資治通鑑晉紀三十五 安皇帝 元興 三年 404年

正月 桓玄の宗廟政策

  • 正月、桓玄は妻の劉氏を皇后に立てた。劉氏は劉喬の曾孫である。
  • 桓玄は、祖先の桓彛より上は名位が低いとして、それ以上の追尊や廟立てを行わなかった。
  • 散騎常侍の徐広は、父祖を敬えば子孫も喜ぶとして、旧例どおり七廟を立てるよう求めた。
  • これに対し桓玄は、晋の七廟制は宣帝が正東向の太祖位に立てない不備があるから見習う価値がないと答えた。
  • 秘書監の卞承之は徐広に、宗廟の祭祀が祖先に及ばないようでは、楚の徳は長く続かないだろうと語った。

二月 桓玄政権への不安と圧政

  • 桓玄は即位後も常に不安を抱えていた。
  • 二月朔夜、海潮が石頭に流れ込み多数の人が死ぬ騒ぎとなると、桓玄は「やつらが動き出したか」と恐れた。
  • 桓玄は細事にまで神経質で、自分の才知を見せたがり、文書の一字の書体違い、一句の誤りでも必ず責め立てた。
  • 尚書の詔答で「春蒐」を誤って「春菟」と書いた事件では、左丞王納之以下、関係者を皆降格した。
  • ときには自ら当直官を指名し、あるいは令史を勝手に用いるなど命令が錯綜し、官司は応答に追われて政務は停滞した。
  • また狩猟を好み、一日に何度も出かけ、東宮へ移ると宮室の改修を重ねて土木を急がせたため、朝野は騒然となり、乱を望む者が増えた。

毛璩の不服従と西方の挙兵

  • 桓玄は使者を送って益州刺史の毛璩に加官したが、毛璩は使者を拘束し、その命令を受けなかった。
  • 毛璩は遠近に檄文を飛ばして桓玄の罪状を並べ、巴東太守柳約之・建平太守羅述・征虜司馬甄季之を派遣し、梁州刺史桓希らを破って、白帝に進屯させた。
  • これは、劉裕がまだ本格的に起兵する前に、西方でもすでに桓玄打倒の動きが出ていたことを示す。

劉裕・何無忌・劉毅らの密謀

  • 劉裕は徐・兗二州刺史の安成王桓脩に従って入朝していたが、桓玄は王謐に対して、劉裕は並外れた風骨を持つ人傑だと語り、宴席には必ず招き、贈答も厚くした。
  • 桓玄の皇后劉氏は、劉裕は龍のように歩み虎のように進む気宇があり、人の下に甘んじる者ではないから早く除くべきだと諫めた。
  • しかし桓玄は、中原平定には劉裕が必要であり、その後に考えると言って退けた。
  • 桓玄は桓弘を青州刺史として広陵に、刁逵を豫州刺史として歴陽に置いた。
  • 劉裕は何無忌とともに京口へ戻り、劉毅もこれに加わって桓玄討伐をひそかに相談した。
  • 何無忌が、桓氏は強大だが本当に図れるかと問うと、劉毅は、道を失えば強者も弱くなる、問題は大事を託せる主を得ることだと答えた。
  • 何無忌が草野にも英雄はいると言うと、劉毅は自分の見るところ劉下邳、すなわち劉裕以外にいないと言った。
  • さらに王元徳・王仲徳兄弟、孟昶、劉道規、魏詠之、檀憑之、諸葛長民、辛扈興、童厚之らが加わり、各地で同時に蜂起する計画が立てられた。
  • 江北では劉毅と劉道規・孟昶が広陵の桓弘を殺して拠点とし、歴陽では諸葛長民が刁逵を殺し、建康では王元徳らが内応して桓玄を攻める手筈だった。

