資治通鑑宋紀六 太祖文皇帝 元嘉 二十三年 446年
春正月-二月 魏の西征と薛永宗・蓋呉討伐
- 春正月、孟顗が尚書左僕射を罷めた。
- 戊辰、魏主は軍を東雍州に進めて薛永宗の砦に迫った。崔浩は、皇帝自らの到着を敵は知らず士気も緩んでいるから、北風の勢いに乗じて急撃すべきだと勧めた。魏主は従い、庚午に砦を包囲した。
- 薛永宗は出戦して大敗し、家人とともに汾水へ身を投げて死んだ。族人の薛安都はもと弘農に拠っていたが、城を捨てて宋へ亡命した。
- 辛未、魏主は南へ汾陰に赴き、黄河を渡って洛水橋に至った。
- 蓋呉が長安北方にいると聞き、魏主は渭南を迂回して長安へ向かおうとした。崔浩は、蛇を打つならまず頭を打てと言い、軽騎で直進すれば一日で蓋呉を破れると進言したが、魏主は従わなかった。
- そのため蓋呉の兵は散って北地の山中に入り、魏軍は得るところなく、魏主は後悔した。
- 二月、魏主は長安に到着し、盩厔・陳倉を経て雍城へ回り、蓋呉に通じた民や異民族を各地で誅した。
- 一方、乙拔らの諸軍は杏城で蓋呉を大破した。蓋呉は再び宋へ援軍を求めたため、宋は蓋呉を都督関隴諸軍事、雍州刺史、北地公とし、雍・梁二州に国境で兵を挙げて呼応させ、印綬一二一紐を与えて適宜任官させた。
林邑遠征
- 林邑王范陽邁は使者を送って朝貢していたが、侵掠を止めず、貢物も粗末だった。そこで宋は交州刺史檀和之に討伐を命じた。
- 南陽の宗慤は名門の家柄ながら武事を好み、以前から「長風に乗って万里の波を破りたい」と語っていた人物で、この遠征でも自ら先鋒を願い出た。
- 陽邁は軍の出動を知ると、日南の住民を返し、金銀を納めると申し出たため、上は真誠なら帰順を許せと命じた。
- しかし和之が朱梧戍に着いて使者の姜仲基らを派遣すると、陽邁はこれを拘束した。和之はそこで区粟城を包囲し、林邑将范扶龍を攻めた。
- 陽邁は范毗沙達に救援させたが、宗慤が伏兵で迎撃してこれを破った。
長安での仏教弾圧
- 魏主も崔浩も寇謙之の道教を重んじ、崔浩はもともと仏教を好まなかった。
- 蓋呉討伐のため長安に入った魏主は、仏寺で沙門が従官に酒を飲ませているのを見、さらに室内に兵器が多くあると聞いて、蓋呉と通じて乱を企てているのではないかと怒った。
- 寺々を調査すると、醸造具や州郡の長官・富豪が寄せた財宝が多数見つかり、女を匿う地下室まであった。
- 崔浩はこれを機に全国の沙門を誅し、経像を毀ち、仏教を根絶すべきだと説いた。寇謙之は強く争ったが、崔浩は譲らなかった。
- まず長安の沙門を皆殺しにし、経像を焼き払い、留台を通じて四方に同法実施を命じた。詔では、仏教は後漢以来の邪偽で政教・礼義を乱し、天下を荒廃させたものであり、今こそ羲農の治に復すべきだとした。
- 以後、胡神を祀ることや仏像・泥像・銅像を造ることも禁止され、違反者は一門誅滅とされた。沙門は老少を問わず誅され、塔廟以外の経像は魏境からほぼ一掃された。
- ただし太子晃は平素から仏法を好んでいたため、詔の伝達を緩めて遠近に先に知らせ、逃亡や隠匿によって助かる者を多くした。
魏の対宋侵攻と何承天の防衛策
- 魏主は長安の工匠二千家を平城へ移し、帰路に洛水で軍を分けて李閏の叛羌を討った。
- 太原の顔白鹿がひそかに魏領へ入り、魏に捕えられると、青州刺史杜驥の使者として降伏を勧めに来たと偽った。魏主は杜氏が母方なのでこれを喜び、崔浩に書を作らせたうえ、永昌王仁と高凉王那に兵を率いて歴城の申恬を迎えさせるよう命じた。
- 杜驥は司馬夏侯祖歓らに歴城救援を命じた。魏軍は青・兗・冀三州を寇掠して清水以東まで至って還り、多くを殺し奪った。
- このため北辺が騒然となり、上は群臣に防備策を諮った。
- 御史中丞何承天は、匈奴・北敵への策は征伐か和親に大別されるが、今ただ報復戦をするだけでは敵は軽騎で逃げて会戦せず、費用だけが嵩むと論じた。
- そのうえで、青兗の旧民や冀州の新附民など境界の三万余家を大峴以南へ移し、城邑を多く築いて収容し、車牛と糧械を整え、各丁に武器を課して平時から習熟させるという四策を上奏した。近郡兵の遠方駐屯より、現地民を移し導くほうがはるかに有利だという主張であった。
春夏 上邽方面の反乱
- 魏では金城の辺固、天水の梁会が、秦・益州の雑民一万余戸を率いて上邽東城を拠って反乱し、西城に迫った。秦・益二州刺史封敕文はこれを撃退した。
