資治通鑑晉紀三十四 安皇帝下 元興 一年 402年
正月 元顕、桓玄討伐を発動
- 庚午朔、朝廷は桓玄の罪状を並べた詔を下し、尚書令の司馬元顕を驃騎大将軍・征討大都督・都督十八州諸軍事とし、黄鉞を加えた。大赦し、年号を元興とした。さらに会稽王道子を太傅に進め、内外に戒厳を敷いた。
- 元顕は桓氏一門を尽く誅そうとしたが、中護軍の桓脩は王誕の甥で、王誕が桓脩らは桓玄と志向が違うと取りなしたため中止した。
- 張法順は、桓謙兄弟は上流の耳目だから斬るべきであり、また大事の成否は前軍よりも劉牢之にかかっている、牢之が桓謙兄弟を殺して忠誠を示さぬなら、こちらが先手を打つべきだと勧めた。
- 元顕は、今は劉牢之なしでは桓玄に対抗できず、挙兵の初めに大将を誅すれば人心が動揺するとして拒んだ。
- また桓氏は代々荆州に恩があり、とくに桓沖の遺愛は大きいとして、その子の桓謙を驃騎司馬から荆州刺史・都督四州諸軍事に任じ、西方人心の懐柔を図った。
正月 魏・秦・柔然の動向
- 丁丑、燕の慕容拔は魏の令支守備軍を攻めて破り、宿沓干を走らせ、遼西太守の那頡を捕えた。慕容拔は幽州刺史として令支に鎮し、陽豪が遼西太守となった。
- 魏主の拓跋珪は、材官将軍の和突に黜弗素古延ら諸部を撃たせて破った。
- もとより拓跋珪は賀狄干を秦に派遣して婚姻を求めていたが、姚興は珪がすでに慕容氏を后としたと聞いて賀狄干を留め、婚姻を断っていた。没弈干や黜弗素古延は秦の属国だったため、魏がこれを攻めたことで秦魏の関係はいよいよ悪化した。
- 庚寅、拓跋珪は大閲兵を行い、并州諸郡に平陽の乾壁へ穀物を集積させ、秦への備えとした。
- 柔然の社崙は当初は秦と親しく、黜弗素古延の救援を出したが、辛卯に和突に大破された。社崙は漠北へ遠く去り、高車の地を奪ってそこに拠った。
- 斛律部の部帥の倍侯利が社崙を撃ったが大敗し、魏に逃れた。
- 社崙は西北で匈奴の遺種を日々攻めて併呑し、諸部を従え、ついに西は焉耆、東は朝鮮、南は大漠に接する大勢力となった。周辺の小国もみな羈属し、自ら豆代可汗と称した。軍制も整え、千人単位の軍、百人単位の幢を置き、功ある者に戦利品を与え、臆病者は石で頭を打って殺した。
正月 南凉、顕美を攻略
- 傉檀は顕美を落とし、孟禕を捕えて、なぜ早く降らなかったのかと責めた。
- 孟禕は、吕氏から厚恩を受けて守土を任された以上、大軍が来てすぐに旗を望んで降れば、かえって明公に罪を得るところだったと答えた。傉檀はその節義を認めて釈放し、礼をもって遇した。
- 二千余戸を移して帰り、孟禕を左司馬に任じようとしたが、孟禕は、吕氏の滅亡も秦が河右を取ることも誰もが知っているが、自分は受け持った城を守り切れなかった以上、重任を受ける資格はないとして辞退した。傉檀はその義を感じ、姑臧へ帰した。
正月 二月 東方の飢饉と桓玄の決断
- 孫恩の乱に加え飢饉も重なって、東方では漕運が絶えた。桓玄が江路を遮断したため、公私ともに乏しく、兵卒には粰や橡の実を食べさせるほどだった。
- 桓玄は、朝廷は憂いが多く自分を討つ余裕はないと見て、兵力を蓄えて情勢を観望していた。
- ところが、朝廷の大軍が発する直前、従兄の石生が密書で知らせてきたため、桓玄は驚き、江陵に籠もる案も考えた。
