資治通鑑宋紀九 太祖文皇帝 元嘉 三十年 453年

春正月:人事異動と北魏・西方情勢

  • 戊寅、南譙王義宣が司徒・揚州刺史に任じられた。義宣に揚州を与える方針自体は以前からあったが、この時になって正式に命令が出された。
  • 蕭道成らが氐・羌を率いて北魏の武都を攻めたが、北魏の高平鎮将・茍莫于が精鋭騎兵二千で救援に来たため、宋軍は南鄭へ退いた。胡三省は、ここでの蕭道成の退却を、危険を見て無理をしない適切な判断だったとする。
  • 壬午、始興王濬が征北将軍から荆州刺史に移された。文帝はなお濬への怒りを解いておらず、長く京口に留めていたが、この任命によって初めて入朝を許した。

江州方面と厳道育の捜索

  • 戊子、武陵王駿に諸軍を統率させ、西陽蛮を五洲で討たせた。五洲は江夏方面の江中の地である。
  • 厳道育が逃亡すると、文帝は使者を分けて厳重に捜索させた。厳道育は尼に変装して東宮に潜み、また始興王濬に従って京口にも移動し、さらに民家にも身を寄せた。
  • 濬が入朝すると、厳道育も再び東宮へ運び戻され、さらに江陵へ連れて行こうとしていた。
  • 丁巳、文帝が濬を引見して荆州刺史の任命を授けたが、その当日に「厳道育が張旿の家にいる」との密告があった。捜索で婢二人が捕えられ、厳道育が征北将軍の一行に従って都へ戻ったことが判明した。
  • 文帝は、濬と太子劭が厳道育を遠ざけたはずなのに、なお交際していたと知って、深く失望し驚いた。京口から婢を送らせて裏を取った上で、劭と濬の罪を裁こうとした。

潘淑妃の嘆きと文帝の廃立構想

  • 潘淑妃は濬を抱いて泣き、以前の呪詛事件に続いて、なぜまた厳道育を匿ったのかと責めた。自ら毒薬を飲んで死にたいとまで言い、濬の破滅を見たくないと嘆いた。
  • これに対し濬は、やがて事態は決着すると言って母を慰め、自分に累が及ぶまいと豪語した。胡三省は、その言葉に逆心の兆しが現れていると見る。
  • 己未、北魏では京兆王杜元宝が謀反の罪で誅され、建寧王崇とその子・済南王麗も連座して死を賜った。
  • 文帝は太子劭を廃し、始興王濬に死を賜うことを考え、侍中王僧綽と相談した。僧綽には、漢魏以来の廃太子・諸王処分の先例を調べさせた。
  • 徐湛之と江湛にも相談したが、江湛は南平王鑠の擁立を望み、徐湛之は随王誕を推した。胡三省は、両人が公より私を先にしたと評している。
  • 王僧綽は、もし廃立するなら早く決断すべきで、迷って引き延ばせばかえって乱を招くと強く進言した。もし処断しないなら、父子の情に立ち返って疑いを解くべきだとも述べた。
  • 文帝は、彭城王義康を死なせたばかりで、さらにわが子を処分すれば、慈愛に欠けると後世に言われることをためらった。僧綽は、後世には「弟は切れたが子は切れなかった」と評されるだろうと応じた。

文帝の優柔不断と太子側の逆謀

  • 武陵王駿は日頃寵愛が薄く、外藩に出され続けていた。一方、南平王鑠と建平王宏は文帝の寵を受けており、鑠が都へ来ると、文帝はこれを立てる意も抱いたが、年次の順序に問題があり決断できなかった。
  • 文帝は夜ごと徐湛之と人払いして密談し、盗み聞きを恐れて、徐湛之に自ら燭を持たせて壁際を確かめさせるほどだった。
  • しかし文帝はこの計画を潘淑妃に漏らし、淑妃はそれを濬に伝え、濬は急いで劭に知らせた。胡三省は、重大な謀議を婦人に及ぼしたこと自体が誤りだったと厳しく評している。
  • こうして劭は腹心の隊主・陳叔児、斎帥・張超之らとひそかに弑逆を謀った。
  • もともと文帝は宗室の強盛を恐れ、東宮の兵力を羽林に匹敵するほど増やし、実甲一万人に達していた。
  • 劭は狡猾で剛猛な性格で、文帝も深く頼っていた。乱を起こす前には、毎夜将士に酒食をふるまい、自ら酌をすることさえあった。王僧綽はこの不穏な動きをひそかに文帝へ告げていたが、文帝はなお決断しなかった。胡三省は、ここまで逆状が明白なのに処断できなかったのは、天がその明を奪ったようなものだとする。

