資治通鑑宋紀八 太祖文皇帝 元嘉 二十九年 452年

正月 魏の中山での反乱

  • 魏が南朝から連れ去った民のうち、中山に置かれていた五千余家が反乱を企てたが、州軍に討たれて誅殺された。
  • 冀州刺史の張掖王沮渠万年は、この反乱への内通を疑われて死を賜った。

二月 魏太武帝の被弑と宗愛の専横

  • 魏世祖は景穆太子の死をいつまでも悼み、宗愛は自分が罪に問われることを恐れていた。
  • 二月甲寅、宗愛はついに魏世祖を弑した。尚書左僕射蘭延、侍中和疋、薛提らは喪を秘し、幼い皇孫濬ではなく年長の秦王翰を立てようと議した。
  • しかし薛提は、濬こそ嫡皇孫であって廃せないと主張し、議論がまとまらなかった。
  • 宗愛は秦王翰を嫌い、南安王余を好んでいたため、ひそかに余を宮中に迎え、赫連皇后の命と偽って蘭延らを呼び入れた。あらかじめ伏せていた宦官らが蘭延らを捕えて斬り、秦王翰も永巷で殺した。
  • 宗愛は余を立てて大赦し、年号を承平と改め、皇后を皇太后とし、自らは大司馬・大将軍・太師・都督中外諸軍事・領中秘書となり、馮翊王に封じられた。
  • 庚午、宋では皇子休仁が建安王に立てられた。
  • 三月辛卯、魏世祖は金陵に葬られ、廟号を世祖とされた。

宋の再北伐論

  • 文帝は魏世祖の死を聞くと、再び北伐を企てた。魯爽らもこれを勧めた。
  • 群臣に諮ると、太子中庶子何偃は、淮泗の諸州はいまだ戦禍の傷が癒えておらず、軽々しく動くべきではないと諫めたが、文帝は従わなかった。

五月 北伐命令

  • 五月丙申、文帝は「暴虐な虜は天誅を受けた。今こそ溺れる民を救い、穢れを掃う好機だ」として、驃騎将軍義恭・司空義宣の両府に出兵準備を命じた。
  • 蕭思話が張永らを督して碻磝へ向かい、魯爽・魯秀・程天祚は荊州兵四万を率いて許・洛へ進み、臧質は潼関をうかがう態勢を取った。
  • 沈慶之は固く反対したため、文帝は異論を嫌って彼を従軍させなかった。
  • 青州刺史劉興祖は、河南は飢えていて敵から物資を奪えず、諸城が固守すれば短期間では落とせないから、むしろ中山へ長駆して要害を押さえ、河北の民心を動かすべきだと上策を述べた。しかし文帝は、あくまで河南回復に意を置いて採用しなかった。
  • さらに文帝は徐爰を碻磝軍に随行させ、諸将に対する秘旨をその場で宣示させた。

何尚之の退隠未遂

  • 何尚之は老いを理由に致仕して方山へ退こうとしたが、朝廷では「ついに固い志を保てなかった」と議論された。
  • 文帝はたびたび慰留の詔を下し、六月戊申朔、何尚之はふたたび出仕して政務を見た。
  • 御史中丞袁淑は、古来の隠士のうち名声だけでなく実績も伴わぬ者を集めて『真隠伝』を作り、こうした中途半端な隠退を皮肉った。