- しかし長史の卞範之が、元顕は未熟で劉牢之も人望を失っており、近畿に兵を進めて利害を示せば土崩れになる、自ら敵を境内に引き入れて窮する必要はないと説いたため、桓玄はこれに従い、江陵に桓偉を残して自ら東下した。
- 桓玄は元顕を罪する檄文を飛ばし、それが届くと元顕は大いに恐れた。
二月 三月 魏の高平攻略と秦の内政
- 二月癸丑、常山王遵らの魏軍は高平に到着した。没弈干は数千騎で劉勃勃とともに秦州へ逃れ、魏軍は瓦亭まで追ったが及ばず引き返した。府庫・蓄積・馬四万余匹・雑畜九万余口を得て、その民を代都へ移した。残党は四散した。
- 平陽太守の貳塵は再び秦の河東へ侵攻し、長安は震え、関中諸城は昼も門を閉ざした。秦は兵を選び訓練して魏討伐を図った。
- 姚興は子の姚泓を太子に立て、大赦した。姚泓は孝友で寛和、文学を好んだが、柔弱で病弱であった。姚興は後継にしようと思いながら長く迷い、ようやくこれを立てた。
二月 三月 姑臧の飢饉と北方諸勢力
- 姑臧では大飢饉となり、米一斗が五千銭に騰貴し、人が人を食い、餓死者は十余万に達した。城門は昼も閉ざされ、薪採りも途絶えた。
- 民衆は城外に出て胡虜の奴婢になりたいと願う者が日に数百いたが、吕隆はこれが人心を動揺させるのを憎み、ことごとく坑殺したため、屍が道にあふれた。
- 沮渠蒙遜が姑臧を攻めたため、吕隆は利鹿孤に救援を求めた。利鹿孤は傉檀に騎一万を率いさせて救援に向かわせたが、到着前に吕隆が蒙遜を破った。蒙遜は講和を求め、穀物一万余斛を置いて退いた。
- 傉檀は昌松まで来て蒙遜の退却を知ると、凉沢・段冢の民五百余戸を移して帰った。
- 中散騎常侍の張融は、焦朗兄弟は魏安に拠り姚氏と内通して反覆常なき者だから、今討たねば朝廷の憂いになると利鹿孤に進言した。利鹿孤は傉檀に討たせた。
- 焦朗は面縛して降り、傉檀はこれを西平へ送り、その民を楽都へ移した。
三月 桓玄、朝廷軍を破る
- 桓玄が江陵を発し、尋陽を過ぎても官軍が見えなかったので、大いに勢いづいた。庾楷の内応策は漏れ、桓玄はこれを囚えた。
- 丁巳、朝廷は斉王司馬柔之に騶虞幡を持たせて荆江二州に兵を止めるよう宣告させたが、桓玄の前鋒がこれを殺した。
- 丁卯、桓玄は姑孰に至り、馮該らに歴陽を攻めさせた。襄城太守の司馬休之は城を守り、桓玄軍は洞浦を遮断し、豫州の船艦を焼いた。
- 譙王司馬尚之は歩兵九千を浦上に布陣し、楊秋を横江に置いたが、楊秋は桓玄に降り、尚之の軍は潰れて塗中へ逃れ、捕えられた。司馬休之も出戦して敗れ、城を棄てて走った。
- 劉牢之はもとより元顕を憎み、桓玄を除いた後に元顕がさらに驕り、また自分の功が大きくなれば容れられなくなると恐れていた。そこで桓玄を借りて執政を倒し、その後に桓玄の隙を突こうと考え、積極的に討伐しようとしなかった。
- 元顕は昼夜酒色にふけり、牢之を前鋒に任じながらも、牢之が急ぎ面会を求めてもなかなか会わなかった。帝が元顕を餞した時に行き会っても、ただ座したままだったという。
三月 劉牢之の離反
- 劉牢之の軍は溧洲にあった。参軍の劉裕は桓玄を撃つよう請うたが、牢之は許さなかった。