癸亥夜から甲子未明:劭の宮中クーデター

  • 厳道育の婢が都へ着こうとする直前、癸亥の夜、劭は「魯秀が謀反した。明朝、闕を守って兵を率いて入れ」という偽詔を作った。
  • 張超之らに命じて、かねて養っていた兵二千余を集め、皆に甲冑を着せたうえで、内外の幢隊主らも招集し、討伐があるとして配置を整えた。
  • 夜中、前中庶子で右軍長史の蕭斌、左衛率袁淑、中舎人殷仲素、左積弩将軍王正見らを呼び入れ、劭は涙を流して「天子が讒言を信じ、近く自分は廃される。明朝、大事を行う」と訴え、協力を求めて一人一人に拝礼した。
  • 袁淑と蕭斌は、古今に例のないことだとして思いとどまるよう勧めた。だが劭が怒ると、蕭斌は恐れて従う姿勢を見せた。袁淑は、劭が幼いころの病気の再発ではないかと装って諫め、たとえ成功しても天地に容れられず大禍が続くと述べた。
  • 劭はますます怒り、袁淑を退けた。袁淑は宿舎に戻って夜明け近くまで眠れなかった。
  • 甲子の朝、宮門がまだ開かぬうちに、劭は朱衣の上に武装し、画輪車に乗って、平常の入朝と同じ体裁で蕭斌とともに出発した。
  • 袁淑にも同乗を強く求めたが、袁淑は応じなかった。劭は奉化門で門が開くのを待ち、万春門から入城した。
  • 東宮の衛兵は本来台城内に入れない決まりだったが、劭は偽詔を門衛に見せて収捕の命だと言い、後続も急がせた。張超之ら数十人は雲龍門・斎閣を経て、刀を抜いて合殿へ直進した。

文帝・徐湛之・顧嘏・江湛らの死

  • この夜、文帝は徐湛之と人払いして語り明かしており、明け方になっても燭は消えていなかった。門や階の宿衛はまだ寝ていた。
  • 張超之が押し入ると、文帝は几を取って防いだが、指を切り落とされ、そのまま殺害された。享年四十七。
  • 徐湛之は驚いて北戸から逃げようとしたが間に合わず、兵に殺された。
  • 劭は合殿中閤まで進み、文帝がすでに死んだと知ると東堂に出て座した。蕭斌は刀を執ってそばに立った。
  • 中書舎人顧嘏が呼び出されると、劭は「自分が廃されるのを知りながら、なぜ早く告げなかった」と責め、その場で斬った。
  • 江湛は禁中の上省で騒ぎを聞き、「王僧綽の言を用いなかったためにこうなった」と嘆き、小部屋に隠れたが、劭の兵に見つかって殺された。

卜天与らの抗戦、潘淑妃の殺害、始興王濬の合流

  • 宿衛の旧将羅訓・徐罕らは風向きを見てすぐ屈服した。
  • だが左細仗主・広威将軍の卜天与は、甲冑を着る暇もなく刀と弓を持って奮戦し、劭に矢を放ってあわや命中させかけた。結局、腕を断たれて戦死した。張泓之・朱道欽・陳満もともに戦死した。
  • 左衛将軍尹弘は恐れて処分を請い、劭は東閤から兵を入れて潘淑妃および文帝の側近数十人を殺した。
  • 劭は急いで始興王濬を召し、中堂に兵を置かせようとした。濬の府舍人・朱法瑜は、台内の異変を告げて石頭に拠るよう勧めたが、濬は迷い、ついに南門から石頭へ向かった。
  • 石頭には南平王鑠の兵も千余いたため、十分に討逆できる兵力があった。だが張超之が劭の召命を伝えると、濬は事態を確かめたうえで宮中へ赴いた。
  • 王慶は、君父の安危未明のときに城を守って様子を見るのは臣節に反すると言って諫めたが、濬は聞かなかった。
  • 劭は濬に対して、潘淑妃は乱兵に殺されたと偽った。濬は「それは人々が以前から望んでいたことだ」と答えた。胡三省は、この言葉に父母を害する獣にも比すべき心を見ている。

