正月 人事刷新と西秦の戦果
- 春正月甲辰朔、北魏の主は雲中から西巡して屋竇城に至った。
- 癸丑、徐羨之を司空・録尚書事とし、江州刺史の王弘を衛将軍・開府儀同三司に、謝晦を領軍将軍・兼散騎常侍として殿省宿衛の統轄に当たらせた。
- 徐羨之は布衣から起こり、学問や策術の名は高くなかったが、志と力量、器量により廊廟に立ち、朝野から宰相の器として推された。沈着で口数少なく、囲碁や観劇でも感情を見せず、それがかえって世人に深い見識を感じさせた。
- 鄭鮮之は、徐羨之と傅亮の議論を聞くと、もはや学問の多寡で優劣を定める気がしなくなると感嘆した。
- 西秦の孔子らは契汗禿真を大破し、男女二万口、牛羊五十余万頭を獲た。禿真は数千騎で西へ逃れ、その別部の樹奚は五千戸を率いて西秦へ降った。
二月 州の分割
- 二月丁丑、豫州のうち淮水以東を分けて南豫州を置き、歴陽を治所とし、彭城王・劉義康を刺史とした。
- また荊州の十郡を分けて湘州を再設し、臨湘を治所として、左衛将軍の張邵を刺史とした。
- 丙戌、北魏の主は宮へ帰還した。
三月 劉裕の病と後継問題
- 三月、皇帝の病が重くなり、太尉の劉道憐、徐羨之、傅亮、謝晦、檀道済らが入って医薬に侍した。
- 群臣が神祇への祈祷を願ったが、皇帝はこれを許さず、侍中の謝方明に宗廟へ病状を告げさせるだけにした。劉裕はもとより怪異や瑞兆を信じず、以前から史官が符瑞を記録しようとしても応じなかった。
- 檀道済は鎮北将軍・南兗州刺史として広陵へ出され、淮南諸軍を監督した。
- 皇太子の劉義符は群小と交わることが多く、謝晦は、陛下は高齢なのだから万世の神器を考え、非才に担わせてはならないと諫めた。
- 劉裕はでは廬陵王義真はどうかと問うた。謝晦は実際に会って見極めると答え、義真のもとへ赴いたが、義真が華やかに振る舞って談じようとしても、晦は深く応じなかった。
- 戻って、徳が才に劣り、人主の器ではないと告げた。
- 丁未、劉義真を都督南豫・豫・雍・司・秦・并六州諸軍事、車騎将軍・開府儀同三司・南豫州刺史として外に出した。
- この後、州の実数に比して都督の号が際限なく増え、数十州を兼ねる例さえ見られるようになった。
- 皇帝の病はほどなくやや癒え、己未に大赦を行った。
- 関中方面の流民が梁州へ南下してきたため、庚申、使者を遣わして絹一万匹を送り、荊州・雍州の穀物も運んで救済した。
三月末~四月 刁彌討伐・北魏諸王封建
- かつて誅された刁逵の子・刁彌が亡命生活から現れ、辛酉、数十人を率いて京口へ入った。
- 太尉留府司馬の陸仲元がこれを撃ち、斬った。
- 乙丑、北魏の河南王曜が死去した。
- 四月甲戌、北魏は皇子の燾を太平王に立て、相国・大将軍を加えた。さらに丕を楽平王、弥を安定王、範を楽安王、健を永昌王、崇を建寧王、俊を新興王とした。
- 乙亥、仇池公の楊盛を武都王に封じた。
- 西秦の秦王・熾磐は乞伏是辰を西胡校尉とし、汁羅に列渾城を築いて鎮とした。
五月 劉裕崩御
- 五月、皇帝の病がさらに重くなり、太子に遺誡した。檀道済には軍略と処理能力はあるが遠大な志がなく、兄の劉韶のような御しがたい気はないこと、徐羨之・傅亮は異志を抱かないだろうが、謝晦は征伐を重ねて機変を知るゆえ、もし異論が起こるならこの人物だと述べた。