七月 碻磝攻囲

  • 七月、張永らは碻磝に到着し、包囲した。
  • 壬辰、汝陰王渾を武昌王に、淮陽王彧を湘東王に移封した。

太子劭・始興王濬の巫蠱事件

  • 潘淑妃は始興王濬を生み、のちに後宮の実権を握った。元皇后はこれを妬んで怨みを抱いた。太子劭は淑妃と濬を深く憎み、濬も将来の災いを恐れて、かえって太子にへつらうようになり、両者は接近した。
  • 呉興の女巫・厳道育は、東陽公主の侍女王鸚鵡を通じて公主家に出入りし、符瑞や鬼神使役を語って劭・濬・公主を惑わせた。青珠が書箱に現れた怪異なども信じ込まれ、彼らは道育を「天師」と呼んだ。
  • 劭と濬は過失が多く、たびたび文帝に叱責されていたため、道育に祈祷させて罪が帝の耳に入らぬよう願った。
  • やがて彼らは道育・鸚鵡・陳天与・陳慶国らと共に巫蠱を行い、玉を刻んで文帝の像を作り、含章殿前に埋めた。
  • 劭は陳天与を隊主に取り立てた。東陽公主が死ぬと鸚鵡は嫁ぐことになり、秘密漏洩を恐れた劭・濬は、濬の側近沈懐遠にこれを妾として取らせた。
  • 文帝は天与が隊主になったことを怪しみ、劭を責めた。劭は濬に手紙で相談し、濬は「彼人がやめないなら寿命を縮めるだけだ。むしろ大きな慶事の前兆かもしれぬ」と返書した。二人は日頃から文帝を「彼人」と呼んでいた。
  • 鸚鵡はかつて天与と私通しており、それが漏れるのを恐れて劭に訴え、劭は密かに天与を殺させた。これを見た陳慶国は自らの危険を悟って、巫蠱の全容を文帝に告発した。
  • 文帝は驚いて鸚鵡を捕え、家を封じて捜索させたところ、劭・濬の往復書簡数百通と、呪詛・巫蠱の証拠、埋められた玉人が見つかった。担当官に徹底捜査を命じたが、道育は逃亡して捕まらなかった。
  • もともと濬は京口にいたが、揚州の地位が再び自分に回ると期待したところ、文帝が南譙王義宣を起用したため不満を抱き、江陵鎮守を願って許されていた。都に入って発令を待つうちに事件が発覚した。
  • 文帝は長く嘆き、「太子が富貴を望むのはまだ理屈も立つが、虎頭までこうとは思慮の及ぶところでない。自分が一日でもいなくなれば、お前たち母子は危うい」と潘淑妃に語った。
  • 劭と濬へ厳しく叱責の使者を送ったが、二人は謝罪するだけで、文帝もなお処罰を決断できなかった。

八月 碻磝攻略失敗

  • 諸軍は碻磝に三方面の攻城路を設け、張永らが東、申坦らが西、崔訓が南から攻めたが、長く攻めても落ちなかった。
  • 八月辛亥夜、魏軍は地道から潜出して崔訓の営と攻城具を焼き、癸丑夜にも東の囲みと攻具を焼き、さらに崔訓の攻路を壊した。
  • 張永は夜中に独断で包囲を解いて撤退し、諸将に知らせなかったため軍中は大混乱となり、魏軍に乗じられて死傷者が続出した。
  • 蕭思話は自ら増兵してさらに十余日攻めたが、やはり落とせなかった。この年は青州・徐州が凶作で軍糧も乏しく、丁卯、諸軍は歴城へ退いた。崔訓は斬られ、張永と申坦は獄につながれた。

魯爽・柳元景・蕭道成らの西方行動

  • 魯爽が長社へ着くと、魏の戍主禿髪幡は城を棄てて逃げた。
  • 臧質は襄陽近郊で兵を留め、時機を失したため、自らは進まず、ただ冠軍司馬柳元景と薛安都らを先行させて洪関を押さえさせた。
  • 梁州刺史劉秀之も司馬馬汪と左軍中兵参軍蕭道成を派遣して長安道へ向かわせた。蕭道成が史書に姿を現すのはここが初めてである。
  • 魏の封礼が浢津から南渡して弘農救援に向かうと、九月、魯爽は大索で魏豫州刺史拓跋僕蘭を破り、虎牢を攻めようとしたが、碻磝敗報を聞いて柳元景とともに退いた。馬汪・蕭道成らも魏の援軍接近を知って仇池へ引き返した。
  • 己丑、蕭思話は徐州を解かれ、冀州刺史として歴城に鎮した。
  • 文帝は諸将の度重なる失敗を張永らだけの責任とはせず、蕭思話に対し「虜がもし冬にまた来て死を送ってくるなら、兄弟父子で受けて立てばよい」と、怒りを交えた詔を送って張永・申坦にも示し、また義恭にも同様の憤懣を書き送った。のち義恭は蕭思話の免官を奏し、これが認められた。

魏で南安王余が弑される

  • 南安王余は本来の継承順ではなく即位したうえ、群臣に厚く賞して歓心を買おうとしたため、わずかなうちに府庫が枯渇した。酒宴や音楽、狩猟にふけって政務を顧みなかった。
  • 一方、宗愛は三省を統べて宿衛を握り、公卿を召し使って権勢をほしいままにした。余はこれを憂えて権限を奪おうとした。
  • 宗愛は怒って、十月丙午朔、余が東廟で夜祭している最中に小黄門賈周らを送り、余を弑したうえで事実を隠した。余の在位は二百二十余日であった。

