正月 北魏・西秦の動き
- 春正月、北魏の主は宮城へ帰還した。
- 西秦の秦王・乞伏熾磐は、子の乞伏暮末を太子に立て、あわせて撫軍大将軍・都督中外諸軍事を兼ねさせ、大赦を行い、建弘と改元した。
劉裕の受禅準備
- 宋王・劉裕は晋から帝位を受けようとしていたが、自ら切り出しにくく、朝臣を集めて宴を開き、自身の功績を並べたうえで、老いを理由に爵位を返して都へ戻りたいとほのめかした。
- 群臣はただ功績をたたえるばかりで真意を悟れなかったが、中書令の傅亮は退出後にようやく意図を察し、その夜のうちに建康へ戻ることを願い出た。
- 劉裕は傅亮の理解を知ると、数十人ほどの供だけをつけて送り出した。
- この夜、空に長く尾を引く星が現れ、傅亮は、これまで天文を信じてこなかったが、今こそその徴験を認めるほかないと嘆いた。
四月~六月 晋から宋への禅譲
- 夏四月、劉裕は入朝して補佐するよう召されたが、子の劉義康を寿陽に鎮する豫州刺史とし、劉湛を長史として府と州の実務を決裁させた。劉湛は若いころから政治的野心が強く、自らを管仲・諸葛亮になぞらえる人物で、劉裕から重んじられていた。
- 五月、北魏では宣武帝の諡を道武帝に改めた。
- 同月、北魏の淮南公司馬国璠・池陽子司馬道賜が外部と通じて叛乱を企てたが、司馬文思の告発で発覚し、北魏の主は二人を殺し、文思に鬱林公の爵を与えた。これに連座して平城の豪族数十人が族誅された。
- 章安侯封懿の子・封玄之も罪に問われたが、北魏の主は燕以来の名族であることから一子の助命を許そうとした。玄之は弟の子・磨奴は早くに父を失ったとしてその命乞いをし、四人の子は殺されたが、磨奴だけは助けられた。
- 六月、劉裕が建康に到着すると、傅亮は晋の恭帝に禅譲を勧め、詔書の草案を示した。恭帝は喜んで筆を執り、もともと望んでいたことだとして赤紙に自ら詔を書いた。
- 甲子、恭帝は琅邪第へ退き、百官が拝辞した。秘書監の徐広は涙を流して強く悲しんだ。
- 丁卯、劉裕は南郊で即位し、石頭から正式な車駕で建康宮に入った。徐広は再び涙を流し、侍中の謝晦にたしなめられたが、自分は晋の遺臣であり、宋の佐命功臣とは悲喜が異なると答えた。
- 劉裕は太極殿に臨み、大赦して永初と改元した。また、郷里の評判や清議で罪を得ていた者も一括して赦し、新たに出発させた。
- ただし後世の論では、名教上の悪を一切不問にしたのは行き過ぎとされた。
新王朝の体制整備
- 晋の恭帝は零陵王に封じられ、礼遇は晋初の故事にならって厚くされた。旧秣陵県に住まわせ、冠軍将軍の劉遵考に兵を率いさせて護衛させた。
- 褚皇后は王妃に降格された。
- 劉裕は父を孝穆皇帝、母の趙氏を孝穆皇后と追尊し、継母の蕭氏を皇太后とした。即位後も蕭太后への礼を欠かさず、毎朝の拝謁を怠らなかった。
- 晋の旧封爵は国運の交替に応じて改めたが、王導・謝安・温嶠・陶侃・謝玄の祭祀を守るため、始興・廬陵・始安・長沙・康楽の五公だけは県公・県侯に降して存続させた。義熙年間に苦難をともにした者たちは、そのまま本来の秩を保った。
- 庚午、司空の劉道憐を太尉・長沙王とし、故司徒の劉道規を臨川王に追封、その子の劉義慶に爵を継がせた。徐羨之ら功臣もそれぞれ昇進・進爵した。