孟昶の妻・周氏、何無忌の母

  • 孟昶は妻の周氏に、もし失敗すれば離縁してくれ、成功して富貴になれば迎えに来ると言った。
  • 周氏は、君の父母が健在なのに非常の企てをするのは止められないが、失敗したなら自分は官婢となってでも姑に仕えるだけで、離れるつもりはないと答えた。
  • そして財物をことごとく差し出し、幼子さえ売る必要があれば惜しまないと言って軍資を助けた。
  • また妹をだまして厄除けの名目で赤い布を集め、兵士の袍を縫わせた。
  • 何無忌が夜中に屏風の裏で檄文を書いていると、母がひそかに見て涙し、自分は呂母ほどの人物ではなかったが、お前がここまでやるなら思い残すことはないと言って励ました。

二月乙卯・丙辰 京口挙兵

  • 乙卯、劉裕は狩猟を口実に何無忌と兵を集め、百余人を得た。
  • 丙辰の早朝、京口城門が開くと、何無忌は勅使の衣を着て先導し、一行はそのまま城内へ入り、桓脩を斬ってさらした。
  • 桓脩の司馬刁弘が兵を率いて駆けつけたが、劉裕は城上から、郭江州がすでに安帝を奉じて尋陽で復位させ、自分たちも密詔を受けて逆党を討っている、桓玄の首はすでに大航にかかっているはずだと偽って告げた。
  • 刁弘らはそれを信じて兵を収めて退いた。

劉穆之の起用

  • 劉裕は、今すぐに一府の主簿が必要だが誰がよいかと何無忌に問うた。
  • 何無忌は劉道民、すなわち東莞の劉穆之を推した。
  • 劉穆之は京口の騒ぎを聞いて道端に出たところ、使者に会ってしばらく黙考したのち、すぐに衣を改めて劉裕のもとへ向かった。
  • 劉裕が軍吏にふさわしい人物を問うと、劉穆之は、この急場では自分を超える者はいないと答えた。
  • 劉裕はこれを喜び、その場で主簿に任じた。

広陵・建康での連動蜂起

  • 孟昶は桓弘に早朝の狩猟を勧めて城門を開かせ、劉毅・劉道規ら数十人とともに直入して、粥を食べていた桓弘を斬った。続いて兵を収めて江を渡った。
  • 劉裕は劉毅に命じて刁弘を誅させた。
  • 以前、劉裕は周安穆を建康へ送り劉邁に決起を知らせていたが、劉邁は口では同意しながら実は恐れていたため、周安穆は漏洩を恐れて逃げ帰った。
  • 桓玄は劉邁を竟陵太守にしようとしていたが、その夜に北府軍の情勢や劉裕の動向を尋ねる手紙を送った。
  • 劉邁はすでに謀反が露見したと思って桓玄に白状したため、桓玄は驚いて彼を重安侯に封じた。
  • しかし逃亡した周安穆を捕えなかったことを恨み、結局は劉邁を殺し、王元徳・辛扈興・童厚之らも皆誅殺した。

劉裕、盟主となる

  • 衆人は劉裕を盟主に推し、徐州のことを総督させ、孟昶を長史、檀憑之を司馬とした。
  • 彭城出身の志願兵は郡主簿の劉鍾に統率させた。
  • 丁巳、劉裕は兗・徐二州の兵千七百を率いて竹里に陣し、檄を四方に飛ばした。
  • そこでは、毛璩が荊楚を平定し、郭昶之が主上を奉じて尋陽で復位させ、王元徳らが石頭を、諸葛長民が歴陽を押さえたと、実情以上に形勢を誇張して宣伝した。

桓玄の対応と劉裕評価

  • 桓玄は上宮へ戻り、近臣を皆省中に入れ、桓謙を征討都督、殷仲文を徐・兗二州刺史とした。
  • 群臣は急いで劉裕を討つべきだと請うたが、桓玄は、劉裕の兵は決死で鋭いから、覆舟山に大軍を置いて待ち、補給のないまま二百里を進ませて疲れさせるのが上策だと論じた。
  • それでも桓謙らが出撃を強く求めたため、呉甫之、皇甫敷を相次いで北上させた。
  • 桓玄は周囲が侮っても、劉裕は一代の雄であり、劉毅は家に一担一石の蓄えもないほど貧しいのに博打では大金を投じ、何無忌は劉牢之に酷似している、この三人が事を起こして成功しないはずがないと評した。

