が立てられた。
  • 豫州刺史の王超宗は北魏の小峴を包囲したが、魏の薛真度の反撃を受けて敗れた。
  • 王景胤・李畎・魯方達らも王足との戦いでたびたび敗れ、七月には王足が涪城へ迫った。
  • 八月、北魏の中山王英が雍州へ侵攻した。魯方達は王足・紀洪雅・盧祖遷らとの戦いで敗れ、十五将が戦死した。続いて王景胤らも敗れ、二十四将が死んだ。
  • 楊公則は洛口で北魏豫州長史の石栄を斬り、さらに羊石で戦ったが不利となって馬頭へ退いた。雍州の蛮の田青喜は北魏に降った。

秋 北魏宮中の芝と崔光の諫言

  • 北魏では太極殿西序に芝が生えた。君主が侍中の崔光に見せると、崔光はこれを瑞兆とみなさず、湿地に生える柔弱な菌類が宮殿に現れたのは異変であり、古来こうした怪異は政治の乱れを戒めるものだと上表した。
  • さらに、西南二方面で戦乱がやまず、都の近辺でも旱魃が続いていることを挙げ、宴楽を節し、民をいたわるよう諫めた。北魏の君主が宴楽を好んでいたため、崔光は特にその点を突いた。

九月から冬十月 洛口の大挙北伐

  • 九月己巳、楊公則は北魏の揚州刺史元嵩と戦って敗れた。
  • 冬十月丙午、高祖は大規模な北伐を発し、臨川王宏を総司令官、柳惔を副将とした。王公以下に国租や職田の穀物を差し出させて軍資に充てた。宏は洛口に進軍した。

冬 仇池楊氏の自立と北魏の蜀攻略論

  • 楊集起・楊集義は楊紹先を帝に立て、自らも王を称した。
  • 十一月、北魏は楊椿を派遣してこれを討たせた。
  • 同じ頃、王足は涪城を囲み、蜀では恐慌が広がった。益州配下の城戍にも北魏へ降る者が相次ぎ、戸籍に名を載せて帰順した民は五万余戸に及んだ。
  • 邢巒は北魏の君主に上表し、梁州を得た勢いに乗って蜀を攻略すべきだと論じた。成都は外援に乏しく、近年の戦乱で蓄えも乏しいこと、蕭淵藻が若く政務に不慣れなこと、剣閣を押さえてすでに要害の一部を奪っていること、涪城が落ちれば益州は中分されることなどを挙げて、好機を逃すべきではないとした。
  • また、巴西・南鄭方面は州治から遠く、豪族や氐・獠を抑えるには現地に州鎮を置くべきだとも進言した。北魏の君主は全面的には採らなかった。
  • 先に王足を行益州刺史としていたが、後に羊祉へ差し替えたため、王足は不満を抱いて独断で軍を引き揚げ、蜀平定は成らなかった。やがて王足は北魏から梁へ亡命した。
  • 邢巒は梁州で豪族には礼をもって接し、小民には恩恵を施したため、人心を得た。ただし巴西守将の李仲遷を置いたところ、仲遷は酒色に溺れて兵糧を浪費し、叛意を抱いたため、城人に斬られて巴西城は梁へ帰順した。

十二月 その年の諸事

  • 十二月庚申、北魏は源懐を武興氐討伐に派遣し、邢巒らの節度を受けさせた。
  • 謝朏は母の喪で司徒・尚書令を辞した。
  • この年は大豊作で、米一斛三十銭という安値であった。