資治通鑑晉紀三十二 安皇帝 隆安 二年 398年
春正月:慕容徳の南遷と南燕政権の整備
- 燕の范陽王慕容徳は、鄴から四万戸を率いて滑臺へ南下した。魏の衛王拓跋儀は鄴に入って倉庫を接収し、慕容徳を追ったが河に阻まれて捕えられなかった。
- 趙王慕容麟は慕容徳に尊号を奉るよう勧めたが、慕容徳は兄の慕容垂の先例にならい、まずは燕王を称した。
- 慕容徳は永康三年を元年に改め、諸方鎮を統轄する府において皇帝に準じた制度で政務を行い、百官を置いた。慕容麟を司空・領尚書令、慕容法を中軍将軍、慕輿抜を尚書左僕射、丁通を右僕射とした。
- しかし慕容麟は再び反逆を企て、慕容徳に殺された。
魏の河北経営と行台設置
- 庚子、魏王拓跋珪は中山から南巡して高邑に至り、王永の子・王憲を見出した。王猛の孫であることを喜び、本州中正に任じ、選曹と門下の事務も兼ねさせた。
- 拓跋珪は鄴に行台を置き、龍驤将軍・日南公和跋を尚書、左丞賈彝とともに官吏・兵五千を率いて鄴に鎮させた。
- その後、中山へ帰還してから北方へ戻るにあたり、望都から恒嶺を開削して代へ通じる直道を造らせた。山東方面の情勢変化を懸念し、中山にも改めて行台を置いて衛王拓跋儀を駐屯させた。
- 略陽公拓跋遵を尚書左僕射として勃海の合口に鎮させ、右将軍尹国が冀州で租税徴収を督していたが、拓跋珪の北帰を機に信都襲撃を企てたため、安南将軍長孫嵩が捕えて斬った。
後燕の北征中止と魏の人口移送
- 燕の啓倫が龍城へ戻り、中山陥落を報告すると、燕主慕容宝は軍を解こうとした。
- 遼西王慕容農は、遷都直後で南征は時期尚早であり、まず庫莫奚を襲って軍資を補い、情勢を見定めて来年を待つべきだと進言した。慕容宝はこれに従い北行した。
- だが途中で南燕王慕容徳の使者李延が追いつき、拓跋珪が西へ帰って中原が手薄だと伝えると、慕容宝は大いに喜び、ただちに軍を返した。
- 辛酉、魏王拓跋珪は中山を発ち、山東六州の吏民および雑夷十余万口を代へ移して本拠地の充実を図った。
河北の反乱と南燕への流入
- 博陵・勃海・章武では群盗が相次いで蜂起したが、略陽公拓跋遵らがこれを平定した。
- 広川太守賀頼盧は気性が剛強で、冀州刺史王輔の下にいるのを恥とし、王輔を襲って殺したうえで守兵を率い、陽平・頓丘などを掠奪しながら南渡して南燕へ走った。
- 南燕王慕容徳は賀頼盧を并州刺史とし、広寧王に封じた。
西秦の河西侵攻
- 西秦王乞伏乾帰は、乞伏益州を派遣して凉の支陽・鸇武・允吾の三城を攻め落とし、一万余人を掠めて引き揚げた。
後燕の南征準備と将兵の不満
- 燕主慕容宝が龍城へ帰ると、諸軍に駐屯継続を命じ、解散を許さなかった。文武の将兵はみな家族を従えていた。
- 遼西王慕容農と長楽王慕容盛は、兵は疲れ、魏は新たに勝勢を得ているので、いまは兵を養い機会を待つべきだと強く諫めた。
- しかし撫軍将軍慕輿騰は、民衆は既成事実には従うが創業には反発しやすい、いま大軍が集まった以上は聖断で進むべきで、諸説を広く採ると大計を阻むと主張した。
- 慕容宝はこれに従い、反対意見を禁じた。
二月:乙連の兵変と龍城の混乱
- 二月乙亥、慕容宝は出発して駐屯地へ赴き、長楽王慕容盛に後事を任せた。己卯、燕軍は龍城を発し、前軍・中軍・後軍が間隔をあけて進み、百里にわたって連営した。
- 壬午、乙連に至ると、長上の段速骨・宋赤眉らが、長期の兵役に対する不満を利用して反乱を起こした。
- 彼らは高陽王慕容隆の旧部であり、その子の高陽王慕容崇を擁して主君とし、楽浪威王慕容宙・中牟熙公段誼ら宗室諸王を殺した。河間王慕容熙のみは慕容崇と親しかったため助かった。
- 慕容宝は十数騎で司空慕容農の営へ逃れ、慕容農は危険を押して迎えに出た。慕輿騰にも急報した。
- 癸未、慕容宝と慕容農は大営へ戻って段速骨らを討とうとしたが、慕容農の兵も慕輿騰の兵も遠征を嫌って潰走し、両者は龍城へ逃げ帰った。長楽王慕容盛が迎え出て、ようやく難を逃れた。