南涼と後秦

  • 南涼王禿髪傉檀は後秦の強大さを恐れ、前年の独自年号をやめ、尚書以下の官を廃し、参軍の関尚を使者として後秦へ送った。
  • 姚興は、藩臣を称しながら勝手に兵を動かし城を築くのは臣下の道ではないと責めた。
  • 関尚は、国を守るための城塞は古来の制度であり、車騎将軍たる傉檀は辺境にあって強敵に接し、国家の門戸を守るためにそうしたのだと答え、姚興を満足させた。
  • しかし傉檀が涼州の領有を望んでも、姚興は許さなかった。

三月 江乗・羅落橋の戦い

  • 三月戊午朔、劉裕軍は江乗で呉甫之と遭遇した。
  • 参軍の齡石は、桓氏から厚恩を受けた家柄なので直接刃を向けたくないと願い出て、後陣に置かれた。
  • 呉甫之は桓玄の驍将で兵も精鋭だったが、劉裕は自ら長刀を執って突撃し、敵を崩して呉甫之を斬った。
  • さらに羅落橋へ進むと、皇甫敷が数千で迎撃し、檀憑之が敗死した。
  • 劉裕はますます奮戦し、大樹を背にして孤軍で支えた。皇甫敷が戟で刺そうとした時、劉裕が怒声を発すると皇甫敷はたじろいだ。
  • そこへ味方が到着して皇甫敷の額を射抜き、倒れたところを劉裕が斬った。皇甫敷は死に際に子孫を託し、劉裕はその遺児を手厚く保護した。
  • 檀憑之の兵は従弟の檀祗に付属させた。

桓玄の動揺

  • 二将の死を聞いた桓玄は大いに恐れ、方術家に占わせたり、厭勝の術を行わせたりした。
  • そして群臣に、自分は敗れるのかと問うた。
  • 吏部郎の曹靖之は、民の怨みと神の怒りがあるので自分は恐れていると答えた。
  • 神が怒る理由を問われると、晋の宗廟が江辺に漂泊し、楚の祭祀が父祖に及ばないからだと述べた。
  • 桓玄が、なぜ以前に諫めなかったのかと言うと、みな堯舜の世だとしていたのに自分だけ言えるはずがないと答えたため、桓玄は黙り込んだ。

覆舟山の戦いと桓玄逃走

  • 桓玄は桓謙・何澹之を東陵に、卞範之を覆舟山西に置き、二万を集めた。
  • 己未、劉裕は食事を終えると余糧をすべて捨て、覆舟山東に進んだ。
  • 弱兵に山上で旗を張らせて疑兵とし、数路から並進して山谷を埋めたため、斥候は四方を囲まれて兵数不明だと報告した。
  • 桓玄はますます恐れ、庾賾之の精兵を援軍として送った。
  • しかし桓謙らの兵には北府出身者が多く、もとより劉裕を恐れていて戦意がなかった。
  • 劉裕と劉毅らは複数の隊に分かれて突撃し、劉裕は身をもって先陣を切った。将士は皆、百人力で戦い、叫喚は天地を震わせた。
  • その時、東北風が強かったので火を放つと、炎と煙が天を覆い、太鼓と鬨の声は京邑を震動させた。
  • 桓謙らは総崩れとなった。
  • 桓玄はすでに敗走を決めており、密かに殷仲文に石頭で船を用意させていた。敗報を聞くと、親信数千を率いて出撃するふりをし、そのまま子の桓昇、兄子の桓濬とともに南掖門から石頭へ向かった。
  • 胡藩は馬の手綱を取って、なお羽林射手八百がいて皆桓氏の旧恩ある西方人なのだから一戦すべきだと諫めたが、桓玄は天を指して答えず、そのまま鞭打って逃げた。
  • 桓玄は江を南へ渡って西走したが、恐怖のあまり食も喉を通らず、子の桓昇に胸をさすられてようやく落ち着く有様だった。