魏高宗濬の即位

  • 羽林郎中の劉尼だけが事件を知り、宗愛に皇孫濬を立てるよう勧めたが、宗愛は景穆太子時代の恨みを理由に渋った。
  • 劉尼は密かに殿中尚書源賀へ知らせ、源賀は南部尚書陸麗と謀って、宗愛がまた社稷に害をなす前に皇孫を立てる決断をした。
  • 戊申、源賀と長孫渇侯は兵を率いて宮門を固め、陸麗と劉尼が苑中から皇孫濬を迎えた。陸麗は幼い皇孫を抱いて馬に乗せ、平城へ入った。
  • 劉尼は東廟へ駆け戻って、「宗愛が南安王を弑した。皇孫はすでに即位した」と大声で告げ、宿衛兵を宮へ戻らせた。兵はみな万歳を唱え、宗愛・賈周らを捕らえた。
  • 皇孫濬は永安殿で即位し、大赦して年号を興安と改めた。宗愛・賈周らは五刑を具して三族を滅ぼされた。

五水蛮の反乱

  • 西陽の五水蛮が反乱を起こし、淮水・汝水流域から江・沔にいたるまで被害が及んだ。
  • 宋朝は太尉中兵参軍沈慶之に江・豫・荊・雍四州の兵を統率させ、討伐に当たらせた。この兵力が、のちに武陵王駿の起兵を支えることになる。

魏の定策功臣と処分

  • 魏では拓跋寿楽が太宰・都督中外諸軍・録尚書事となり、長孫渇侯が尚書令・儀同三司を加えられたが、十一月、二人は権力争いのためにともに死を賜った。
  • 癸未、広陽王建と臨淮王譚が死去した。
  • 甲申、魏主の母である閭氏が死去した。
  • 南安王余の擁立時に司徒・太尉となった古弼・張黎は、高宗即位後に意にかなわず外職へ退けられ、さらに怨言や巫蠱の訴えによって誅された。胡三省は、彼らは宗愛の弑逆を正せなかった時点で結局死を免れなかったであろうと見る。

宋の動きと魏の追尊

  • 壬寅、廬陵昭王紹が死去した。
  • 魏は景穆太子を景穆皇帝と追尊し、その母閭氏を恭皇后とし、乳母の常氏を保太后と尊んだ。
  • 隴西の屠各王景文が魏に叛いて王侯を自称したが、恵寿と于洛抜が四州兵で討って平らげ、その党三千余家を趙・魏の地へ移した。
  • 十二月戊申、恭皇后は金陵に葬られた。

魏の仏教復興

  • 魏世祖晩年には仏教禁止がやや緩み、民間ではひそかに信仰が続いていた。
  • 高宗が即位すると、群臣の多くが復興を願い出たため、乙卯、州・郡・県の人口集中地ごとに寺院一所の建立を認め、出家も許可した。大州五十人、小州四十人までと人数上限を設けた。
  • こうして以前に壊された寺院の多くが修復された。魏主は自ら師賢ら五人の髪を剃って僧とし、師賢を道人統に任じた。

魏の新政と陸麗・源賀・劉尼

  • 丁巳、魏は楽陵王周忸を太尉、陸麗を司徒、杜元宝を司空とした。
  • 陸麗は迎立の功で君主の腹心となり、朝臣中でも並ぶ者がないほど重んじられ、平原王に封じられた。
  • しかし麗は、自分が行ったのは皇統を正しく奉迎した臣下本来の職分であり、天の功を盗んで大賞に与るべきではないとして、何度も辞退した。さらに、老境にある父陸俟へ爵位を譲りたいと願った。
  • 魏主はこれを許し、父俟を東平王に進め、また麗の妻を王妃とし、その子孫にも特典を与えようとしたが、麗はなお固辞した。帝はいよいよその節を賞した。
  • 劉尼は尚書僕射、源賀は征北将軍となり、ともに王に進封された。賞賜の際、源賀は「南北いまだ服属せず、府庫を空にしてはならない」と述べ、ただ戦馬一匹だけを受け取った。
  • 高允もまた高宗擁立に関わっていたが、陸麗らが重賞を受けても自ら功を語らなかった。

魏法の緩和

  • 甲子、周忸は罪を得て死を賜った。
  • 当時の魏法は厳酷であったため、源賀は「謀反人の家でも、十三歳以下の男子で共謀していない者まで死罪にするのは重すぎる」と奏し、死を免れて官奴とするよう改めさせた。

江夏王義恭の帰朝

  • 江夏王義恭は盱眙から朝廷へ戻った。
  • 辛未、義恭は大将軍・南徐州刺史となり、録尚書の職は従前のままとされた。これは始興王濬の地位に備える意味もあった。

魏の暦法改定

  • 魏は中原に入って以来、景初暦を用いていたが、沮渠氏を滅ぼした際に趙𢾺の玄始暦を得て、当時の人々はその精密さを高く評価した。
  • この年から魏は玄始暦を施行した。