劭の即位と朝廷の掌握

  • 劭は大将軍義恭と尚書令何尚之を偽詔で呼び入れて拘束し、百官を召したが、参集した者は数十人に過ぎなかった。
  • 劭は急いで即位し、徐湛之・江湛が逆をなしたので、自分が兵を率いて殿中に入ったが間に合わなかった、と偽って布告した。年号を太初に改め、大赦を行った。
  • だが即位後すぐに病と称して永福省へ退き、喪にも臨まず、白刃をそばに置いて身辺を固めた。夜は灯火を並べて警戒した。
  • 蕭斌を尚書僕射・領軍将軍とし、何尚之を司空とした。檀和之に石頭、営道侯義綦に京口を守らせた。
  • 乙丑、各所に配置していた兵を回収して武庫に集め、江湛・徐湛之の一族や党与も殺した。殷仲素・王正見・張超之・陳叔児らの協力者には官賞を与えた。
  • 魯秀には、徐湛之が以前から彼を害そうとしていたので、自分が除いたのだと告げ、龐秀之とともに軍隊を掌握させた。
  • 劭は王僧綽が文帝の謀議に関与していたことをまだ知らず、吏部尚書に任じた。胡三省は、ここで僧綽が官を受けずにのち死をもって節を全うしたと評している。

三月:武陵王駿の挙兵

  • 武陵王駿は五洲に屯していた。沈慶之が巴水方面から来て軍略を受けていた。
  • 三月乙亥、典籤董元嗣が建康から五洲に至り、太子劭が父を弑したことを詳しく報じた。駿はこれを僚佐に示して挙兵の準備に入った。
  • 沈慶之は腹心に、蕭斌は臆病で、そのほかの将帥も組しやすく、東宮の真の同党は三十人ほどにすぎず、他は脅されて従っているだけだから、順を助け逆を討てば必ず成功すると語った。

北魏の外戚優遇と劭の新体制

  • 壬午、北魏主は保太后を皇太后に尊び、その祖先や兄弟にも外戚同様の官爵を与えた。胡三省は、私恩が過度だと見る。
  • 劭は浙東五郡を分けて会州を置き、揚州を廃して司隷校尉を立てた。魏晋の都城制度をまねて京畿を治めようとしたもので、妃の父・殷冲を司隷校尉にした。
  • 義恭を太保、南譙王義宣を太尉、始興王濬を驃騎将軍、臧質を丹陽尹、随王誕を会州刺史とし、勢力の分配を図った。
  • 劭は文帝の秘蔵文書や江湛の家の書簡を調べ、王僧綽が将士の饗応や廃太子先例について文帝に上申した文書を発見した。
  • 甲申、王僧綽を捕えて殺した。弟の王僧虔には周囲が逃亡を勧めたが、兄とともに死ねるならむしろ本望だと泣いた。
  • 劭はさらに、北第の諸王侯が王僧綽とともに謀反を図ったと誣告し、長沙王瑾・臨川王曄・桂陽侯覬・新渝侯玠ら、自分の嫌う者たちを殺した。

沈慶之の決断と軍府整備

  • 劭は沈慶之に密書を送り、武陵王駿を殺せと命じた。慶之は拝謁を求めて、避ける駿のもとへ強引に入り、その書を見せた。
  • 駿は母と別れたいと泣いたが、慶之は、先帝の厚恩に報いるため、今日は力の限りを尽くすのみだと言い、駿の疑いを晴らした。
  • 顔竣は、各地の呼応を待ってから挙兵すべきだと慎重論を述べたが、沈慶之は、いま黄口の小児までが大事に口を出しては失敗すると怒り、斬るとまで言った。駿は顔竣に謝らせ、以後、軍事はもっぱら慶之に委ねた。
  • 旬日のうちに軍内外は整い、当時の人は神兵のようだと評した。胡三省は、旧儀に通じる白髪の老人が現れたという伝承は、武帝の神霊の加護を示して人心を奮い立たせるための話だろうと見る。
  • 庚寅、駿は戒厳を敷いて将士に誓わせ、沈慶之を府司馬、柳元景・宗慤を諮議参軍兼中兵、朱修之を平東将軍として軍を編成し、顔竣には録事を兼ねて内外総管を任せた。劉延孫は長史として尋陽留府を預かった。