劉裕の建康入城

  • 劉裕が建康へ入ると、王仲徳は兄王元徳の子・王方回を抱いて迎え出た。劉裕は馬上で方回を抱き上げ、王仲徳と向かい合って哭し、王元徳に給事中を追贈し、王仲徳を中兵参軍とした。
  • 劉裕は桓謙の旧営に入り、劉鍾に東府を守らせた。
  • 庚申、石頭城に駐屯し、留台を立てて百官を置いた。
  • 桓温の神主は宣陽門外で焼かれ、新たに晋の神主を作って太廟へ納めた。
  • 諸将を派して桓玄を追わせ、尚書王嘏らは百官を率いて安帝を迎えに向かった。
  • 桓玄一族で建康にいた者は皆誅された。
  • 劉裕は臧熹に宮中の図書・器物を収めさせて庫を封じた。金で飾られた楽器を見て冗談めかして欲しくないかと問うと、臧熹は、天子は幽閉されて流浪し、将軍は大義のために苦労しているのに自分にそんな気持ちはないと正色して答え、劉裕は笑って試しただけだと言った。

劉裕政権の成立

  • 壬戌、桓玄の旧司徒王謐らは劉裕に揚州を領させようとしたが、劉裕は固辞し、王謐を侍中・領司徒・揚州刺史・録尚書事とした。
  • 王謐は逆に劉裕を使持節・都督八州諸軍事・徐州刺史に推した。
  • 劉毅を青州刺史、何無忌を琅邪内史、孟昶を丹陽尹、劉道規を義昌太守とした。
  • 劉裕が建康へ入ってからの大きな処分はほとんど劉穆之に委ねられ、急な混乱の中でもことごとく妥当だった。
  • 劉穆之は時宜に応じて制度を調整し、劉裕も自ら率先して威令を示したため、十日も経たずに風俗は大きく改まった。

刁逵・諸葛長民・魏詠之

  • 諸葛長民は豫州で期日に遅れて挙兵できず、刁逵に捕えられて檻車で桓玄のもとへ送られたが、当利で桓玄敗報を聞いた護送兵が檻を破って逃がし、長民は歴陽へ戻った。
  • 刁逵は城を捨てて逃げたが部下に捕えられ、石頭で斬られた。子弟もほぼ皆殺しとなり、末弟の刁騁だけが赦された。
  • 刁逵の旧吏はその甥の刁雍を匿い、洛陽へ送った。刁雍はのち秦を経て魏に仕えることになる。
  • 劉裕は魏詠之を豫州刺史として歴陽に置き、諸葛長民を宣城内史にした。
  • 劉裕はもともと軽薄で無頼と見られ、名門士族とは交際できなかったが、王謐だけは早くから英雄視していた。
  • かつて劉裕が刁逵と博戯をして負け金を払わず、馬をつなぐ柱に縛られた時も、王謐が刁逵を叱って解き、代わりに払ってやったことがあり、劉裕は刁逵を深く恨み、王謐に恩義を感じていた。
  • ただし後世の評では、王謐を保全して刁逵一族を滅ぼしたのは、恩怨の報いとしては狭い処置だと論じられている。

王愉・王綏父子の誅殺

  • 尚書左僕射の王愉と、その子で荊州刺史の王綏は劉裕襲撃を企てたが、発覚して一族誅殺となった。
  • 王綏の弟の子・王慧龍だけは僧彬に匿われて助かり、のち秦を経て魏へ逃れる。

