資治通鑑晉紀三十 烈宗孝武皇帝 太元 十八年 393年
春・燕と西秦の人事
- 正月、後燕の陽平孝王慕容柔が死去した。
- 権千成は前秦に圧迫され、金城王乞伏乾帰に降った。乞伏乾帰は彼を東秦州刺史・休官大都統・顕親公とした。
- 4月、慕容垂は太子慕容宝に大単于を加え、庫傉官偉を太尉、慕容徳を司徒、慕容楷を司空、慕容紹を尚書右僕射とした。
- 5月、子の慕容熈を河間王、慕容朗を勃海王、慕容鑒を博陵王に立てた。
前秦の内紛と竇衝の自立
- 前秦の右丞相竇衝は人を見下す気風があり、自らを天水王に封じるよう求めたが、苻登は許さなかった。
- 6月、竇衝は自ら秦王を称し、元号を元光とした。
- 乞伏乾帰は子の乞伏熾磐を太子に立てた。胡三省は、熾磐は勇略と決断において父より優れていたと評している。
苻登・姚興・魏・後秦
- 7月、苻登は野人堡で竇衝を攻めた。竇衝は後秦に救援を求めた。
- 尹緯は姚萇に対し、太子姚興には仁厚の評判はあるが武略の名がまだ立っていないので、苻登討伐でそれを示させるべきだと進言した。
- 姚興は胡空堡を攻め、苻登は竇衝包囲を解いてこれに向かった。姚興はその機に乗じて平凉を襲い、大きな戦果を挙げて帰還した。胡三省は、このころ苻登は大界の敗戦後、平凉を根拠地にしていたと注している。
- 魏王拓跋珪は、劉勃勃を送還しなかった薛干の太悉伏を討ち、その城を落として住民を虐殺した。太悉伏は前秦へ逃れた。
- 氐族の楊佛嵩も叛いて後秦へ走ったが、晋の楊佺期・趙睦が追撃し、9月に潼関でこれを破った。もっとも後秦の姚崇が救援に来て晋軍を破り、趙睦は戦死した。
後燕の西燕討伐決定
- 10月、姚萇の病は重くなり、長安へ戻った。
- 慕容垂は西燕討伐を議した。諸将は疲弊を理由に反対したが、慕容徳は慕容永が皇号を僭称して人心を惑わしている以上、先にこれを除いて国家の統一を明らかにすべきだと主張した。
- 慕容垂は、自分も老境に入ったがなお攻略できると語り、この敵を子孫のために残したくないとして、出征を決断した。胡三省は、彼は西燕を心配しつつ、北方で台頭する拓跋珪という真の外患を見抜けていなかったと評する。
冬・姚萇の死
- 11月、慕容垂は中山を発し、歩騎七万を率いて西燕へ向かった。丹楊王慕容瓚・張崇を井陘へ、平規を沙亭へ向かわせた。西燕では刁雲・慕容鍾ら五万が潞川を守った。
- 12月、慕容垂は鄴に着いた。
- 同月、姚萇は臨終に際し、姚旻・尹緯・姚晃・姚大目・狄伯支らを召して遺命を授け、太子姚興に対して、宗族には恩を、大臣には礼を、万物には信を、百姓には仁をもって接すべきだと教えた。胡三省は、これは苻健の遺誡に勝るものだと評している。
- 姚萇は姚晃に苻登討伐の策を問われると、事業はほぼ成った、姚興の才知で十分だとして答えなかった。
- その翌日、姚萇が死去した。姚興は喪を秘して発表せず、各地の守りを定めた。
- 姚碩德には、代替わりの時は疑われやすいから秦州へ逃れて様子を見るべきだと勧める者もあったが、碩德は骨肉の争いは自滅だとして拒み、姚興に会って厚遇を受けた。
- 姚興は大将軍を称し、尹緯を長史、狄伯支を司馬として、軍を率いて前秦を討った。