東晋政局:道子と譙王尚之
- 会稽王司馬道子は王殷の勢力を恐れ、譙王尚之・弟の休之を腹心に引き立てた。
- 尚之は、方鎮が強大で宰相権力が弱いので、ひそかに外地へ腹心を植えて自己防衛すべきだと進言した。道子はこれを容れ、司馬王愉を江州刺史・都督江州および豫州四郡軍事とし、外援として用いた。
- 道子は尚之と日夜密議し、各地の情勢変化に乗じようとした。
魏の北帰と拓跋珪の逸話
- 魏王拓跋珪は繁畤宮に赴き、新たに移住させた民に田地と牛を与えた。
- 白登山で狩りをした際、子を連れた熊を見つけ、冠軍将軍于栗磾に搏ち取れるかと問うた。于栗磾は、人は貴く獣は卑しい、もし討ち損じれば勇士をむだに失うと答え、熊を帝の前へ追い出して射殺させた。拓跋珪はその機転を賞した。
- 秀容川の酋長爾朱羽健は、晋陽・中山攻略の功によって散騎常侍となり、居住地を囲む三百里を封地として与えられた。
- 柔然がたびたび魏辺を侵したため、尚書中兵郎李先の請により討伐軍を出し、大破して帰った。
河西:楊軌・禿髪烏孤・郭黁
- 楊軌は司馬郭緯を西平相とし、歩騎二万を率いて北上させて郭黁を助けた。禿髪烏孤も弟の傉檀に騎兵一万を授けて支援させた。
- 楊軌が姑臧城北に陣すると、燕の尚書で頓丘王の蘭汗はひそかに段速骨らと通じ、龍城東方に兵を置いた。城内の守兵は少なかった。
- 長楽王慕容盛は城近くの住民を移して、一万人余りの壮丁を集めて守らせた。
三月:龍城陥落、段速骨政変、蘭汗の台頭
- 三月甲午、段速骨らが龍城を攻めると、遼西王慕容農は守りきれないうえ蘭汗に誘われることを恐れ、夜のうちに城外へ出て段速骨側に投じた。
- 明朝、反乱軍は攻城したが、城上の抵抗は激しく、死者が多数出た。そこで段速骨は慕容農を連れて城下を巡らせた。慕容農の威望を見た城内守兵は気力を失い、潰走した。
- 反乱軍は城に入って殺掠をほしいままにし、慕容宝・慕容盛・慕輿騰・余崇・張真・李旱・趙恩らは軽騎で南へ逃げた。
- 段速骨は慕容農を宮殿に幽閉した。だが謀主の阿交羅が慕容崇に代えて慕容農を立てようとしたため、慕容崇側近の鬷譲・出力犍らが阿交羅と慕容農を殺した。段速骨は表向きその罪で鬷譲らを誅した。
- 慕容農の旧吏宇文抜は遼西へ逃れた。
- 庚子、蘭汗は段速骨を襲って一党を皆殺しにし、慕容崇を廃して太子慕容策を奉じ、承制して大赦を行い、使者を送り薊城で慕容宝を迎えた。
- 慕容宝は帰ろうとしたが、長楽王慕容盛らは、蘭汗の忠誠は本心か偽りか分からず、単騎で赴くのは危険なので、范陽王慕容徳に合流して冀州を取るか、あるいは南方で兵を集めてから帰るべきだと進言した。慕容宝はいったんこれに従った。
魏の離反平定と南下する慕容宝
- 離石胡帥の呼延鉄、西河胡帥の張崇らは代への移住を嫌って叛いたが、魏の安遠将軍庾岳がこれを平定した。
- 魏王拓跋珪は衛王拓跋儀を中枢へ呼び戻し、略陽公拓跋遵に代えて中山を守らせた。
- 夏四月壬戌、穆崇を太尉、長孫嵩を司徒とした。
- 慕容宝は間道を通って鄴を過ぎ、黎陽南に至って河西に潜んだ。中黄門令趙思を遣わし、北地王慕容鍾に対して、二月に慕容徳から表が届いたため南征したが、乙連で兵変に遭ってここへ来たので、急ぎ丞相に報告して迎えを求めるよう伝えさせた。
趙思と慕容徳の対話
- 慕容鍾は慕容徳の従弟で、以前に慕容徳へ尊号を勧めた一人だった。趙思の報告を聞くと不快に思い、まずこれを獄に下し、慕容徳へ報告した。
- 慕容徳は群臣に対し、社稷のためにやむなく政務を代行したのであって、嗣帝が戻るなら法駕を整えて迎え、行宮で謝罪すべきではないかと述べた。
- しかし黄門侍郎張華は、天下大乱の今は英主でなければ民を救えず、慕容宝は暗愚で大業を継げない、ここで権を手放せば身も社稷も保てないと主張した。