北魏の行政整理

  • 北魏では、中原が荒廃しているため、戸数百に満たない県は廃止するよう命じた。

三月末以後 桓玄、西へ走る

  • 丁卯、劉裕は東府へ帰った。
  • 桓玄が尋陽へ着くと、郭昶之は器財と兵力を提供した。
  • 辛未、桓玄は安帝を脅してさらに西へ移し、劉毅・何無忌・劉道規らがこれを追った。
  • 桓玄は何澹之・郭銓・郭昶之に湓口を守らせた。
  • この道中、桓玄は自ら『起居注』を書き、自分の対劉裕戦略は万全だったが諸将が命令どおり動かなかったために負けたのだと述べ、自賛の文を遠近に示した。

四月 武陵王司馬遵の承制と青州の密謀失敗

  • 丙戌、劉裕は帝の密詔を受けたと称し、武陵王司馬遵に百官を総べさせて臨時に政務を執らせ、大赦を行った。ただし桓玄一族だけは赦さなかった。
  • 劉敬宣と高雅之は青州の豪族や鮮卑の有力者と結んで、南燕主備徳を殺し、司馬休之を迎えようと謀った。
  • 高雅之は劉軌も同志に引き入れようとしたが、劉敬宣は劉軌は老いて安定志向だから漏らすなと止めた。
  • しかし高雅之は結局知らせてしまい、劉軌は同調せず、計画は半ば露見した。
  • 劉敬宣らは南へ逃げ、南燕は劉軌を、次いで高雅之を殺した。
  • 劉敬宣と司馬休之は淮・泗間まで来て桓玄敗北を知り、晋へ帰った。
  • 劉裕は劉敬宣を晋陵太守に任じた。
  • 備徳は桓玄敗北を聞いて、北地王慕容鍾らを南征させようとしたが、自身の病で中止した。

四月 桓玄の江陵帰着と再編

  • 己丑、武陵王司馬遵は東宮に入り、内外ともこれを君主のように扱った。官人任免では「制書」、教令では「令書」と称した。
  • 司馬休之を荊・益・梁・寧・秦・雍六州都督・荊州刺史とした。
  • 庚寅、桓玄は安帝を挟んで江陵へ着き、桓石康が迎え入れた。
  • 桓玄は再び百官を置き、卞範之を尚書僕射とした。
  • 敗走後は威令が行き届かないと恐れ、刑罰をいっそう厳しくしたため、人心はさらに離れた。
  • 殷仲文が諫めると、桓玄は、諸将の失律と天文の不利で旧都楚へ戻っただけであり、いまは猛で正すべきで寛にすべきではないと怒った。
  • 荊江諸郡から起居を見舞う上表が届いても受け取らず、新都遷都を祝賀せよと命じた。

王謐の逃亡と歴陽方面の戦い

  • 王謐は桓玄の禅譲に深く関わっていたため、桓玄敗北後、世論では誅すべきとされたが、劉裕は特に保全した。
  • それでも王謐は劉毅から朝会で璽綬の所在を問われ、不安になって曲阿へ逃げた。
  • 劉裕は武陵王に書を送り、安帝の復位を迎えるよう請うた。
  • 桓玄の甥の桓歆は氐の楊秋を引き入れて歴陽へ侵入したが、魏詠之・諸葛長民・劉敬宣・劉鍾がこれを破り、楊秋を練固で斬った。

四月・五月 桑落洲・湓口の戦い

  • 桓玄は庾稚祖・桓道恭に数千を率いさせ、何澹之らとともに湓口を守らせた。
  • 何無忌・劉道規は桑落洲に至った。
  • 庚戌、何澹之らは水軍を率いて迎撃した。何澹之の常用の船は羽儀や旗幟が華やかで目立っていた。
  • 何無忌は、敵将は必ずしもその船には乗っていないだろうが、もし別船ならそのぶん守兵は弱いから、まずそれを奪えば敵の気勢をくじけると判断した。
  • 劉道規も賛成し、攻めてこれを奪うと、「何澹之を捕えたぞ」と呼ばわった。
  • 敵軍は動揺し、晋軍もそう信じて乗勢に攻め、何澹之らを大破した。
  • 晋軍は湓口を抜き、尋陽を確保し、宗廟の神主を京師へ送り返した。
  • 劉裕には江州都督が加えられた。
  • この戦いで胡藩の乗艦は焼かれたが、彼は全身鎧のまま水中を潜って数十歩進み、ようやく岸に達した。
  • 江陵への路が絶えたため、胡藩は豫章へ戻り、のち劉裕に忠直を重んじられて領軍軍事に引き立てられた。

