資治通鑑宋紀五 太祖文皇帝 元嘉 十八年 441年
正月・義康をめぐる諫言とその死
- 正月癸卯、北魏は沮渠無諱を征西大将軍・凉州牧・酒泉王に封じた。
- 彭城王劉義康は豫章に至り、江州刺史の辞表を提出した。
- 甲辰、宋は義康を都督江交広三州諸軍事とした。
- かつて龍驤参軍だった巴東の扶令育が上表し、漢の袁盎が淮南王の扱いを文帝に諫めた故事を引いて、義康は先帝に愛された子であり今上の次弟なのだから、もし過ちがあるなら善悪を説いて導くべきで、遠く南方へ追いやれば、もし途中で死ねば陛下は弟を殺した名を負うことになると訴えた。
- また廬陵王の先例を鏡とすべきで、義康が南方で命を終えれば天下の百姓は皆これを痛むだろうと述べ、早く京へ呼び戻して兄弟・君臣の和を保てと求めた。
- しかし文帝はこの上表を受けると、ただちに扶令育を建康獄へ送って死を賜った。
- 裴子野は後に、君主の善悪は天地の変のように誰の目にも明らかなのに、一人を殺して口を塞いでも評判は止められないと論じ、彭城王の事件以後、宋では直言する者が極めて少なくなったと嘆いた。
北魏の宗室・河西
- 三月庚戌、北魏では新興王拓跋俊が淫乱不法を理由に公へ降格され、逆謀が発覚して賜死となった。
- 辛亥、乞列帰は朔方王、沮渠万年は張掖王に封じられた。
- 夏四月、沮渠唐児が沮渠無諱に叛いた。無諱は従弟の天周に酒泉を守らせ、自ら弟の宜得とともに唐児を討って敗死させた。
- 北魏は、無諱が結局辺患になると見て、庚辰に奚眷を派遣して酒泉を攻めさせた。
秋から冬・北魏使節と酒泉陥落
- 八月辛亥、北魏は散騎侍郎張偉を宋に派遣して聘問した。
- 九月戊戌、北魏の永昌王健が死去した。
- 十一月戊子、宋の王球が死去し、己亥、孟顗が尚書僕射となった。
- 酒泉では食糧が尽き、一万余口が餓死した。天周は妻を殺して戦士に食わせるほどであった。
- 庚子、北魏の奚眷が酒泉を陥し、天周を捕えて平城に送り、これを殺した。
沮渠無諱の西走計画
- 沮渠無諱は食糧に乏しく、かつ北魏軍の強さを恐れ、西へ流沙を越える計画を立てた。
- 弟の安周を派遣して鄯善を攻めさせると、鄯善王は降伏を考えたが、たまたま北魏の使者が来て固守を勧めた。
- 安周は攻略できず、鄯善の東城に退いて守った。
氐王楊難当の蜀侵攻
- 氐王楊難当は国を挙げて宋へ侵入し、蜀土を奪おうとした。
- 建忠将軍の苻冲を東洛へ出して梁州軍を防がせたが、梁秦二州刺史の劉真道がこれを撃って斬った。
- 楊難当は葭萌を陥し、晋寿太守の申坦を捕え、さらに涪城を包囲した。
- 巴西・梓潼二郡太守の劉道錫は城に籠って防ぎ、楊難当は十余日攻めても落とせず、ついに退いた。
十二月・宋の対仇池出兵と南方の反乱
- 十二月癸亥、宋は裴方明らに甲士三千を率いさせ、さらに荊州・雍州の兵を発して楊難当討伐に向かわせ、すべて劉真道の節度に属させた。
- これは翌年の仇池平定につながる措置であった。
- 晉寧太守の爨松子が反し、寧州刺史の徐循が討って平定した。
- 天門蛮の田向求らが反乱を起こして漊中を破ったが、荊州刺史の衡陽王義季は行参軍曹孫念を遣わしてこれを破った。
北魏の道教的儀礼
- 北魏では寇謙之が太武帝に対し、今や真君として天下を治め、静輪天宮の法を建てたのは古来未曾有のことだから、符書を受ける登壇の儀を行って聖徳を明らかにすべきだと述べた。
- 太武帝はこれに従った。