- 慕輿護も、慕容宝は時勢を弁えず国都を捨てて自ら敗れたので多難を担えないとして、たとえ父子の間柄でも拒むべきだと論じた。趙思の言葉が真実かどうか、自ら出向いて確かめると請い、慕容徳は涙を流してこれを許した。
- 慕輿護は壮士数百を率いて迎える名目で北上したが、実際には慕容宝を除く意図だった。ところが慕容宝は樵夫から慕容徳がすでに称制したと聞き、恐れて北へ逃げたため、慕輿護は趙思を捕えて帰還した。
- 慕容徳は趙思が典故に通じるので留めようとしたが、趙思は刑臣であっても主君を思う心は犬馬に劣らぬと述べ、慕容徳が宗室の身でありながら本家の危機を幸いとして簒奪に近い振舞いをしていると厳しく非難した。慕容徳はこれを斬った。
冀州での挙兵論と慕容宝の北返
- 慕容宝は扶風忠公慕輿騰と長楽王慕容盛に命じて冀州で兵を集めさせた。
- 慕容盛は、慕輿騰が日頃から暴横で民に怨まれているのを理由に、これを殺した。
- 鉅鹿へ進むと、長楽地方の豪傑たちはこぞって慕容宝を奉じて起兵する意志を示した。だが慕容宝は、蘭汗が燕の宗廟をまつっているのを見て一応筋が通っていると思い、冀州にとどまるのを嫌って龍城へ戻ることを望んだ。
- 建安に至って地元の張曹が挙兵協力を申し出、慕容盛も蘭汗の真意を探るまで留まるよう勧めたので、慕容宝は李旱を先に蘭汗のもとへ遣わし、自らは石城に留まった。
- まもなく蘭汗は左将軍蘇超を遣わして忠誠を示した。蘭汗は慕容垂の外戚であり、また慕容盛の妃の父でもあったため、慕容宝は疑わず、李旱の帰還を待たずに進んだ。
- 慕容盛は涙を流して強く諫めたが、慕容宝は聞かず、慕容盛だけが後方に残って張真とともに別道から身を隠した。
慕容宝の最期と蘭汗の簒奪
- 丁亥、慕容宝は索莫汗陘に至り、龍城まで四十里に迫った。蘭汗は恐れて自ら出て謝罪しようとしたが、兄弟に止められた。そこで弟の蘭加難に五百騎を与えて出迎えさせ、兄の蘭堤には城門を閉ざして兵を統制させた。城中では変事を察した者が多かったが、どうすることもできなかった。
- 蘭加難が慕容宝に拝謁したのち同行すると、余崇は密かに、顔色から見て禍が迫っているから慎重にすべきだと進言したが、慕容宝は従わなかった。
- 数里進むと蘭加難はまず余崇を捕えた。余崇は、蘭氏は外戚として国恩に浴しながら宗族を滅ぼす逆を企てている、天地が許さず早晩滅ぶだろうと罵り、殺された。
- 蘭加難は慕容宝を龍城外邸へ引き入れて弑した。年四十四であった。
- 蘭汗は慕容宝に霊帝の諡を贈り、献哀太子慕容策や王公卿士百余人を殺し、自ら大都督・大将軍・大単于・昌黎王を称し、年号を青龍と改めた。蘭堤を太尉、蘭加難を車騎将軍とし、河間王慕容熙を遼東公として杞宋の例にならわせた。
慕容盛の忍従
- 長楽王慕容盛は、慕容宝の死を聞いて急ぎ弔おうとしたが、張真は制止した。慕容盛は、自分は行き場なく蘭汗に帰すしかなく、蘭汗は愚かで浅く婚姻関係もあるから、すぐには殺すまい、そのわずかな期間で志を遂げる機会を得ると判断し、龍城へ向かった。
- 蘭汗の妻乙氏と慕容盛の妃は涙を流して助命を願い、妃は諸兄弟にも叩頭して哀願した。蘭汗は哀れに思い、慕容盛を宮中に住まわせ、侍中・左光禄大夫として旧来どおり厚遇した。
- 蘭堤と蘭加難はたびたび慕容盛を殺すよう求めたが、蘭汗は聞かなかった。
- 蘭堤は驕慢で乱暴なうえ放縦で、蘭汗に対しても無礼であった。慕容盛はこの間隙を利用して兄弟の仲を離間し、蘭氏一族の疑心暗鬼を深めさせた。
河西の攻防と段業勢力の拡大
- 凉の太原公呂纂は兵を率いて楊軌を撃ち、郭黁は楊軌を救ったが、呂纂は敗れて帰還した。
- 段業は沮渠蒙遜に西郡を攻めさせ、太守呂純を捕えて帰らせた。呂純は呂光の甥である。これにより晋昌太守王徳、敦煌太守孟敏も郡ごと段業に降った。
- 段業は沮渠蒙遜を臨池侯とし、王徳を酒泉太守、孟敏を沙州刺史に任じた。