義宣・臧質・魯爽の呼応

  • 南譙王義宣と雍州刺史臧質は劭の命を受けず、司州刺史魯爽とともに兵を挙げて駿に呼応した。
  • 臧質と魯爽は江陵で義宣に会い、あわせて武陵王駿へ即位を勧める使者を送った。
  • 辛卯、臧質の子・敦ら建康にいた者たちは、父の挙兵を聞いて逃亡した。劭は懐柔の詔を出して、臧質は国戚功臣であり子弟の逃亡は怪しむべきことだが、復位させるから帰るよう説得せよとした。
  • しかしほどなく敦を捕え、大将軍義恭に命じて三十杖の訓戒刑を加えさせ、なお厚く賜与した。外戚への遠慮を示した措置だった。

太祖の葬送と義軍の進発

  • 癸巳、劭は文帝を長寧陵に葬り、景皇帝・廟号中宗と諡した。胡三省は、正史がこれを採らず、のち孝武帝が改めた諡号・廟号を用いたのは、劭の逆を正すためだとする。
  • 乙未、武陵王は西陽を発し、丁酉に尋陽へ着いた。
  • 庚子、顔竣が四方へ檄を飛ばし、州郡は一斉にこれに応じた。
  • 義宣は臧質を尋陽へ進めて駿とともに東下させ、自らは魯爽を江陵に留めた。
  • 劭は蕭思話を徐兗二州刺史、張永を青州刺史に任じたが、蕭思話は歴城から部曲を率いて彭城へ戻り、尋陽側に呼応して挙兵した。垣護之もまた歴城から兵を率いてこれに加わった。
  • 義宣は張永を冀州刺史に任じ、司馬崔勲之らを派遣して兵を送らせた。
  • 義宣は、蕭思話と張永が旧怨から協力しないことを恐れ、自ら思話に書を送り、長史張暢にも張永への書を持たせて、わだかまりを解いて協力するよう説いた。

会稽の随王誕も起つ

  • 随王誕は劭の会州刺史任命を受けようとしていたが、参軍沈正が司馬顧琛に、父も君もない国家などありえず、いまこそ江東の精兵をもって大義を唱えるべきだと力説した。
  • 顧琛は、江東は久しく戦を忘れ、建康は強くこちらは弱いので、各地の義挙を待つべきだと慎重だった。
  • 沈正は、自ら仇恨を抱きつつ他方に義を求めるのは誤りであり、義は君臣父子の大義にあると説き、ついに顧琛とともに誕を説得して、誕も劭に背いた。

劭の備えと朝廷内の動揺

  • 劭は、自分は武事に通じているから、朝士は文書だけ処理していればよい、敵が来れば自分が対処すると豪語していた。だが諸方で兵が起こると、ようやく不安になった。
  • そこで下番の宿衛将吏をすべて呼び戻し、淮南の住民を北岸へ移して、秦淮を障壁にしようとした。
  • 諸王や大臣もすべて城内に集め、義恭とその子らを分けて監視下に置いた。

四月:義軍の東進と新亭前夜

  • 四月癸卯朔、柳元景が薛安都ら十二軍を率いて湓口を発ち、徐遺宝が荆州の兵で続いた。
  • 丁未、武陵王は尋陽を発し、沈慶之が中軍を総べて従った。
  • 劭は妃の殷氏を皇后に立てた。
  • 庚戌、武陵王の檄文が建康に届くと、劭は太常顔延之に誰の筆かと尋ねた。延之が顔竣の筆だと答えると、劭は言辞の激しさを怪しんだが、延之は「竣は老臣すら顧みないのだから、まして陛下を顧みるはずがない」と言い、怒りをやや和らげた。
  • 劭は武陵王や義宣の子らを拘束し、荆・雍・江三鎮の兵民の家族を皆殺しにしようとしたが、義恭と何尚之が、むしろ敵の決意を固めるだけだと諫めたため取りやめた。胡三省は、何尚之父子が時勢に応じて身を保ちつつも、結果的には三鎮の家族を救った点を評価している。
  • 劭は朝廷の旧臣を信用せず、魯秀と王羅漢を厚遇して軍事を委ね、蕭斌を謀主、殷冲を文書統括とした。