- 劉穆之は南康郡公、王鎮悪は龍陽県侯に追封された。皇帝はたびたび劉穆之を失ったことを惜しみ、彼が生きていれば天下の経綸を大いに助けただろうと語った。
- 皇子の劉義真を廬陵王、劉義隆を宜都王、劉義康を彭城王に立てた。
- 己卯、泰始暦を永初暦に改めた。
夏秋 北魏の巡幸と周辺諸国
- 北魏の主は翳犢山から馮滷池へ赴いた。宋の受禅を聞き、かつて崔浩が予言した言葉の的中を認め、天道を信じるに至った。
- 七月、北魏の主は五原へ赴いた。
- 詔により、北涼の涼公・沮渠歆を高昌など七郡を統督する征西大将軍・酒泉公とし、西秦の秦王・乞伏熾磐を安西大将軍とした。
交州の安定
- 交州刺史の杜慧度は林邑を討ち、大破した。敵の半数以上を斬り、林邑が降伏を願い出ると、これまで略奪されていた人々をことごとく返還させた。
- 杜慧度の統治は細密で、家政を切り盛りするように州政を行ったため、吏民は畏れながらも慕い、夜も城門が開かれ、道に落し物があっても拾われないほどだった。
沮渠蒙遜の北涼滅亡戦
- 己未、北魏の主は雲中に赴いた。
- 北涼の河西王・沮渠蒙遜は、先に西秦の浩亹を攻める構えを見せたうえで密かに軍を返し、川巌に伏せた。
- 涼公・沮渠歆は、虚を突いて張掖を襲おうとしたが、宋繇・張体順は強く諫め、母の尹太后も、新興の小国が兵を軽々しく用いれば亡国に至ると涙ながらに止めた。それでも歆は従わなかった。
- 宋繇は、この一事で国運は去ったと嘆いた。
- 歆は歩騎三万で東進したが、蒙遜はわざと浩亹を破って黄谷へ進むという布告を流し、歆を誘い込んだ。歆はこれを信じて都瀆澗へ進み、懐城で大敗した。
- なおも歆は酒泉へ退いて守ることを恥じ、蓼泉で再戦して戦死した。
- 歆の弟の翻・預・密・眺・亮らは敦煌へ逃れ、蒙遜は酒泉に入った。李暠の建てた北涼はここに滅んだ。
- 蒙遜は侵掠を禁じ、士民を安堵させ、宋繇を吏部郎中として選挙を委ね、旧臣のうち才能と名望のある者を礼遇して用いた。子の牧犍を酒泉太守にした。
- 敦煌太守の李恂は翻の弟で、翻らとともに北山へ走ったため、蒙遜は索元緒を敦煌太守代理とした。
- 蒙遜が姑臧へ帰ると、尹太后を慰めたが、太后は李氏が異族に滅ぼされた以上、今さら何を言うのかと毅然として答えた。ある者が無礼だと諫めても、太后は生死存亡は天命であり、亡国と家破の後に恥じてまで生き残る気はない、速やかな死こそ望みだと述べた。蒙遜はその気概を賞して赦し、その娘を牧犍の妻にした。
秋冬 皇太子冊立・敦煌の動乱
- 八月、故妃の臧氏に敬皇后と追諡した。
- 癸酉、皇太子に劉義符を立てた。
- 閏月、晋の諸帝陵にすべて守衛を置くよう命じた。
- 九月、西秦の振武将軍・王基らは河西王蒙遜の胡園戍を襲い、二千余人を捕えて帰った。
- 敦煌では、索元緒が粗暴で殺戮を好み人心を失った一方、李恂には善政の評判があったため、宋承・張弘らがひそかに李恂を迎え入れた。
- 冬、李恂は数十騎で敦煌に入り、索元緒は涼興へ逃走した。宋承らは李恂を冠軍将軍・涼州刺史に推戴し、永建と改元した。
- 蒙遜は世子の政徳を派遣して敦煌を攻めさせたが、李恂は籠城して戦わなかった。
年末の諸事
- 十二月、杏城の羌の酋長・狄温子が三千余家を率いて北魏へ降った。
- この年、北魏では姚夫人が死去し、のちに昭哀皇后と追諡された。