六月:魏の国号論
- 丙子、魏王拓跋珪は群臣に国号を議させた。多くは、代北で百代にわたり基業を継いできたのだから「代」を号とすべきだと述べた。
- これに対し黄門侍郎崔宏は、商が殷商と並称されたように、旧邦であっても新命に応じて名を定めるべきであり、登国年間にすでに「魏」としたのだからそのまま用いるべきだと説いた。魏は大きな名であり、中国の上国にふさわしいとした。
- 拓跋珪はこの意見を採用した。
河西:郭黁の失脚と段業の失敗
- 楊軌は兵力を頼んで凉王呂光と決戦しようとしたが、郭黁はたびたび天道の不利を理由にこれを抑えた。
- 呂光は常山公呂弘を張掖に置いていたが、段業は沮渠男成・王徳にこれを攻めさせた。呂光は太原公呂纂を援軍に出した。
- 楊軌は、呂弘の精兵一万が呂光本軍と合流すれば姑臧がますます強くなり奪えないとして、禿髪利鹿孤とともに呂纂を邀撃したが、大敗して王乞基のもとへ逃れた。
- 郭黁は気が短く残忍で、人心を得ていなかった。楊軌の敗北を聞くと西秦へ降り、乞伏乾帰は彼を建忠将軍・散騎常侍とした。
- 呂弘は張掖を棄てて東へ退き、段業は張掖へ遷都した。段業は追撃しようとしたが、沮渠蒙遜が帰師は追うべきでないと兵法を引いて諫めたにもかかわらず従わず、かえって大敗した。
- 段業は西安城を築いて臧莫孩を太守としたが、沮渠蒙遜は、臧莫孩は勇敢だが退きどころを知らず、この配置は城ではなく墓を築くようなものだと評した。果たして臧莫孩はまもなく呂纂に破られた。
太原王慕容奇の挙兵と蘭汗政権の動揺
- 燕の太原王慕容奇は慕容楷の子で、蘭汗の外孫でもあった。蘭汗は彼を殺さず征南将軍としたため、慕容奇は長楽王慕容盛に会うことができた。
- 慕容盛はひそかに慕容奇を逃がして挙兵させた。慕容奇は建安で兵を挙げ、数千人が集まった。
- 蘭汗は蘭堤に討たせようとしたが、慕容盛は、慕容奇のような若年でこれほどのことはできず、背後に内応者がいるに違いない、しかも蘭堤は驕慢で信用できず大軍を委ねるべきでないと進言した。
- 蘭汗はこれをもっともとして蘭堤の兵を解き、改めて仇尼慕に命じて慕容奇を討たせた。
夏から秋:旱魃、蘭氏兄弟の内訌、慕容盛の決起
- この年、龍城では夏から秋にかけて雨が降らなかった。
- 七月、蘭汗は日々燕の諸廟と慕容宝の神座に赴いて叩頭し、慕容宝弑逆の罪を蘭加難に帰そうとした。
- これを聞いた蘭堤・蘭加難は怒り、また誅殺を恐れて乙巳、部衆を率いて仇尼慕の軍を襲い、打ち破った。
- 蘭汗は大いに恐れ、太子蘭穆に討伐を命じた。蘭穆は、慕容盛こそ自分たちの仇であり、慕容奇とも内外で呼応しているはずだから、まず慕容盛を除くべきだと主張した。
- 蘭汗は慕容盛を殺そうとして召し出そうとしたが、慕容盛の妃が密かに知らせたため、慕容盛は病と称して出ず、蘭汗も中止した。
- 李旱・衛双・劉忠・張豪・張真はいずれも慕容盛がもとより厚遇していた人物だったが、蘭穆は逆に彼らを腹心とした。李旱と衛双は宮中を出入りできたため、ひそかに慕容盛と結んだ。
- 丁未、蘭穆は蘭堤・蘭加難らを破った。だが庚戌、将士への饗宴で蘭汗・蘭穆ともに酔うと、慕容盛は夜に厠へ行くふりをして塀を越え、東宮に入り、李旱らとともに蘭穆を殺した。
- まだ軍の警備が解けていなかったため、諸軍は蘭穆の舎に集まっていた。慕容盛が脱出したと聞くと歓呼して蘭汗を攻め、これを斬った。
- 蘭汗の子で魯公の蘭和、陳公の蘭揚は令支と白狼に分屯していたが、慕容盛は李旱・張真を遣わして襲わせ、誅した。蘭堤と蘭加難も逃げたが捕えられて斬られた。
- こうして内外はようやく安定し、士女は相賀した。宇文抜も壮士数百を率いて駆けつけ、慕容盛は大宗正に任じた。
七月辛亥:慕容盛の摂政
