資治通鑑晉紀三十八 安皇帝 義熈 九年 413年

二月・三月 劉裕帰還と諸葛長民誅殺

  • 春二月庚戌、北魏主拓跋嗣は高柳川へ行幸し、甲寅に宮へ帰った。
  • 劉裕は江陵から東へ帰還した。輜重は続々と先に下らせ、自身は到着予定日をしばしば遅らせたため、諸葛長民や公卿は新亭で何度も出迎えながら空振りさせられた。
  • 乙丑晦、劉裕は軽舟でひそかに東府へ入った。
  • 三月丙寅朔旦、諸葛長民は驚いて駆けつけた。劉裕は壮士丁旿を帳中に伏せ、長民と差し向かいで語らったのち、丁旿に座中で引き倒して殺させた。死体は廷尉に渡され、弟の黎民は抵抗して殺され、末弟幼民・従弟秀之も誅された。
  • 庚午、姚興は北魏へ使者を遣わして修好した。

土断の再実施

  • 劉裕は上表し、桓温が庚戌年に行った土断は民の定着と統治に益し、国家を豊かにしたが、近年は弛んでいるので再び実施すべきだと述べた。これにより土地の区分に従って戸籍を整理し、流寓郡県の多くが統廃合された。ただし、晋陵に住む徐・兗・青三州の者は特例として除外された。
  • 戊寅、劉裕は豫州刺史を加えられたが、太傅・州牧の称号は固辞した。

南方・西方の動き

  • 林邑王范胡達が九真へ侵入したが、杜慧度がこれを討って斬った。
  • 河南王熾磐は曇達・王松寿に兵を与え、休官の権小即呂破胡を白石川で大破し、その男女一万余を捕えた。さらに白石城を占拠した。顕親の休官権小成呂奴迦ら二万余戸は白阬に拠って服さなかったため、曇達がこれを攻めて斬り、隴右の休官はみな降った。
  • 後秦の太尉索稜は隴西をもって熾磐に降り、熾磐は索稜を太傅とした。

赫連勃勃、統万城を築く

  • 夏王赫連勃勃は大赦して鳳翔と改元した。
  • 叱干阿利を将作大匠に任じ、嶺北の夷夏十万人を動員して、朔方水の北・黒水の南に都城を築いた。勃勃は天下統一を志すとして新城を「統万」と名づけた。
  • 阿利は器用だが酷薄で、築城では土に錐を刺して一寸でも入れば工人を殺し、その死体ごと築き込んだ。兵器製作でも、甲を射抜けなければ弓工を、射抜けば甲工を殺した。さらに巨鼓や銅像などを鋳造し、黄金で飾って宮前に並べた。こうして工匠数千が殺されたため、器物はみな精巧鋭利となった。
  • 勃勃は自らの祖先が母方の姓に従って劉氏を称するのは礼に合わないとして、赫連氏に改姓した。帝王は天の子であり、その威光が天に連なるという意味である。また、正統でない一族には鉄伐氏を与え、その鋭さが鉄のごとく人を伐つに堪えることを示した。

北魏・西秦・北涼・南涼

  • 四月乙卯、北魏主は西巡し、奚斤・尉古真・閭大肥らに越勤部を跋那山で討たせた。閭大肥は柔然出身であった。
  • 河南王熾磐は烏地延・翟紹を派遣し、吐谷渾の別統句旁を泣勤川で大破した。
  • 河西王蒙遜は子の政徳を世子とし、鎮衛大将軍・録尚書事を加えた。
  • 南涼王傉檀は蒙遜を討ったが、若厚塢・若涼で連敗し、蒙遜は楽都を囲んだ。二十日しても落とせず、湟河太守文支が郡ごと蒙遜に降り、蒙遜は文支を広武太守に任じた。
  • 蒙遜はさらに南涼を攻め、傉檀は太尉俱延を人質に出して和した。
  • 蒙遜は苕藋へ西進し、伏恩に騎兵一万を率いさせて卑和・烏啼二部を急襲し、二千余落を捕えて帰還した。
  • 蒙遜が新台に寝ていたとき、宦官王懐祖が襲って足を傷つけたが、その妻孟氏が王懐祖を捕えて斬った。
  • 蒙遜の母車氏が死去した。

北魏の巡行

  • 五月乙亥、北魏主は雲中旧宮へ赴き、丙子に大赦した。
  • 西河の胡張外らが盗賊化すると、長楽王劉絜らを西河へ派遣して招撫・討伐させた。
  • 六月、拓跋嗣は五原へ向かった。