劭と義恭の軍議

  • 蕭斌は、水軍を率いて上流へ出て決戦すべきで、そうでなければ梁山に拠るべきだと主張した。
  • 江夏王義恭は、南軍は急造で船も粗末だから水戦に利がなく、いま遠く梁山まで出れば都が手薄になり、東軍すなわち会稽の随王誕軍に乗じられるおそれがあると論じた。
  • その上で、南岸の柵を捨て、石頭を断って台城に籠り、敵の隙を待つのが先朝以来の守城法だと述べた。劭はこれをよしとした。
  • だが蕭斌は、武陵王駿は若いが侮れず、義宣・臧質・駿の三方面が上流を握り、沈慶之・柳元景・宗慤はいずれも熟達した将だから、小敵ではないと反論し、速戦を強く勧めた。
  • 劭は結局これを採らず、日々自ら出て兵を慰労し、都水に命じて船艦を整備させた。

鵲頭から江寧へ

  • 壬子、劭は淮南岸の民家や船舫を焼き払い、住民を北岸へ移した。
  • 子の偉之を皇太子に立て、始興王濬・南平王鑠・建平王宏らにも官を加えた。褚湛之を丹陽尹、濬を侍中・中書監・司徒録尚書事とした。
  • しかし龐秀之が石頭から真っ先に南軍へ奔ると、人心は大きく動揺した。
  • 癸丑、武陵王は鵲頭に軍を進めた。宣城太守王僧達は檄文を受けて去就に迷ったが、客の助言に従い、自ら道を伺いながら南へ奔って鵲頭で武陵王に会い、長史に任ぜられた。
  • 沈慶之は、王僧達は必ず来ると前から見抜いていたという。かつて文帝の前での議論ぶりに、その人物の決断を見ていたためである。
  • 柳元景は船艦が脆弱で水戦を嫌い、急行して丙辰に江寧へ歩兵を上陸させ、薛安都に騎兵を率いさせて淮上で兵威を示した。さらに朝士に書を送り、順逆の理を説いた。
  • 吳興太守周嶠も随王誕の檄を受けたが、もとより優柔不断で決めかねていたため、府司馬丘珍孫に殺され、郡は誕に応じた。
  • 戊午、武陵王が南洲に到着すると、降る者が続出した。己未、軍は溧州に進んだ。
  • ここまでの行軍中、武陵王は病が重く、将佐に姿を見せられないほどだった。顔竣だけが臥所に出入りし、軍政も文書もほとんど一手に裁断した。舟中の兵ですら王の病篤いことを知らなかった。

新亭の戦い

  • 癸亥、柳元景はひそかに新亭へ進み、山を背に塁を築いた。新たに降った者たちは速攻を勧めたが、元景は、こちらは大義に立つとはいえ、敵も利害で固まっているので、軽進して備えを欠けばかえって敵を利するとして慎重に構えた。
  • 劭方の龍驤将軍詹叔児は元景の未完成の営を探知し、出撃を勧めたが、劭は当初これを許さなかった。
  • 甲子、劭はついに蕭斌に歩軍、褚湛之に水軍を率いさせ、魯秀・王羅漢・劉簡之の精兵を合わせて一万人で新亭塁を攻めた。自らも朱雀門に登って督戦した。
  • 柳元景は前もって、鼓が多いと士気はかえって萎え、叫びが多いと力も尽きるから、ひたすら黙って戦い、自分の鼓だけを合図にせよと命じていた。
  • 劭軍は厚賞を頼みに必死に戦い、元景軍は水陸から圧迫されながらも士気を増した。元景は側近を残すのみで、兵はすべて戦列に出した。
  • 劭軍が勝ちかけたとき、魯秀が誤って退却鼓を打ったため、軍勢が一斉に止まった。元景はただちに塁門を開いて鼓噪し、これに乗じて大破した。淮に落ちて死ぬ者が多く、さらに劭が自ら残兵を率いて再攻したが、またも大敗し、死馬澗は死傷者であふれた。
  • 劭は退く者を自ら斬っても止められず、劉簡之は戦死し、蕭斌も負傷した。劭は辛うじて身だけで宮へ逃げ帰った。
  • 魯秀・褚湛之・檀和之は南軍へ奔った。