- 桓玄は牢之の族舅の何穆を遣わし、功高くして主に疑われた文種・白起・韓信の例を引き、元顕のような愚主に尽くしても戦勝すれば一門が危うく、敗れれば覆滅するだけだと説いた。桓玄との間には深い怨恨もないのだから、今こそ翻然として転ずれば長く富貴を保てると言った。
- このころ譙王尚之はすでに敗れ、人心はますます恐れていた。牢之は何穆の言を聞き入れ、桓玄と通じた。
- 甥の何無忌と劉裕は力を尽くして諫め、子の劉敬宣も、いま桓玄を放てばやがて董卓の変に似たことになると説いたが、牢之は、桓玄を取るのは手を返すほど容易でも、その後に自分を元顕がどうするか分からぬと言って聞かなかった。
- 乙巳朔、牢之は敬宣を桓玄のもとに遣わして降伏を請わせた。桓玄は内心では牢之誅殺を考えていたが、敬宣と酒宴し、名書画を見せて安心させ、諮議参軍の板授まで与えた。
三月 元顕の敗北と桓玄の入京
- 元顕は出発しようとしたが、桓玄がすでに新亭に至ったと聞き、船を捨てて国子学へ退いた。
- 辛未、宣陽門外に布陣したが、軍中では桓玄がすでに南桁まで来たと噂が広まり、元顕は兵を率いて宮中へ戻ろうとした。
- 桓玄の兵が抜刀して後ろから「武器を捨てよ」と叫ぶと、元顕軍は総崩れとなった。元顕は馬で東府へ逃げ込み、張法順だけが一騎で従った。
- 元顕が道子に計を問うと、道子は涙を流すばかりであった。
- 桓玄は毛泰を遣わして元顕を捕え、新亭へ送って舟の前に縛り、その罪を数え立てた。元顕は王誕と張法順に誤らされたのだと弁解した。
- 壬申、朝廷は隆安の年号へ復した。帝は侍中を遣わして安楽渚で桓玄を慰労し、桓玄は入京して、詔を称して戒厳を解いた。
- 桓玄は総百揆・都督中外諸軍事・丞相・録尚書事・揚州牧・領徐荆江三州刺史・仮黄鉞となり、桓偉を荆州刺史、桓謙を尚書左僕射、桓脩を徐兖二州刺史、桓石生を江州刺史、卞範之を丹陽尹とした。
- 侍中の王謐は、桓玄挙兵時に詔を奉じて会いに行き、桓玄に礼遇されていたため、この時中書令に任じられた。殷仲文は桓玄の姉婿でもあり、郡を捨てて奔ったので諮議参軍とされた。劉邁も訪ねて機知ある応答をし、参軍となった。
三月 元顕・道子一派の処分、劉牢之の死
- 癸酉、有司は会稽王道子の放縦不孝を奏上し、当初は棄市相当としたが、詔で安成郡へ流した。
- 元顕・東海王彦璋・譙王尚之・庾楷・張法順・毛泰らは建康市で斬られた。桓脩は王誕のために助命を強く願い、王誕だけは嶺南へ流された。
- 桓玄は劉牢之を会稽内史とし、その兵権を奪おうとした。牢之は、これでついに自分の禍が来ると悟った。
- 劉敬宣は戻って受命するよう説く役を願い出、桓玄はこれを許した。敬宣は逆に、いま桓玄を襲えと牢之に勧めたが、牢之は決断できなかった。
- 牢之は班瀆へ移り、劉裕に、江北へ渡って高雅之のいる広陵へ行き、兵を挙げて社稷を正したい、同行するかと問うた。
- 劉裕は、将軍は数万の強兵を持ちながら風聞だけで降ってしまい、桓玄は新たに威を得て天下を震わせている。朝野の人心もすでに去った以上、広陵へは着けないだろう、自分は兵を解いて京口へ帰ると言った。何無忌には、桓玄が臣節を守るなら仕え、そうでなければともに図るべきだと語った。