朱齢石、蜀を平定

  • 朱齢石らは白帝に着いて封書を開き、大軍は外水から成都を取り、臧熹は中水から広漢を取れ、老弱兵を高艦十余に乗せて黄虎へ向かわせよ、との命を知った。
  • 譙縦は果たして譙道福に重兵を与えて涪城に置き、内水に備えさせていた。
  • 朱齢石が平模に至ると、成都まで二百里の地で、譙縦は侯暉・譙詵に一万余を率いさせ、両岸に城を築いて防がせた。
  • 朱齢石は盛暑のなか堅陣を攻めるべきでないとして持久を考えたが、劉鍾は、敵は不意を突かれて怯えており、今こそ総攻撃で平模を抜けば成都は守れない、長引けば涪の軍が来てこちらが窮地に陥ると説いた。
  • 朱齢石はこれに従い、諸将が南城を先に攻めようとしたのに対し、まず北城を落とせば南城は自然に崩れると判断した。
  • 秋七月、朱齢石は北城を急攻して落とし、侯暉を斬った。譙詵は南城へ退こうとしたが、南城も崩壊した。
  • 朱齢石は船を捨てて徒歩で進み、譙縦の将譙撫之が牛脾、譙小苟が打鼻を守ったが、臧熹が撫之を斬ると小苟も潰走し、諸営は望風して次々と崩れた。
  • 戊辰、譙縦は成都を捨てて逃亡し、尚書令馬耽は府庫を封じて晋軍を待った。壬申、朱齢石は成都に入城した。
  • 朱齢石は譙縦の同祖近親を誅し、それ以外は居住を安堵して旧業への復帰を許した。
  • 譙縦は出奔に先立ち墓に別れを告げたが、娘は逃げても辱めを受けるだけだから祖先の墓前で死ぬべきだと諫めた。それでも譙縦は従わず、譙道福を頼った。
  • 譙道福は、ここまでの功業を棄ててどこへ行くのかと怒り、剣を投げて譙縦の馬鞍に当てた。譙縦は去って自縊し、巴西の王志がその首を斬って朱齢石に送った。
  • 譙道福は、自分がいればなお一戦できると兵に訴え、財物を分け与えたが、兵は受け取って逃げた。譙道福も獠中へ逃れたが、巴民杜瑾に捕えられて斬られた。
  • 朱齢石は馬耽を越巂へ移そうとしたが、馬耽は、都へ送らないのは口封じのためだと見て、自ら身を清めて縊死した。ほどなく朱齢石の使者が来て、その死体を斬った。
  • 朝廷は朱齢石を梁秦州六郡諸軍事監とし、豊城県侯に封じた。

北方諸勢力

  • 北魏の奚斤らは越勤部を跋那山で破り、二万余家を大寧へ移した。
  • 河西の胡曹龍ら二万人が蒲子に入り、張外が降って曹龍を大単于に推した。
  • 丙戌、北魏主は定襄大洛城へ赴いた。
  • 河南王熾磐は長柳川で吐谷渾の支旁を破り、その民五千余戸を捕えて帰還した。
  • 八月癸卯、北魏主は平城に還った。曹龍は魏に降り、張外を縛って送り、張外は斬られた。
  • 丁丑、拓跋嗣は豺山宮に行き、癸未に還った。
  • 九月、東晋はあらためて劉裕を太傅・揚州牧に任じたが、また固辞した。
  • 河南王熾磐は渴渾川で吐谷渾の別統掘逵を大破し、男女二万三千を捕えた。

冬 北魏の内外情勢

  • 十月、掘逵は残衆を率いて熾磐に降った。
  • 吐京胡と離石胡の出以眷が北魏に叛いた。拓跋嗣は拓跋屈・劉絜・魏勤に討たせたが、丁巳、出以眷は夏の兵を引き入れて劉絜を捕え、夏へ献じた。魏勤は戦死した。
  • 拓跋嗣は二将を失った責を拓跋屈に問うて処刑しようとしたが赦し、并州刺史を代行させた。ところが拓跋屈は任地で酒に溺れ政務を怠ったため、前後の罪を数えられて檻車で召還され、斬られた。
  • 十一月、北魏主は後秦へ婚姻を求める使者を送った。姚興はこれを許した。
  • この年、敦煌の索邈が梁州刺史とされ、苻宣は仇池へ帰還した。索邈はかつて漢川で姜顕と十五年もの不和があったが、姜顕が肉袒して迎えると怒りを見せず、むしろ厚く遇したので、州境の人心は悦んだ。