- また手ずから詔を書き、後世に幼主が立ったなら政務はいっさい宰相に委ね、母后は臨朝して煩わせるべきでないと命じた。
- 徐羨之・傅亮・謝晦・檀道済はともに顧命を受けた。
- 癸亥、劉裕は西殿で崩じた。
劉裕の人となりと倹約
- 劉裕は清簡で欲が少なく、法度に厳格であった。衣服・居住は粗布同然に倹約し、遊宴は少なく、後宮の寵愛もごく限られていた。
- 後秦の王家出身の女性を寵愛したことが一時あったが、政務が滞りかけると謝晦がほのめかして諫め、ただちに宮中から出した。
- 財貨は外府に蓄え、内廷には私蔵を置かなかった。
- 嶺南から筒に収めた極細の布が献上されると、ぜいたくで民を疲れさせるとして、郡太守を弾劾し、布も返却し、以後嶺南でこの布を作ることを禁じた。
- 公主が降嫁するときの持参も二十万を超えず、錦繍も用いず、内外ともに奢侈を禁じた。
劉義符即位・北魏の皇太子冊立
- 太子の劉義符が即位した。年十七。大赦し、皇太后を太皇太后とし、妃の司馬氏を皇后に立てた。司馬氏は晋恭帝の娘で海塩公主である。
- 北魏の主は寒食散を長年服して発作が続き、災異も重なったため、自らの死後を憂え、中使を通じて崔浩に後事を問うた。
- 崔浩は、北魏創業以来、皇太子を重んじなかったため永興年間には社稷が危うくなった、今こそ東宮を早く立て、賢公卿と信臣を配し、内は政務、外は軍事を統べさせるべきだと説いた。太平王・拓跋燾は年も長じ、明敏で温和だから、長子を立てる礼にもかなうとした。
- 長孫嵩もまた、長子で賢である以上、立てるのが順当だと答えた。
- 北魏の主は従い、拓跋燾を皇太子に立てて正殿に居らせ、臨朝して副主とした。長孫嵩・奚斤・安同を左輔、崔浩・穆観・丘堆を右弼とし、百官はみなこの東宮を中心に政を執った。
- 北魏の主は西宮に退いて時折ひそかに観察し、その裁断を喜び、六人の補佐がいれば四方を巡って討伐・懐柔に志を遂げられると語った。
- さらに劉絜・古弼・盧魯元らにも東宮で機要を分掌させた。太子は聡明で度量があり、群臣が疑義を奏すると、北魏の主は「今や国主はこの子だ」と言って太子に決断させた。
六月~七月 宋・北魏の諸事
- 六月壬申、傅亮を中書監とし、謝晦に中書令を領させ、謝方明を丹陽尹とした。謝方明は郡治に巧みで、前任者の制度を急に改めず、改めるべきことも痕跡を感じさせぬほど自然に移行させた。
- 戊子、長沙景王・劉道憐が死去した。
- 北魏の建義将軍・刁雍が青州へ侵入したが、州兵に破られ、大郷山へ退いて守った。
- 秋七月己酉、武皇帝を初寧陵に葬り、廟号を高祖とした。
- 河西王・蒙遜は沮渠成都に一万を率いさせ、嶺南で軍威を示したのち五澗に屯させた。
秋 西秦と北魏・対宋政策
- 九月、西秦の乞伏熾磐は出連虔ら六千騎で沮渠成都を攻めた。
- かねて北魏は劉裕が長安を取った際に恐れ、和を求めて以来、毎年の往来を絶やさなかった。ところが高祖の崩御後、使者として北魏にいた沈範らが帰路で黄河にさしかかると、北魏の主は追って拘留させ、洛陽・虎牢・滑台奪取のための出兵を議した。
