資治通鑑宋紀十一 世祖孝武皇帝 大明 六年 462年
正月〜二月・明堂祀典と秀孝策問
- 春正月、北魏の楽浪王万寿が死去した。
- 宋では初めて明堂で五帝を祀り、大赦を行った。
- 丁未、秀才・孝廉に中堂で策問した。
- 揚州秀才の顧法は、為政者の身が正しければ教化も刑政も整うとして、宮中の私生活の謹みこそ天下を化す根本だと答えた。皇帝はその率直さを憎み、策を地に投げた。
- 二月、百官の俸禄を元に戻した。これは元嘉二十七年の軍興以来削減されていたものである。
三月・沈懐文の死
- 三月、子元を邵陵王に封じた。
- 侍中沈懷文は、もとより直諫で皇帝の意に逆らうことが多く、また顔竣・周朗と親しかった。
- 皇帝は顔竣について「もし私が彼を殺すと知っていれば、あれほどにはできなかったろう」と言い、懷文は黙した。
- さらに侍中王彧が顔竣・周朗の才能を賞する話をすると、懷文もこれに和したため、顔師伯がそのことを皇帝に告げ、皇帝はますます不快に思った。
- 皇帝が雉を射に出た際、暴風雨に遭うと、懷文・王彧・江智淵は連名で諫める約束をした。召し入れられた場で懷文がまず「この風雨の中、聖躬が身を冒すべきではない」と言い、王彧も賛同した。
- 江智淵がまだ口を開かぬうちに、皇帝は弩を手に怒色を示して「顔竣のまねをする気か。なぜいつも人事に口を出す」と罵った。
- 以後も、皇帝は燕集のたびに人々を酔わせて嘲弄したが、懷文は酒も飲まず、戯れにも応じないため、故意に自分と違う態度を取る者と思われた。謝荘は長く続くまいと忠告したが、懷文は「生来こうなのだから変えられない」と答えた。
- 皇帝は懷文を晋安王子勛の征虜長史・広陵太守として外へ出した。
- 懷文は元正朝会で建康に来た後、娘の病を理由に帰任延期を願ったが、なお発たないうちに免官・禁錮十年となった。
- さらに家を売って東方へ帰ろうとしたことを聞いた皇帝は激怒し、廷尉に下して丁未に死を賜った。三子の澹・淵・冲が泣いて助命を請い、人々の同情を集めたが、柳元景の婉曲な助命工作も実らなかった。
四月〜六月・殷淑儀の死と北魏西方情勢
- 四月、殷淑儀が死去した。もとは義宣の家にいた女性とされ、皇帝はこれを痛く悼み、心神を失うほどで政務も滞りがちになった。
- 追って貴妃に上げ、宣と諡した。
- 五月、太宰義恭は司徒領職を解かれた。
- 六月、東昌文穆公劉延孫が死去した。東昌国の位置や沿革が注される。
- 北魏主は陰山へ赴いた。
- 北魏では石楼胡の賀略孫が反乱し、長安鎮将陸真がこれを平定した。続いて長蛇鎮を築くよう命じられ、氐の豪族仇傉檀の反乱も平定し、城を完成させて帰還した。
七月・仏教礼法改定
- 七月、北魏主は河西へ赴いた。
- 皇子子雲を晋陵王に封じたが、その日のうちに死去し、孝初と諡した。
- このころ、沙門が王者に礼を尽くすべきかが議論となった。以前、東晋の庾冰や桓玄が王者への敬礼を求めたが、実施には至っていなかった。
- 今回、皇帝は有司に議させ、儒・法・名・墨は流派が違っても親と君を敬う根本は同じであるのに、仏教だけが経伝の末流に拘って親と君への礼を欠いているのはおかしいと論じた。
- その結果、沙門は人主に会う際には礼敬を尽くすべきだと決め、九月戊寅にその制を公布した。のち廃帝即位後、旧に復した。
九月〜十月・朝廷人事と殷貴妃の葬送
- 乙未、劉遵考を尚書左僕射、王僧朗を右僕射に任じた。王僧朗は王彧の父である。
- 十月、宣貴妃を龍山に葬った。
- 岡を穿って数十里の道を通し、民衆は重労働に苦しみ、死者・逃亡者が多く出た。江南でこれほど盛大な葬送は前代未聞とされた。
- さらに貴妃のために別廟まで立てたが、古礼に反し、皇帝の女寵への溺れを示すものと評された。
十月〜冬・祖冲之の新暦
- 北魏の員外散騎常侍游明根らが来聘した。
- 柳元景に尚書令を加えた。
- 北魏主は平城へ帰還した。
- 南徐州の従事史祖冲之が、何承天の暦法にはなお多くの誤差があるとして、新しい暦を上奏した。
- 祖冲之は、冬至位置が百年足らずで二度もずれてしまう旧法を批判し、毎年微差で調整できる方式を示した。また、北方の基準星・甲子紀年・日月五星の元点設定についても整合的な理論を示した。
- 皇帝は暦学者に反論させたが、祖冲之を屈服させられず、実施を考えたものの、皇帝の崩御で実現しなかった。