武陵王の即位準備

  • 丙寅、武陵王は江寧に到着した。
  • 丁卯、江夏王義恭は単騎で南軍へ奔り、劭は義恭の十二子を殺した。
  • 劭と濬は窮して策なく、輦に蔣侯神像を迎え入れ、宮中に安置して額ずき、大司馬・鍾山王に封じて加護を祈った。蘇侯神には驃騎将軍を授けた。胡三省は、蘇侯神は蘇峻だと注す。
  • 濬は南徐州刺史とされ、南平王鑠とともに録尚書事を加えられた。
  • 戊辰、武陵王が新亭に進軍すると、義恭は上表して即位を勧めた。散騎侍郎徐爰は殿中にいて、義恭を追ったふりをして武陵王のもとへ帰順した。軍府はまだ草創で即位儀礼に疎かったため、徐爰が太常丞を兼ねて即位儀注を作った。
  • 己巳、武陵王は皇帝に即位し、大赦を行い、文武に爵一等、従軍者には二等を加えた。
  • 文帝には文皇帝の諡と太祖の廟号を贈り、義恭を太尉・録尚書六条事・南徐州刺史とした。
  • 同日、劭もまた太子偉之を正式に立てて赦令を出したが、劉駿・義恭・義宣・誕だけは赦免対象から外した。

新政権の人事と東西からの圧迫

  • 庚子、義宣を中書監・丞相・録尚書六条事・揚州刺史、誕を衛将軍・開府儀同三司・荆州刺史、臧質を車騎将軍・開府儀同三司・江州刺史とした。
  • 沈慶之を領軍将軍、蕭思話を尚書左僕射に任じた。
  • 壬申、王僧達を右僕射、柳元景を侍中・左衛将軍、宗慤を右衛将軍、張暢を吏部尚書、劉延孫・顔竣を侍中とした。
  • 五月癸酉朔、臧質は雍州兵二万を率いて新亭に到着した。
  • 豫州刺史劉遵考も、将の夏侯献之に歩騎五千を率いさせて瓜歩に布陣させた。
  • 先に顧彬之が東方へ進んで随王誕の指揮下に入り、誕は劉季之らを建康へ向かわせ、自身は西陵に屯して後詰めとなっていた。
  • 劭は殿中将軍燕欽らをこれに当てたが、曲阿の奔牛塘で敗れた。そこで秦淮沿いに柵を立て、破崗・方山の堰を切って東軍の進路を絶とうとした。
  • 男丁を使い果たしたため、女まで召し出して土木役に使った。

台城陥落

  • 甲戌、魯秀らが勇士を募って大航を攻め落とした。王羅漢は官軍がすでに渡ったと知ると武器を捨てて降り、渚沿いの諸隊も次々に潰走した。武具や鼓蓋が道路を埋めた。
  • その夜、劭は台城の六門を閉ざし、門内に塹を掘って柵を立てたが、城中は大混乱となった。丹陽尹尹弘ら文武の将吏は争って城を越えて降った。
  • 劭は宮庭で輦や衮冕を焼き払った。蕭斌は自軍に甲を解かせて石頭から白旗を掲げて降り、詔によって軍門で斬られた。
  • 濬は宝貨を積んで海へ逃げるよう劭に勧めたが、人心が散っており実行できなかった。
  • 乙亥、朱修之が東府を攻略した。
  • 丙子、諸軍は台城を陥れ、それぞれ諸門から入り、殿庭で合流した。王正見を捕えて斬り、張超之は合殿の御床の辺りで兵に殺され、遺体は激しく辱められた。
  • 建平王ら七王が泣きながらそろって出てきた。胡三省は、劭がこの七王を宮中に拘束していたためだと注す。
  • 劭は西垣を穿って武庫の井戸に隠れたが、隊副高禽に捕えられた。劭はなお天子の所在を問うたが、高禽は新亭におられると答えた。
  • 劭は臧質に会うと、天地の容れない自分を見て、なぜ泣くのかと問うた。さらに遠流にしてもらえないかと頼んだが、質は皇帝の処分を待つしかないと答えた。
  • 伝国璽が見当たらず問われると、劭は厳道育の所にあると言い、取り返された。
  • 劭とその四子は牙門の下で斬られた。