桓玄の再東下と後燕・柔然・西涼

  • 桓玄は荊州の兵を集め、まだ三十日も経たぬうちに二万を擁し、楼船・器械も整えた。
  • 甲寅、再び諸軍を率いて安帝を挟み東下し、苻宏を梁州刺史として前鋒に立て、徐放を先に送って劉裕らに投降を勧めた。
  • 内容は、兵を解いて帰順するなら罪を許し、官職も与えて以前同様に遇するというものだった。
  • 劉裕は諸葛長民を淮北都督として山陽に鎮させ、劉敬宣を江州刺史とした。
  • 一方、柔然では可汗社崘の従弟悦代大那が社崘暗殺を図って失敗し、魏へ逃れた。
  • 後燕の慕容熙は龍騰苑に逍遥宮を築き、真夏でも士卒を休ませず、多くが暑気で死んだ。
  • 西涼では世子の李譚が死去した。

五月 峥嶸洲の決戦

  • 劉毅・何無忌・劉道規・孟懐玉らは尋陽から西上し、五月癸酉、峥嶸洲で桓玄軍と遭遇した。
  • 晋軍は一万に満たなかったが、桓玄は数万の兵を持っており、将士の中には引き返そうとする者もいた。
  • 劉道規は、ここで臆して退けば必ず追撃され、尋陽へ戻っても守れない、桓玄は名ばかり勇壮で内実は臆病、勝敗は兵数でなく主将の強弱で決まると論じ、先に進んだ。
  • 桓玄は敗走用の小船を常に大船の横に浮かべていたため、兵にも戦う気がなかった。
  • 劉毅らは風に乗じて火を放ち、全軍で先を争って攻めた。桓玄軍は大潰し、輜重を焼いて夜逃げした。
  • 郭銓は劉毅に降り、劉統・馮稚らが尋陽を襲ったが、劉懐粛がこれを平定した。
  • 桓玄は安帝を一艘の船に乗せて西へ走り、永安の何皇后と王皇后を巴陵に残した。
  • 殷仲文は別船で散兵を収容すると称して離脱し、二后を奉じて夏口へ奔ってから建康へ戻った。

五月末 江陵での桓玄最期

  • 己卯、桓玄は安帝とともに江陵へ入った。
  • 馮該は再び下って戦うよう勧めたが、桓玄は従わず、梁州刺史の桓希を頼って漢中へ逃れようとした。
  • しかし人心は離れて命令も通らず、庚辰の夜に出発しようとした時にはすでに城内が乱れていた。
  • 桓玄は腹心百余人と騎乗して西門から出たが、闇の中で左右から斬りつけられ、部下同士で殺し合う混乱となった。
  • わずかに船へたどり着いた時には、側に残ったのは卞範之だけだった。
  • 辛巳、荊州別駕の王康産が安帝を南郡府に迎え入れ、太守王騰之が兵を率いて護衛した。
  • 桓玄は屯騎校尉毛脩之に蜀へ誘われ、これに従った。
  • ちょうど毛璩の兄の子・毛祐之と参軍費恬が、叔父毛璠の喪を江陵へ送る途中で枚回洲に至っていた。
  • 壬午、彼らは桓玄を迎撃し、矢を雨のように浴びせた。寵臣の丁仙期・万蓋らは身をもって桓玄をかばい、皆戦死した。
  • 益州督護の馮遷が刀を抜いて近づくと、桓玄は冠の玉導を抜いて与え、「天子を殺すのか」と言った。
  • 馮遷は「私が殺すのは天子ではなく、天子の賊だ」と答え、桓玄を斬り、桓石康・桓濬・庾賾之も斬った。桓昇は捕えて江陵で市斬にした。
  • こうして安帝は江陵で復位し、毛脩之は驍騎将軍となった。

