資治通鑑晉紀二十九 烈宗孝武皇帝 太元 十三年 388年

春:謝玄の死と翟遼の自立

  • 正月、謝玄が卒した。康楽献武公と諡された。
  • 二月、苻登は朝那に、姚萇は武都に軍を置いて対峙した。
  • 翟遼は司馬の眭瓊を燕へ送って謝罪したが、慕容垂はその度重なる変節を憎み、眭瓊を斬って関係を断った。翟遼はそこで自ら魏天王を称し、建光と改元し、百官を置いた。

燕の政務委譲と北方の整理

  • 青州刺史の陳留王慕容紹は、平原太守の辟閭渾に攻められて黄巾固へ退いた。慕容垂は慕容紹を徐州刺史へ改めた。辟閭渾は辟閭蔚の子で、苻氏の乱に乗じて斉地に拠り、のちに燕へ降る人物である。
  • 三月乙亥、慕容垂は太子慕容宝に録尚書事を授けて政務を委ね、自らは大綱のみを統べる体制にした。
  • 趙王慕容麟は許謙を破り、許謙は西燕へ逃れた。燕は代郡をいったん廃し、その住民を龍城へ移した。

呂光の政治と段業の諫言

  • 呂光が涼州を平定した際、杜進は功第一で武威太守となり、権勢は群僚を圧した。だが呂光は、甥の石聡から「世人は杜進の名ばかりを聞き、あなたの名を聞かない」と言われ、杜進を疑って殺した。
  • 宴席で政事が話題になった際、参軍段業は呂光に法が峻厳すぎると諫めた。呂光が呉起・商鞅を引き合いに出すと、段業は、両者ともその苛酷さゆえに身を滅ぼしたのであり、今は堯舜を法として大業を開くべきで、涼州の士民が望むのもその道だと述べた。呂光は顔色を改めて謝した。

四月から五月:晋・燕・前秦の動き

  • 四月戊午、晋は朱序を都督司・雍・梁・秦四州諸軍事・雍州刺史として洛陽に駐屯させ、譙王司馬恬をその後任として青・兖二州を統べさせた。
  • 苑川王乞伏国仁は平襄で鮮卑の越質叱黎を破り、その子の詰帰を捕えた。
  • 丁亥、燕では段氏を皇后に立て、太子慕容宝に大単于を兼ねさせた。段后は右光禄大夫段儀の娘で、慕容宝の舅の家系である。前の段妃には成昭皇后の諡が追贈された。
  • 五月、前秦の皇太弟苻懿が卒し、献哀と諡された。
  • 翟遼は滑台へ移り、黄河を拠り所として自立姿勢を強めた。

六月から秋:乞伏国仁の死、魏と庫莫奚

  • 六月、乞伏国仁が卒した。宣烈と諡し、廟号を烈祖とした。子の公府は幼少だったため、群臣は弟の乾帰を推して大都督・大将軍・大単于・河南王とし、大赦して太初と改元した。
  • 魏王拓跋珪は弱落水の南で庫莫奚を破った。庫莫奚は宇文部に属していたが契丹と同類異種で、かつて前燕の慕容皝に破られて松漠の間へ移された部族である。
  • 秋七月、庫莫奚が再び魏営を襲ったが、拓跋珪はまたこれを破った。
  • 前秦と後秦は春以来何度も戦い、互いに勝敗があったが、このころ双方ともいったん軍を解いて帰った。関西の豪傑は、後秦が久しく成果を挙げないのを見て、前秦へ移る者が多くなった。

河南王乾帰の体制づくり

  • 乾帰は辺氏を王后に立て、百官を置き、制度は漢制を模した。出連乞都を丞相、悌眷を御史大夫、辺芮と秘宜を左右長史、翟勍を左司馬、略陽王松寿を主簿、弟の軻彈・益州・屈眷を各州牧に任じた。

八月から十二月:燕・魏・後秦・前秦

  • 八月、苻登は子の苻崇を皇太子とし、苻弁を南安王、苻尚を北海王に封じた。
  • 燕の平幼は章武王慕容宙とともに呉深を討ち、これを破って呉深を繹幕へ追い込んだ。
  • 拓跋珪はひそかに燕攻略の志を抱き、九原公拓跋儀を使者として中山へ送った。慕容垂が自ら来ない理由を問うと、拓跋儀は先代以来の兄弟国の礼を述べ、兵威だけに頼るならそれは将帥のすることだと切り返した。帰国後、慕容垂は老い、太子は暗弱で、慕容徳は材気を誇って少主の臣には収まらないから、慕容垂の死後に内乱が起き、その時こそ図るべきだと拓跋珪に説き、拓跋珪もこれを是認した。
  • 九月、乾帰は都を金城へ移した。張申は広平を、王祖は楽陵を攻めたため、壬午、燕の高陽王慕容隆が討伐に向かった。
  • 十月、姚萇は安定へ戻り、苻登は兵糧を求めて新平に赴いたのち、一万余で姚萇の営を包囲して四方から大哭した。姚萇も営内に哭声を上げさせて対抗し、苻登は退いた。
  • 十二月、謝石が卒し、南康襄公と諡された。
  • 燕では太原王慕容楷・趙王慕容麟が高陽王慕容隆と合口で合流し、張申・王祖を撃った。夜襲を受けたが撃退し、慕容隆は明け方まで追撃して大勝した。張申は首級を見せられて降り、王祖も罪を謝した。
  • 前秦では潁川王苻同成が太尉となった。