濬の最期と逆党の処分

  • 濬は左右数十人を率い、南平王鑠を脅して南へ逃げたが、越城で義恭に出会った。濬はなお官職を得て自効したいと願ったが、義恭は取り合わず、同行させたうえで道中で濬とその三子を斬った。
  • 劭・濬父子の首は大航にさらされ、市中で晒しものとなった。
  • 劭妃の殷氏、劭と濬の女たち、妾媵は獄中で死を賜った。劭の居所は汚され、水をためて廃絶の刑とした。
  • 殷氏は刑死に際し、獄丞江恪に、そなたの家でも骨肉相残しているのに、なぜ無罪の自分まで殺すのかと言った。江恪は、皇后を受けたこと自体が罪だと答えた。殷氏は、あれは一時の権宜にすぎず、本当は鸚鵡が后になるはずだったと述べた。胡三省は、褚湛之が南軍に奔った際、濬が褚妃と離縁していたため、彼女は誅を免れたと注す。
  • 厳道育と王鸚鵡は都の街頭で鞭殺され、遺体は焼かれ、灰は江に流された。
  • 殷冲・尹弘・王羅漢・淮南太守沈璞らも処刑された。沈璞は于湖を守りながら義軍を迎えなかったためである。

五月下旬:秩序回復と追贈

  • 庚辰、戒厳が解かれた。
  • 辛巳、皇帝は東府へ赴き、百官が罪を請うたが、これを赦した。
  • 甲申、帝の母・路淑媛を皇太后に尊んだ。胡三省は淑媛の制度上の位置を注している。
  • 乙酉、妃の王氏を皇后に立てた。父の王偃は王導の玄孫である。
  • 戊子、柳元景を雍州刺史とした。
  • 辛卯、袁淑を太尉・忠憲公、徐湛之を司空・忠烈公、江湛を開府儀同三司・忠簡公、王僧綽を金紫光禄大夫・簡侯として追贈した。いずれも劭に抗し、あるいはそのために死んだことを顕彰したものである。
  • 壬辰、義恭を揚州・南徐州刺史とし、位を太傅に進めて大司馬を兼ねさせた。
  • 何尚之は劭のもとで司空・尚書令となり、子の何偃も侍中として権要にあったが、劭敗死のとき左右は散り、尚之自ら黄閤を洗った。胡三省は、当時人々が殷冲らの誅殺を見て寒心したと述べる。
  • しかし帝は、何尚之父子には平素の名望があり、また劭政権下でも情勢に応じて危機をさばき、三鎮士民の家族を全滅から救った功があるとして、旧位のまま特に免じた。
  • 甲午、帝は初寧陵・長寧陵を拝し、卜天与を益州刺史・壮侯と追贈し、袁淑ら四家には恒常的に禄を支給させ、張泓之らにも郡守を追贈した。
  • 戊戌、南平王鑠を司空、建平王宏を尚書左僕射、蕭思話を中書令・丹陽尹とした。

六月:論功行賞と今後の火種

  • 丙午、帝は宮城へ還った。
  • もともと臧質は、柳元景に兵を率いさせて武陵王に合流させた後、自分が兵を挙げた際には南譙王義宣を主として奉じようと考え、ひそかに元景へ西へ戻るよう命じていた。元景はその書を帝に示し、義挙を知らぬゆえのことだろう、自分は逆討ちに向かうので戻らないと使者に答えた。
  • 臧質はこれを恨み、元景が雍州に出ると、自分と江陵ののちの障碍になると恐れて、元景は爪牙として近くに置くべきで遠くへ出すべきでないと主張した。帝はその意見に逆らいにくく、戊申、元景を護軍将軍・石頭戍事に移した。
  • 己酉、魯爽を南豫州刺史に、庚戌、徐遺宝を兗州刺史にした。胡三省は、これがのちに魯爽・徐遺宝・臧質らの反乱へつながる伏線だと見る。
  • 庚申、有司に命じて論功行賞させ、顔竣らを公侯に封じた。
  • 辛未、南譙王義宣を南郡王へ移し、随王誕を竟陵王とし、義宣の次子・宜陽侯愷を南譙王に立てた。
  • 閏月壬申、沈慶之を南兗州刺史として盱眙に鎮させ、癸酉には柳元景を領軍将軍にした。
  • 乙亥、北魏では太皇太后赫連氏が崩じた。
  • 義宣は中央での任務や子の王爵を固辞したため、甲午、あらためて荆湘二州刺史とされた。胡三省は、湘州再設置の経緯を詳しく注している。
  • 愷を宜陽県王とし、将佐以下にも褒賞を加えた。
  • 竟陵王誕を揚州刺史にした。