六月前後 復位後の処置と江陵再失陥

  • 甲寅、大赦が行われ、脅迫されて桓玄に従った者はすべて不問とされた。
  • 戊寅、宗廟の神主を太廟に奉安した。
  • 劉毅らは桓玄の首を送って大桁に掲げた。
  • しかし彼らは勝って大勢は決したと思い、追撃を急がず、風向きも悪くて船が進まなかったため、桓玄の死からかなり日数が経っても主力はまだ到着しなかった。
  • この間、桓謙は沮中に、桓振は華容浦に潜伏していた。
  • 巴陵守将の王稚徽が、「桓歆が京邑を回復し、馮稚も尋陽を奪い、劉毅軍は途中で敗れた」と偽報を送ると、桓振は大喜びし、二百人を集めて江陵を襲い、桓謙も呼応した。
  • 閏月己丑、彼らは江陵を再占領し、王康産・王騰之を殺した。
  • 桓振は行宮で安帝に会うと、階下まで馬を進めて桓昇の所在を問い、すでに殺されたと知ると、国家は何の罪もない自分の一門をなぜここまで滅ぼしたのかと怒鳴った。
  • 琅邪王司馬徳文が、これは自分たち兄弟の本意ではないと言うと、桓振は帝を殺そうとしたが、桓謙が強く止めた。
  • 桓振は退いて桓玄のために喪庭を設け、武悼皇帝と諡した。
  • 癸巳、桓謙らは帝に璽綬を返し、楚の運は尽き、民心は再び晋へ帰ったと述べた。
  • 司馬徳文は徐州刺史、桓振は都督八郡諸軍事・荊州刺史、桓謙は侍中・衛将軍に復した。
  • ただし帝の側近はみな桓振の腹心であった。
  • 桓振は、かつて桓玄が自分を重用しなかったために敗れたのだ、もし自分が前鋒なら天下は取れていたと豪語しつつ、今は酒色と誅殺にふけった。
  • 桓謙は下流へ出て決戦するよう勧めたが、桓振は彼を軽んじて従わなかった。

馬頭・龍泉・霊溪の戦い

  • 劉毅は巴陵で王稚徽を誅し、何無忌・劉道規は馬頭で桓謙を、龍泉で桓蔚を破った。
  • 何無忌はその勢いで江陵へ直進しようとしたが、劉道規は、兵法には屈伸の時があり、性急に進むべきではない、諸桓は西楚に根を張り、桓振は三軍に冠たる勇者で正面から争いにくいから、いったん兵を休めて計略で縛るべきだと主張した。
  • 何無忌は従わず、霊溪で桓振に迎撃され、馮該もこれに合流したため大敗し、戦死者千余、軍は尋陽へ退いた。
  • 劉毅らは劉裕へ上表して罪を請い、劉裕は劉毅の青州刺史を免じて軍の節度責任を問うた。
  • 桓振は桓蔚を雍州刺史として襄陽へ置いた。
  • 柳約之・羅述・甄季之は、桓玄の死を聞いて白帝から枝江まで進んだが、霊溪での敗報を聞いて退き、その後羅述・甄季之は病死した。
  • 柳約之は偽降して桓振を襲おうとしたが、露見して殺された。
  • その司馬時延祖と涪陵太守文処茂が残兵を収め、涪陵を保った。

六月・七月 蜀・後燕・喪葬

  • 六月、毛璩は将を送り漢中を攻めて桓希を斬り、自ら梁州を兼ねた。
  • 七月戊申、永安皇后何氏が崩じた。
  • 後燕では苻昭儀が病むと、龍城の王栄が治療できると称したが、昭儀は死去した。
  • 慕容熙は怒って王栄を公車門で寸断し、さらに焼いた。