- 牢之は僚佐を集めて江北に拠って桓玄を討つことを議したが、参軍の劉襲は、将軍は王恭に反し、ついで司馬元顕に反し、今また桓公に反しようとしている、一人で三度反して何をもって自立するのかと言い終えると走り去った。佐吏も多く散った。
- 牢之は恐れ、敬宣に京口へ家族を迎えさせたが、期日に戻らなかったため、事が漏れて桓玄に殺されると疑い、部曲を率いて北走した。新洲に至ると縊死した。
- 敬宣は至っても哭する暇なく、すぐ江を渡って広陵へ奔った。将吏は牢之を殯殮し、喪を丹徒へ運んだが、桓玄は棺を斫って首を斬り、市に晒した。
三月以後 桓玄の専政と各地の反応
- 桓玄は大赦して年号を大亨とし、丞相・荆江徐三州を辞退して、太尉・都督中外諸軍事・揚州牧・領豫州刺史・総百揆となった。琅邪王徳文は太宰とされた。
- 司馬休之・劉敬宣・高雅之はともに洛陽へ奔り、子弟を秦に質として援軍を求めた。姚興は符信を与え、関中で募兵すると数千を得、彼らは再び彭城方面へ戻って駐屯した。
- 孫恩は臨海を寇し、臨海太守の辛景に破られた。孫恩が掠めた三呉の男女はほとんど死に絶えた。孫恩は官軍に捕らえられるのを恐れ、海に身を投げて死に、その党や妓妾で従死した者は百を数えた。人々はこれを水仙と呼んだ。
- 残党数千は孫恩の妹婿の盧循を推して王とした。盧循は盧諶の曾孫で、容姿すぐれ才芸もあり、若いころ慧遠が、風雅の資質を持ちながら心に不軌を蔵していると見抜いていたという。桓玄は東土を慰撫しようとして、盧循を永嘉太守に任じたが、盧循は命を受けつつも侵掠をやめなかった。
春 南凉の王位継承
- 河西王の秃髪利鹿孤は病に伏し、国事を弟の傉檀に授けるよう遺言した。もとより父の思復鞬は、傉檀の器識は諸子の及ぶところでないとして重んじていたため、兄たちは子に伝えず弟へ継いでいた。
- 利鹿孤の在位中、軍国の大事はほとんど傉檀に委ねられていた。利鹿孤が死ぬと、傉檀が位を継ぎ、凉王と改称し、年号を弘昌とし、都を楽都へ移した。利鹿孤には康王の諡が贈られた。
四月 桓玄政権への失望
- 四月、太尉の桓玄は姑孰へ出屯し、録尚書事の辞任を願い出て許されたが、大政はすべてなお桓玄に諮られ、小事だけが尚書令の桓謙と卞範之に決された。
- 隆安年間以来、人々は内外とも戦乱に疲れ、桓玄が京師に入った当初、奸佞を退け賢者を抜擢したので、都ではしばし安堵の期待が高まった。
- しかしまもなく、桓玄は奢侈放縦となり、政令は一定せず、朋党が争い、朝廷を侮った。天子の乗輿や供奉の品も削減され、帝は飢寒を免れぬほどとなった。
- そのため民心は離れた。三呉は大飢饉で戸口は半減し、会稽は十のうち三、四が失われ、臨海・永嘉はほとんど空となった。富家も絹や財宝を抱えて門を閉ざすだけで、結局は餓死した。
春夏 西秦・南凉・東方の戦い
- 乞伏熾磐は西平から逃げて苑川へ帰った。傉檀はその妻子を返し、乞伏乾帰は熾磐を秦へ入朝させた。姚興は熾磐を興晋太守に任じた。
- 五月、盧循は臨海から東陽へ入り、桓玄は撫軍中兵参軍の劉裕を派遣してこれを撃たせた。盧循は敗れて永嘉へ走った。
夏秋 高句麗・秦魏戦争・桓玄の私封
- 高句麗は宿軍を攻め、燕の平州刺史の慕容帰は城を棄てて逃げた。