- 辛亥、慕容盛は太廟に告げ、祖先の加護と文武の力により宗廟社稷が再興されたとし、自分だけが父の仇を討つ責務を果たしたのではなく、臣民もまた当世において目を開いて恥を雪いだと布告した。
- 大赦して建平と改元した。
- ただし自らはまだ尊号を称さず、長楽王として統制を摂行するとした。
- 諸王をみな公に降格し、東陽公慕容根を尚書左僕射、衛倫・陽璆・魯恭公慕容滕を尚書、悦真を侍中、陽哲を中書監、張通を中領軍とし、他の文武官も旧職へ戻した。
- また慕容宝の諡を恵閔皇帝、廟号を烈宗と改めた。
慕容奇の最期
- はじめ慕容奇が建安で挙兵したとき、中原から来た人々も北地の鮮卑人もこぞって従い、蘭汗は兄の子蘭全に討たせたが、慕容奇はこれを破って乙連へ進んでいた。
- 慕容盛が蘭汗を誅した後、兵を解くよう命じたが、慕容奇は丁零の厳生と烏桓の王龍の進言を受けて従わなかった。
- 甲寅、三万余人を率いて横溝に進み、龍城十里に迫った。慕容盛は出撃して大破し、慕容奇を捕えて連れ帰り、党与百余人を斬って、慕容奇にも死を賜った。これにより桓王慕容恪の家系は絶えた。
- 群臣はしきりに尊号を進めたが、慕容盛はなお受けなかった。
魏の平城遷都と宗廟整備
- 魏王拓跋珪は都を平城へ移し、宮室の造営を始め、宗廟と社稷を建てた。
- 宗廟祭祀は年五回とし、分・至・臘の日に行うこととした。
東晋:桓玄・庾楷・王恭の再起
- 桓玄は広州を求めた。会稽王司馬道子は桓玄を嫌い、荊州にとどめたくなかったため、望むところに従って督交広二州軍事・広州刺史に任じたが、桓玄は命を受けても赴任しなかった。
- 豫州刺史庾楷は、自分の四郡を道子が割いて王愉に督させたことに怒り、江州は内地であり、西府の防衛線とも接するため分割すべきでないと上疏したが、朝廷は許さなかった。
- 庾楷は子の庾鴻を遣わして王恭を説き、尚之兄弟が再び権力を握り、朝廷の威を借りて方鎮を削ろうとしている、今のうちに手を打つべきだと促した。
- 王恭はこれに同意し、殷仲堪・桓玄に知らせると、二人も応じて王恭を盟主とし、期日を定めてともに京師へ向かうことにした。
- ただし関所・渡津の警戒が厳しかったため、殷仲堪は斜め織りの絹に書いて矢柄の中へ入れ、鏃で封じ、庾楷経由で王恭へ送った。王恭は開封したものの、文字が歪んで読みにくく、しかも前年に殷仲堪が期日に遅れたこともあって、今回も動かぬのではないかと疑い、自分だけで先に兵を挙げた。
- 司馬劉牢之は、王恭は元舅とはいえ、会稽王は天子の叔父で今まさに政権を執る者であり、今回の人事も大過ではない、晋陽の兵をたびたび興すべきではないと諫めたが、王恭は聞かなかった。
- 王恭は上表して王愉・司馬尚之兄弟の討伐を請うた。
道子と元顕の対応
- 司馬道子は庾楷に懐柔を試み、かつての親密さを説き、王恭は昔あなたを侮ったのであり、従ったところで最後は信用されまいと告げた。
- 庾楷は、山陵のときも前年の事変のときも自分は道子のために動いたのに、道子は王国宝や王緒を殺して王恭に屈した、その後誰が道子に尽くせようかと怒って、翻意しなかった。
- 朝廷は内外とも戒厳し、会稽世子司馬元顕は、前に王恭を討たなかったから今日の難がある、今また望みを許せば太宰家は滅ぶと道子に言った。道子は対処できず、政務をすべて元顕に委ね、自らは酒に沈んだ。
- 元顕は聡敏で、安危を一身に担う構えを見せたため、追従する者は明帝の風があると持ち上げた。
殷仲堪・楊佺期・桓玄の東下
- 殷仲堪は王恭の挙兵を聞き、前年遅参した負い目から急いで出兵した。だが本人は軍事に不慣れで、実務を南郡相楊佺期兄弟に一任した。
- 楊佺期に舟師五千を率いさせて先鋒とし、桓玄がこれに続き、殷仲堪自身は二万を率いて順次東下した。
- 楊佺期は名門出身を誇り、江左の名族に劣ると見る風潮を恨んでいた。もともと鬱屈を抱えていたため、今回も殷仲堪の挙兵に積極的だった。