- 氐羌一万余、休官屠各二万余もこれに応じ、辺固・梁会を主として敕文と戦った。のちに敕文が辺固を斬ると、残党は梁会を主とした。
- 夏四月甲申、魏主は長安に到着し、丁未に大赦した。
- 仇池の人李洪が、自分に王たるべき瑞応があると称して群衆を集めたため、梁会は楊文徳に救援を求めた。文徳は「両雄は並び立たぬ、助力が要るなら先に李洪を殺せ」と答えた。
- 梁会は李洪を誘って斬り、その首を文徳に送った。
- 五月、魏主は閭根に騎兵を率いて上邽へ急行させた。未到着のうちに梁会は東城を棄てて逃げた。
- 封敕文は外に深い塹壕を掘って守り、夜通し戦ったが、賊が死地と知って奮戦していることから損害を避けるため、白虎幡を立てて降者赦免を宣告した。これで梁会の衆は崩れ、追討して平定した。
- 略陽の王元達も松多川で挙兵したが、これも敕文が平らげた。
夏五月 林邑滅亡
- 蓋呉は兵を集めて再び杏城に屯し、秦地王を称して勢力を回復した。魏主は永昌王仁と高凉王那に北道諸軍を督させてこれを討たせた。
- 南方では檀和之が区粟を陥し、范扶龍を斬って象浦へ進んだ。
- 林邑王陽邁は国を挙げて決戦し、完全武装の象を前後に隙なく並べた。
- 宗慤は、師子は諸獣を威服し象さえ恐れさせると聞くとして、師子の形を作って象軍に対抗させた。象は驚いて走り、林邑軍は大敗した。
- 檀和之はそのまま林邑国都を攻略し、陽邁父子は身一つで逃亡した。得た珍宝は数え切れなかったが、宗慤は何も取らず、帰宅した時も衣服や櫛さえ質素なままだった。
六月-八月 魏の畿上防備と宋の人材評価
- 六月癸未朔、日食があった。
- 甲申、魏は冀・相・定三州から二万人を徴発して長安南山の諸谷に駐屯させ、蓋呉の潜伏に備えた。
- 丙戌にはさらに司・幽・定・冀四州から十万人を徴発し、都の周辺防塞を上谷西方から黄河まで千里にわたり築いた。
- 宋では玄武湖を築いて北堤を作り、華林園には景陽山を築いた。
- 七月、杜坦を青州刺史とした。
- もと杜氏は中華の高族で、晋末に河西へ避難し、前秦による涼州平定後に関中へ戻り、さらに高祖に従って江南へ渡っていた。だが江東の王・謝諸族が栄える中で、北から遅れて渡ってきた者は「傖荒」と見なされ、才能があっても清流の官途に進めなかった。
- 上が杜坦に金日磾を論じ、「今このような人物がいないのが残念だ」と言うと、坦は「日磾が今に生まれても馬飼いで終わり、見出されはしないでしょう」と答えた。
- 上が朝廷を軽んずるのかと色をなすと、坦は、自分も本来は中華の名族だが、南渡が遅いだけで荒外人扱いされた、金日磾のような胡人ですら漢では内侍の高位に上ったのに、今の朝廷に本当に抜擢の気風があるか疑わしい、と述べ、上も黙するほかなかった。
八月 蓋呉の最期と陸俟の処置
- 八月、魏の高凉王那らは蓋呉を破ってその叔父二人を捕えた。諸将は平城へ送ろうとしたが、長安鎮将陸俟は、長安は険固で住民の気風も強く、蓋呉を生かしておけば再乱の種になるから、叔父らに妻子の安全を約して蓋呉を追わせるべきだと主張した。
- 諸将は不安がったが、俟は責任は自分が負うと言って叔父たちを放った。しばらくして、叔父たちは果たして蓋呉の首を持って戻った。諸将が言うように蓋呉を残していれば、再び王を称して愚民を惑わしただろうという判断は当たった。
- 永昌王仁は白広平・路那羅ら蓋呉残党を討ち平らげ、陸俟は内都大官に抜擢された。
年末 陸俟の長安鎮撫と吐谷渾の復帰
- その後、安定の盧水胡の劉超らが一万余人で再び反乱すると、魏主は陸俟の威恩が関中に著しいとして、都督秦・雍二州諸軍事として長安に鎮させた。
- 魏主は、関中は帰附して日が浅く、重兵を持って行けばかえって賊が団結し、少兵では制御できないから、自身の方略で収めよと命じた。
- 陸俟は単騎同然で赴任し、まず劉超の娘を迎えて姻戚関係を結び、超を誘った。
- さらに自らわずか二百騎で超の陣を訪れ、厳戒の中で酒宴に応じ、疑いを解いた。
- その後、敢死士五百を選んで狩猟を口実に出て、再び超の営に赴き、酔ったふりをして馬上から大呼し、みずから超の首を斬った。士卒もこれに応じて撃ち、千余を殺傷して乱を平らげた。
- 魏主は陸俟を外都大官に徴した。
- この年、吐谷渾は再び旧土へ帰還した。