八月・九月 諸国の動向

  • 八月癸酉、穆章皇后何氏を永平陵に葬った。
  • 魏では六謁官を置き、古の六卿になぞらえた。
  • 九月、刁騁が反乱を図って誅され、江南の刁氏はついに絶えた。
  • 刁氏はもとより富裕で、奴客を横行させ、山沢を独占して京口の害となっていた。
  • 劉裕はその財産を散じ、民に力に応じて取らせたところ、何日たっても尽きず、飢えた州郡の民はこれで助けられた。
  • 乞伏乾帰は楊盛と竹嶺で戦って敗れた。
  • 西涼公李暠は子の李歆を世子に立てた。

九月 北魏の官制改革

  • 魏主拓跋珪は昭陽殿に臨み、百官を改補し、朝臣文武を自ら選考して任用した。
  • 爵位は四等とし、王は大郡、公は小郡、侯は大県、伯は小県を食むものとした。
  • 旧臣で功がありながら爵位のない者には追封し、宗室でも疎遠な者や異姓の襲封者は爵を一段下げた。
  • また散官五等を置き、文武の優れた人材を第五品から第九品に比定し、欠員が出ればそこから補充する仕組みを整えた。
  • 官名は漢魏旧制を必ずしも用いず、上古風をまねて、諸曹の使者を鳧鴨、候吏を白鷺と呼ぶなど独特の命名を行った。

秋冬 盧循の広州占領

  • 盧循は南海へ侵攻し、番禺を攻めた。
  • 広州刺史の呉隠之は百余日守ったが、冬十月壬戌、盧循は夜襲で城を落とし、官府も民家も焼き払った。
  • 呉隠之は捕えられ、盧循は平南将軍・仮広州刺史を称した。
  • 焼け跡の骨を集めて共同墓を築き、髑髏は三万余りに上った。
  • また徐道覆を始興へ向かわせ、始興相の阮腆之を捕えさせた。

劉裕・劉敬宣と江陵反攻準備

  • 劉裕は青州刺史を兼領した。
  • 劉敬宣は尋陽で糧食を蓄え、船を修理して常に戦備を怠らなかったため、何無忌らが敗退した後も立て直しが可能であった。
  • 桓玄の甥の桓亮が江州刺史を称して豫章へ侵入したが、劉敬宣が撃破した。
  • 劉毅・何無忌・劉道規は再び尋陽から西上して夏口に至った。
  • 桓振は馮該を東岸に、孟山図を魯山城に、桓仙客を偃月塁に置き、あわせて一万人余をもって水陸で支えた。
  • 劉毅は魯山城を、劉道規は偃月塁を攻め、何無忌は中流を遮断した。
  • 朝から昼までのうちに二城はともに陥落し、孟山図・桓仙客は生け捕りにされ、馮該は石城へ逃げた。

北魏・後燕・巴陵

  • 辛巳、魏は大赦して元号を天賜とし、西宮を築いた。
  • 十一月、拓跋珪は西宮へ赴き、宗室には宗師、八国には大師・小師を置き、州郡にもそれぞれ師を置いて、宗族を弁別し、人才を挙げる中正のような役割を担わせた。
  • 後燕の慕容熙は苻皇后と遊猟し、白鹿山から青嶺を越えて滄海まで至って帰ったが、その途上で虎狼に殺されたり凍死したりした士卒が五千余人に上った。
  • 十二月、劉毅らは巴陵を奪取した。劉毅の軍紀は厳整で、通過した土地の百姓は安堵したため、劉裕はふたたび劉毅を兗州刺史に任じた。
  • 桓振は桓放之を益州刺史として西陵に置いたが、文処茂に破られ、桓放之は江陵へ逃げ帰った。
  • 高句麗は後燕を侵した。
  • 戊辰、魏主拓跋珪は豺山宮へ赴いた。
  • この年、晋の民で乱を避けて淮北へ逃れる者が、子を背負い荷を担って道に連なった。