- 姚興は諸軍を大発し、義陽公平・狄伯支らに歩騎四万を率いさせて魏を伐たせ、自らも大軍を率いて続いた。尚書令の姚晃は太子姚泓を補佐して長安を守り、没弈干は上邽、広陵公の姚欽は洛陽に留められた。
- 平は魏の乾壁を六十余日攻めて落とした。
- 七月、魏主の拓跋珪は毗陵王順・長孫肥に六万騎を率いさせて先鋒とし、自らも大軍を率いて討伐に向かった。
- 八月、桓玄は朝廷を諷して、自分の元顕討伐の功により豫章公に、また殷仲堪・楊佺期を平らげた功により桂陽公に封じさせ、旧封の南郡公もそのままとした。そして豫章は子の桓昇に、桂陽は兄の子の桓俊に与えた。
八月十月 柴壁の戦い
- 魏主の拓跋珪が永安に着くと、秦の義陽公平は驍勇な将に精騎二百で偵察させたが、長孫肥が逆撃してことごとく捕えた。平は退いて柴壁に籠もり、拓跋珪はこれを追って乙巳に到着し、包囲した。
- 姚興は平を救うため四万七千を率いて天渡に拠り、そこから糧を送り込もうとした。魏博士の李先は、高所や深所に拠る兵法の利害を論じ、秦が天渡を取る前に騎兵で先取すれば柴壁は戦わずに取れると説いた。
- 拓跋珪は重囲を築かせ、内囲で平の脱出を防ぎ、外囲で姚興の来援を拒んだ。広武将軍の安同は、汾東の蒙坑では道路が通じないため、姚興は必ず汾西から来る、ならば浮橋で汾を渡って西岸に囲みを築けば敵は智力を施せないと進言し、拓跋珪は従った。
- 姚興は蒲阪に着くと魏の強さを恐れてしばらく進めず、甲子に拓跋珪が歩騎三万で蒙坑の南に迎撃し、千余級を斬った。姚興は四十余里退き、平もまた出撃しなかった。
- 拓跋珪は要害を分守して秦軍を柴壁に近づけず、姚興は汾西に壘を築き、上流から木を流して浮橋を壊そうとしたが、魏軍はこれを引っ掛けて薪にした。
- 十月、平は糧も矢も尽き、夜に全軍で西南の囲みを突き破って脱出を図った。姚興は汾西に兵を列して烽火と太鼓で呼応し、平を力戦させて抜け出させようとしたが、ただ声援するのみで実際には囲みに迫れなかった。
- 平は万策尽きて麾下とともに水へ赴いて死に、多くの将も従った。拓跋珪は泳ぎの達者な者に引っ掛けて捕えさせ、一人も逃さなかった。狄伯支・唐小方ら四十余人を捕らえ、余衆二万余人はみな手を束ねて降った。
- 姚興はこれを目の前で救えず、全軍が慟哭した。たびたび和を請う使者を送ったが、拓跋珪は許さず、勝勢に乗じて蒲阪まで攻めた。秦の晋公姚緒は固く守って戦わなかった。
- このとき柔然が魏を伐とうとしているとの報が入り、戊申、拓跋珪は軍を返した。
- ある者が太史令の晁崇と弟の黄門侍郎の晁懿が密かに秦兵を招いたと告げたため、拓跋珪は晋陽に至って二人に死を賜った。
秋冬 秦・桓玄・流亡者
- 秦は河西の豪族一万余戸を長安へ移した。
- 桓玄は呉興太守の高素、将軍の竺謙之・竺朗之、劉襲・劉季武ら、いずれも北府の旧将を殺した。
- 劉襲の兄で冀州刺史の劉軌は、司馬休之・劉敬宣・高雅之らとともに山陽に拠って兵を起こし、桓玄を攻めようとしたが成らず逃れた。袁虔之・劉寿・高長慶・郭恭らもこれに従った。
- 一行は魏へ向かおうとして陳留の南で二手に分かれ、劉軌・司馬休之・劉敬宣は南燕へ、袁虔之・劉寿・高長慶・郭恭は秦へ奔った。