- 八月、楊佺期と桓玄は湓口に不意に現れ、王愉は備えがなく、あわてて臨川へ逃れたが、桓玄の追兵に捕えられた。
八月:燕の人事と南燕敗北
- 燕では河間公慕容熙を侍中・車騎大将軍・中領軍・司隷校尉、城陽公慕容元を衛将軍とした。慕容元は慕容宝の子である。
- また劉忠・張豪に慕容姓を賜り、李旱を中常侍・輔国将軍、衛双を前将軍、張順を鎮西将軍、昌黎尹張真を右将軍とし、いずれも公に封じた。
- 乙亥、歩兵校尉馬勒らの反乱計画が発覚して誅殺され、この事件は驃騎将軍高陽公慕容崇とその弟東平公慕容澄にも連座し、二人は死を賜った。
- 東晋の寧朔将軍鄧啓方・南陽太守閭丘羨は二万を率いて南燕を攻めたが、南燕の中軍将軍慕容法・撫軍将軍慕容和に管城で敗れ、鄧啓方らは単騎で逃れた。
魏の内政整備
- 魏王拓跋珪は有司に命じて王都周辺の封域を正し、道路の里程標を立て、権衡・度量を統一させた。
- また使者を派遣して郡国を巡行させ、守宰の不法を摘発させ、自らその功罪を考課して昇降黜陟を行った。
九月:東晋の討伐軍と庾楷の敗走
- 九月辛卯、会稽王司馬道子に黄鉞を加え、世子司馬元顕を征討都督として、衛将軍王珣・右将軍謝琰に王恭討伐を命じ、譙王尚之に庾楷討伐を命じた。
- 乙未、燕では東陽公慕容根を尚書令、張通を左僕射、衛倫を右僕射、慕容豪を幽州刺史として肥如に鎮させた。
- 己亥、譙王尚之は牛渚で庾楷を大破し、庾楷は単騎で桓玄のもとへ逃れた。
- 司馬道子は尚之を豫州刺史、弟の恢之を驃騎司馬、允之を呉国内史、休之を襄城太守として、みな兵を持たせて自衛の備えとした。
桓玄・楊佺期、白石と横江で勝つ
- 乙巳、桓玄は白石で官軍を大破した。続いて楊佺期とともに横江へ進むと、尚之は退走し、恢之配下の水軍も全滅した。
- 丙午、司馬道子は中堂に屯し、司馬元顕は石頭を守り、己酉には王珣が北郊、謝琰が宣陽門に陣して備えた。
劉牢之の離反と王恭の滅亡
- 王恭は才地を頼んで人を見下し、王国宝を殺して以来、自分の威は思うままだと考えていた。劉牢之を主力としながら、なお一部将としてしか扱わなかったため、牢之は深く恥じていた。
- 司馬元顕はその心を見抜き、廬江太守高素を遣わして牢之を説き、王恭を裏切ればその地位と号を与えると約束した。さらに司馬道子の手紙で利害を説いた。
- 劉牢之は子の敬宣に相談し、王恭は先帝の恩を受けながらたびたび兵を起こし、成功した後に本当に臣下でいられるのか疑わしいと言った。敬宣も、朝廷に大徳はなくとも大悪もなく、王恭の討伐は情義に背かないと答えた。
- 王恭の参軍何澹之はこの陰謀を知って王恭に告げたが、王恭は平素の確執ゆえ信じず、逆に酒宴の中で牢之を兄として礼遇し、精兵と堅甲をことごとく与えた。
- 劉牢之は竹里に至ると前鋒の顔延を斬って降伏し、子の劉敬宣と女婿の高雅之を帰して王恭を襲わせた。
- 王恭が城を出て兵を示したところ、劉敬宣らの騎兵が横撃し、王恭軍は総崩れになった。王恭が入城しようとすると、高雅之がすでに城門を閉ざしていた。
- 王恭は単騎で曲阿へ逃れたが、馬に不慣れで腿に瘡を生じていた。旧吏の殷確が船で桓玄のもとへ逃がそうとしたが、長塘湖で発見されて捕まり、建康へ送られて倪塘で斬られた。
- 王恭は刑に臨んでも容儀を正し、自分は人を信じることに暗かったためこの結末になったが、本心は社稷に忠であったことだけは後世に知ってほしいと語った。子弟・党与もみな誅された。
- 朝廷は劉牢之を王恭の後任とし、兗・青・冀・幽・并・徐・揚州晋陵諸軍事を都督させた。
西軍の動揺と朝廷の講和策
- そのころ楊佺期・桓玄は石頭に、殷仲堪は蕪湖に至っていた。司馬元顕は竹里から急ぎ帰京し、丹楊尹王愷らに京邑の士民数万人を動員させ、石頭を守らせた。
- 楊佺期・桓玄らは上表して王恭のために弁護し、劉牢之の誅殺を求めた。劉牢之も北府軍を率いて新亭へ急行したため、両軍が近接した。