- 崔浩は、劉裕の急成長にもかかわらず北魏がその貢使を受け、劉裕もまた敬意を払ってきたのに、その喪に乗じて攻めれば礼を失い、美名にもならないと諫めた。今はまだ一挙に江南を取る力もないから、まず弔祭して孤弱を存恤し、国内で権臣が争って変乱が起こるのを待つべきだと説いた。
- しかし北魏の主は従わず、奚斤を主将とし、周幾・公孫表らにも兵を授けて侵攻させた。
- 乙巳、北魏の主は灅南宮、ついで広寧へ赴いた。
- 辛亥、平城外郭を周三十二里で築いた。
- さらに喬山、幽州へ東巡したのち、冬十月甲戌に宮へ帰った。
冬 北魏南侵の開始
- 魏軍出発前、監国中の皇太子の前で公卿会議が開かれ、まず城を攻めるか、先に地方を奪うかが議論となった。
- 奚斤は攻城を主張したが、崔浩は、南朝の兵は守城に長けており、まず洛陽・滑台・虎牢の周辺地を抑え、租穀を収めれば、孤立した諸城は自然に落ちると論じた。
- だが公孫表が攻城を強く請い、北魏の主はこれに従った。
- 奚斤らは二万で黄河を渡り、滑台東方に陣した。
- 宋の司州刺史・毛徳祖が虎牢を守り、東郡太守の王景度が滑台から救援を求めると、徳祖は司馬の翟広ら三千を送った。
- そのころ司馬楚之は陳留で衆を集めており、魏兵来たるを聞いて使者を送り、北魏へ降った。北魏はこれを征南将軍・荊州刺史とし、宋北境をかき乱させた。
- 毛徳祖はこれに備え、王法政を邵陵に、劉憐を雍丘に配置した。だが楚之は劉憐を襲い、直接は破れなかったものの、軍資を迎えに出たところを、地元民王玉が北魏へ知らせた。
- 丁酉、魏の尚書・滑稽が倉垣を襲い、兵吏はみな城を越えて逃亡した。陳留太守の厳稜は奚斤のもとに降り、王玉は陳留太守に取り立てられて倉垣を守った。
- 奚斤らは滑台を攻め落とせず増兵を求めたため、北魏の主は怒ってみずから諸国兵五万余を率い、天関から恒嶺を越えて南下し、援軍の姿勢を示した。
- このころ西秦の出連虔は河西の沮渠成都と戦ってこれを捕えた。
十一月~十二月 滑台陥落と河南戦線
- 十一月、北魏太子の拓跋燾は塞上に屯して柔然に備え、安定王弥と安同が留守を守った。
- 庚戌、奚斤らは滑台を力攻めして落とし、王景度は逃走した。司馬の陽瓚は捕えられたが降らずに死んだ。
- 北魏は成皋侯の茍児を兗州刺史として滑台に置いた。
- 奚斤らは土楼で翟広を破り、そのまま虎牢へ迫ったが、毛徳祖はたびたびこれを撃退した。
- 北魏の主はさらに于栗磾三千を河陽に置き、金墉奪取を図った。毛徳祖は竇晃らを黄河沿いに派遣して防いだ。
- 十二月丙戌、北魏の主は冀州に至り、叔孫建に平原から黄河を渡らせて青・兗方面を攻略させた。
- 宋の豫州刺史・劉粹は高道瑾五百を項城に拠らせ、徐州刺史・王仲徳は湖陸に屯した。
- 于栗磾も河を渡って奚斤とあわせて竇晃らを破った。
- 北魏の主は娥清・閭大肥ら七千を碻磝へ進ませ、周幾・叔孫建と合流させた。
- 癸未、兗州刺史の徐琰は尹卯を棄てて南走し、泰山・高平・金郷などの郡もみな北魏へ落ちた。
- 叔孫建らはさらに青州へ入り、司馬愛之・季之ら濟東の勢力もみな北魏へ降った。
- 戊子、北魏軍は虎牢へ逼迫した。青州刺史の竺夔は東陽城から急報を送った。
- 己丑、宋は檀道済を征討諸軍の都監とし、王仲徳とともに救援に向かわせた。劉義真も沈叔狸三千を劉粹のもとへ送り、情勢に応じて赴援させた。