- 拓跋珪は当初、司馬休之らが来ると聞いて喜んでいたが、来ないのを怪しんで兖州に探索させた。従者を捕えて理由を問うと、魏の威声には帰附する気だったが、崔逞が殺されたと聞いて二国へ走ったのだと答えた。拓跋珪は深く悔い、以後は士人に過ちがあっても比較的寛容になった。
秋冬 南凉・後燕の内乱
- 南凉王の傉檀は姑臧の吕隆を攻めた。
- 燕王の慕容熙は、故中山尹の苻謨の二女を納れた。姉の娀娥を貴人、妹の訓英を貴嬪とし、とくに訓英を寵愛した。
- 丁太后はこれを怨み、兄の子の尚書・丁信とともに慕容熙を廃して章武公の慕容淵を立てようとしたが、発覚した。慕容熙は丁太后に自殺を強いながらも、葬礼は皇后の礼を用い、献幽皇后と諡した。
- 十一月戊辰、慕容淵と丁信を殺した。
- 辛未、慕容熙が北原で狩猟していると、石城令の高和が尚方兵を率いて後方で乱を起こし、司隷校尉の張顕を殺し、宮殿を掠めて武庫の兵を取り、官署を脅して門を閉ざし城に登った。
- 慕容熙が急ぎ帰ると、城上の者たちは皆武器を捨てて門を開き、反乱者はほとんど誅された。高和だけは逃れた。
- 甲戌、燕は大赦した。
- 魏は庾岳を司空とした。
十二月 柔然の侵攻・道子の死・西凉と蒙遜
- 辛亥、拓跋珪が雲中へ還ると、柔然可汗の社崙は、珪が秦を攻めている隙に参合陂から侵入し、豺山・善無北沢にまで至った。常山王遵が一万騎で追ったが及ばず帰還した。
- 桓玄は御史の杜林に会稽文孝王道子の監視を命じて安成へ送ったが、杜林は桓玄の意を受けて毒を飲ませ、道子を殺した。
- 蒙遜が任じた西郡太守の梁中庸が西凉へ叛いて走った。蒙遜は、骨肉のように遇したのに信用しないのは彼が自らを損ねたのだと言い、その家族をすべて返した。
- 西凉公の李暠は梁中庸に、自分は索嗣に比べてどうかと問うた。梁中庸は、まだ量りがたいと答えた。
- 李暠が、もし索嗣が自分に匹敵する器なら、どうして千里の外から長縄をもってその首を絞れたのかと言うと、梁中庸は、智には長短があり、命には成敗がある、身を失ったから負けで、計が行われたから勝ちというなら、公孫瓚が劉虞より賢であったことになるのかと反論した。李暠は黙した。
- 袁虔之らが長安に着くと、姚興は桓玄の才略は父の桓温に比べてどうか、ついに成功するかと問うた。袁虔之は、桓玄は晋室の衰乱に乗じて宰相位を奪ったにすぎず、猜忌で残忍、刑賞も不公で、父には遠く及ばない、今後は必ず簒逆に進み、他人のために障害を取り除くだけだと答えた。姚興はこれを良しとし、袁虔之を広州刺史に任じた。
年末 秦の冊封と王松怱の事件
- この年、姚興は昭儀の張氏を皇后に立て、子の姚懿・姚弼・姚洸・姚宣・姚諶・姚愔・姚璞・姚質・姚逵・姚裕・姚国児らをみな公に封じた。
- また使者を遣わして、秃髪傉檀を車騎将軍・広武公、沮渠蒙遜を鎮西将軍・沙州刺史・西海侯、李暠を安西将軍・高昌侯に任じた。
- 秦は鎮遠将軍の趙曜に二万を率いさせて西方の金城へ屯させ、建節将軍の王松怱には騎兵を率いさせて吕隆の姑臧防衛を助けさせた。
- 王松怱が魏安に至ると、傉檀の弟の文真がこれを撃って捕らえた。傉檀は大いに怒って文真を責め、王松怱を長安へ送り返して深く謝罪した。河湟諸国がみな姚秦の強さを恐れていたことを示す出来事である。