- これを見て楊佺期・桓玄は顔色を失い、軍を蔡洲へ引いた。朝廷は西軍の実情をまだ知らず、数万の兵が郊外を埋めていることに不安を募らせた。
- 左衛将軍桓脩は、殷仲堪・桓玄らは王恭を頼みにしていたので、王恭滅亡の今はすでに恐れている、利益を与えれば解体できると説いた。
- 司馬道子はこれを採り、桓玄を江州刺史、郗恢に代えて楊佺期を都督梁雍秦三州諸軍事・雍州刺史とし、桓脩を荊州刺史として送り出した。さらに劉牢之に千人をつけて護送させ、殷仲堪は広州刺史へ左遷し、叔父の太常殷茂に詔を持たせて退軍を命じた。
河北・涼州・西平の情勢
- 張驤の子張超は三千余家を集めて南皮に拠り、自ら烏桓王と称して諸郡を掠めた。魏王拓跋珪は庾岳に命じて討たせた。
- 楊軌は廉川に屯して夷夏の衆一万余を集めたが、王乞基は、禿髪氏は才高く兵も盛んであり、しかも自分の旧主でもあるから帰順すべきだと勧めた。楊軌は使者を遣わして西平王禿髪烏孤に降った。
- しかし楊軌はまもなく羌の酋長梁飢に敗れ、西海へ逃れて乙弗鮮卑を襲い、その地を奪った。
- 禿髪烏孤は、楊軌と王乞基が自分に帰順したのに、救援しなかったのは恥だと述べ、平西将軍渾屯は梁飢には遠大な戦略がなく一戦で擒えられると請け合った。
- 西平では田玄明が太守郭倖を捕えてこれに代わり、梁飢に抵抗するとともに、子を人質として禿髪烏孤に援軍を求めた。
- 群臣は梁飢の兵威を恐れて救援をためらったが、左司馬趙振は、いま洪池嶺北は望めないが、嶺南五郡はこの機を逃さず取るべきであり、西平を羌に奪われれば華夷が動揺すると説いた。
- 禿髪烏孤はこれを喜び、梁飢が西平に拠れば山河の険を得て制し難くなる、彼は猛勇だが軍令が乱れていて破りやすいとして出撃し、大破した。梁飢は龍支堡に退いたが、さらに攻め落とされ、単騎で澆河へ逃れた。
- 禿髪烏孤は数万を斬獲・捕虜とし、田玄明を西平内史とした。楽都太守田瑶、湟河太守張裯、澆河太守王稚も郡ごと降り、嶺南の羌胡数万落がみな禿髪烏孤に附いた。
西秦と吐谷渾
- 西秦王乞伏乾帰は、秦州牧乞伏益州と武衛将軍慕兀、冠軍将軍翟瑥に騎兵二万を授け、吐谷渾を討たせた。
- その後、乞伏益州は吐谷渾王視羆を度周川で破り、視羆は白蘭山に保って講和を請い、子の宕豈を人質とした。乞伏乾帰は宗女をその妻に与えた。
冬十月:慕容盛即位
- 冬十月癸酉、燕の群臣は再び慕容盛に尊号を上った。
- 丙子、長楽王慕容盛はついに皇帝に即位し、大赦した。皇后段氏を皇太后、太妃丁氏を献荘皇后とした。
- かつて蘭汗が政権を握った際、慕容盛は慕容宝とともに出奔し、蘭妃は丁后にいっそう丁重に仕えた。蘭汗誅殺後、慕容盛は蘭妃を連座で殺そうとしたが、丁后が保全の功を主張して争ったため助命された。ただし皇后には立てられなかった。
殷仲堪・桓玄・楊佺期の分裂と再同盟
- 殷仲堪は左遷の詔を受けて激怒し、桓玄と楊佺期に進軍を促した。だが二人は朝命で地位を得たことを喜び、受けるべきか迷っていた。
- 殷仲堪はそれを聞くと蕪湖から急ぎ南へ帰り、蔡洲の軍士に、各自散って帰らねば江陵へ戻った後に家族まで皆殺しにすると通告した。
- 楊佺期配下の劉系が二千人を率いて先に帰ったため、桓玄らも動揺して狼狽し、西へ退いた。
- 追って殷仲堪に尋陽で追いつくと、仲堪はすでに失脚しており、桓玄らを頼みとし、桓玄らもまた仲堪の兵を必要としていたため、内心では疑い合いながらも離れられず、子弟を人質に出し合った。
- 壬午、尋陽で盟約を結び、ともに朝命を受けず、連名で上疏して王恭の無実、劉牢之と譙王尚之の誅、殷仲堪への降黜が不当であることを訴えた。
- 朝廷はこれを深く恐れ、内外が騒然となったため、桓脩を罷め、荊州を殷仲堪へ返し、慰撫の詔を出した。殷仲堪らはようやく詔を受け入れた。
- 御史中丞江績は、桓脩が朝廷を誤らせて私利を図ったと弾劾し、桓脩は免官となった。