秋七月:直言の求めと周朗の上疏

  • 辛酉朔、日食があった。
  • 甲寅、直言を求める詔が出た。
  • 辛酉、細作署や尚方の贅沢な工芸・塗飾を省き、貴戚が利益を争うことを禁じた。
  • 中軍録事参軍周朗は上疏し、辺防について、歴下や泗間の孤城を守るだけでは国家を疲弊させると論じた。北魏の衰えを軽視して守るのではなく、むしろ宋の内部疲弊のほうが深刻だと指摘し、軽騎数千で春に麦、秋に禾を襲われれば、漕運は断たれ、二年もせず民は散るだろうと警告した。
  • また、三年喪は天下共通の大礼であり、漢代以来の短喪は臣下のために節略するならともかく、子が父に対して行うのを薄くするのは礼を乱すとし、帝が弑逆を討って即位した今こそ、この誤りを正して大孝を示すべきだと訴えた。
  • 奢侈については、宮中が源になっており、尚方の新製品が出れば民間は翌日にはまねを始めると批判した。
  • また、官職は職務に応じて設けるべきであり、王侯の幼年者に無理に長史・参軍・別駕・従事を並べても意味はない、良い賓友と正人を選ぶべきだと説いた。
  • さらに、世間では誹毀や称誉が党派的に行われているから、ただ世評に従うのではなく、その背景を見よと説き、形式だけの求言と詔令では治世は来ないと批判した。
  • この上疏は帝の意に逆らい、周朗は自ら退職した。
  • 侍中謝荘もまた、貴戚が利を争うことを禁じる詔を出す以上、大臣にも厳格に適用し、詔と実際が食い違わぬようにすべきだと上言した。
  • 胡三省は、この頃から文帝の良政が崩れ、郡県長官の任期も六期制から三年満任へと変わって、宋の善政は衰え始めたと論じている。

七月以後の事件

  • 乙丑、北魏では濮陽王閭若文と征西大将軍永昌王仁が謀反の罪に問われ、仁は長安で死を賜り、若文は誅された。
  • 南平王鑠は才を頼んで帝を軽んじ、また劭に用いられていたうえ、降伏も遅かったため、帝はひそかに毒を盛らせ、己巳に死なせた。のち司徒を追贈し、楚の商臣になぞらえる諡を与えた。胡三省は、商臣もまた父を弑して立った者であると注している。
  • 南海太守蕭簡が広州で反乱を起こした。兄の蕭斌が逆党として誅されたため、連座を恐れたのである。
  • 新任の南海太守鄧琬と始興太守沈法系がこれを討った。蕭簡は「来る軍は劭の賊軍だ」と偽って衆を欺いたため、州人はこれを信じて固守した。
  • 鄧琬は一方攻めだけで足れりとしたが、沈法系は四面攻撃すべきだと主張し、期限を切ってなお落ちぬなら従うと迫った。結局八方から同時に攻め、一日で城を破った。
  • 九月丁卯、蕭簡は斬られ、広州は平定された。沈法系は府庫を封じて鄧琬に引き渡し、そのまま帰還した。胡三省は、沈氏兄弟が当時よく国家に力を尽くしたと評している。

冬十一月・十二月:年末の処置

  • 十一月丙午、魯秀を左軍将軍から司州刺史にした。胡三省は、これもまた後日の変乱の伏線だと見る。
  • 辛酉、北魏主は信都・中山へ行幸した。
  • 十二月癸未、東宮再建にあたり、太子率更令以下の官を置くことにしたが、中庶子などの員数は旧制の半分に削減した。元凶劭の禍を戒めたためである。
  • 甲午、北魏主は平城へ還った。