桓玄と楊佺期の対立
- もともと桓玄は荊州で豪縦に振舞っていたため、殷仲堪の近臣には彼を殺すべきだという声が多かったが、殷仲堪は従わなかった。尋陽では逆にその威声と門地に頼って盟主に推したため、桓玄はいっそう驕った。
- 楊佺期は性格が驕悍で、桓玄はしばしば寒士扱いして抑えつけたので、楊佺期は深く恨んだ。
- 楊佺期は密かに殷仲堪へ、桓玄は必ず後患になるから壇所で襲って除くべきだと説いたが、殷仲堪は楊氏兄弟もまた制し難くなることを恐れて固く禁じた。
- こうして三者はそれぞれ本拠へ帰った。桓玄も楊佺期の陰謀を知っており、逆に楊佺期を除く志を抱いた。
- 桓玄は夏口に屯し、始安太守卞範之を長史として謀主とした。
庾楷・郗恢のその後
- このとき赦免から外されたのは庾楷だけであったため、桓玄は庾楷を武昌太守とした。
- 郗恢は朝廷側として西軍に当たっていたが、桓玄が江州を得られぬと知ると、次は自分の雍州を奪って広州へ回されるのではと恐れた。
- 部下に相談すると、楊佺期が来るなら全力で戦えるが、桓玄が来るなら抗しがたいという声が多かった。そこで閭丘羨とともに兵を留めて拒もうとした。
- 楊佺期は、桓玄が沔水に入って自分は前駆にすぎないと吹聴したため、郗恢の兵はそれを信じて戦わずに潰れた。郗恢は降伏を請い、楊佺期は州府に入って閭丘羨を斬り、郗恢を都へ帰した。
- しかし郗恢が楊口に至ると、殷仲堪がひそかに人を遣って彼とその四子を殺し、蛮族に殺されたかのように装った。
十一月:東晋と魏の制度整備
- 十一月、東晋では琅邪王司馬徳文を衛将軍・開府儀同三司、司馬元顕を中領軍、王雅を尚書左僕射とした。
- 辛亥、魏王拓跋珪は尚書吏部郎鄧淵に官制、儀曹郎董謐に礼制、三公郎王徳に律令、太史令鼂崇に天象を整えさせ、崔宏に総裁させて恒久法式とした。
- 楊軌と王乞基もまた戸数千を率いて禿髪烏孤へ帰順した。
十二月:北魏建国
- 十二月己丑、拓跋珪は皇帝に即位し、大赦して元号を天興と改めた。
- 朝野に命じて束髪し帽を着けさせ、旧来の風俗を改めた。
- 遠祖毛以下二十七人を追尊してみな皇帝とし、六世祖力微を神元皇帝・始祖、祖父什翼犍を昭成皇帝・高祖、父拓跋寔を献明皇帝とした。
- 魏の旧俗では孟夏に天と東廟を祀り、季夏に陰山で霜を退け、孟秋に西郊で天を祀っていたが、このとき古制にならって郊廟・朝饗・礼楽を整えた。ただし実際に帝自ら親祭するのは孟夏の祀天のみで、他は多く官に代行させた。
- また崔宏の議に従い、自らを黄帝の後裔と称し、土徳をもって王たるとした。
- 六州二十二郡の守宰・豪傑二千家を代都に移し、東は代郡、西は善無、南は陰館、北は参合までを畿内と定め、その外は四方四維に八部帥を置いて監督させた。
燕の粛清
- 己亥、燕では幽州刺史慕容豪、尚書左僕射張通、昌黎尹張順が謀反の罪で誅された。
孫泰の誅殺と孫恩の海上潜伏
- 琅邪の孫泰は、銭唐の杜子恭から妖術を学び、多くの士民がこれを信奉した。
- 王珣はこれを憎み、孫泰を広州へ流したが、王雅が孝武帝に推薦し、養生術に通じるとして召し返され、ついには新安太守にまでなった。
- 孫泰は晋の命運が尽きると見て、王恭の乱に乗じ、王恭討伐を名目に兵衆を集め、巨万の財貨を蓄えた。三呉の人々には従う者が多く、識者は反乱を懸念したが、中領軍司馬元顕が彼と親しかったため、誰も進言できなかった。
- 会稽内史謝輶がその陰謀を暴いたため、己酉、会稽王司馬道子は司馬元顕に命じて誘い出して斬らせ、六子もあわせて殺した。
- 兄の子孫恩だけは海へ逃れた。愚民の間では孫泰は蝉の脱皮のように尸解して死んでいないと信じられ、海中の孫恩へ食糧や資金を送った。孫恩は亡命者百余人を集めて復讐を図るようになった。
河西・仇池の動き
- 西平王禿髪烏孤はさらに武威王を称した。
- 楊盛は使者を送って魏に通じ、魏はこれを仇池王に封じた。