資治通鑑晉紀二十六 烈宗孝武皇帝 太元七年 382年
前秦での謀反発覚
- 前秦では、大司農の東海公苻陽、員外散騎侍郎の王皮、尚書郎の周虓が謀反を企てたが発覚し、廷尉に下された。
- 苻陽は、父の苻法が無実で死んだ恨みから仇を討とうとしたと答えた。
- 苻堅は涙を流し、その件は自分の責任ではないはずだと述べた。
- 王皮は、父の王猛に建国の大功がありながら、自分が貧賤に甘んじているのが不満で富貴を求めたのだと率直に語った。
- 苻堅は、王猛が臨終に農具用の牛十頭を与えて生計の足しにさせたのみで、官職を求めなかったことを引き、父は子をよく知っていたと評した。
- 周虓は、自分の一族は代々晋の恩を受けており、生きては晋の臣、死んでは晋の鬼となるだけだと答えた。
- 周虓は以前からたびたび反逆を企てていたため、周囲は殺害を求めたが、苻堅は烈士を殺せば名を成すだけだとして、今回も処刑しなかった。
- 苻陽は高昌郡へ、王皮と周虓は朔方北方へ流された。
- 周虓はその地で死に、苻陽はのちに鄯善へ移された末、国乱のころ東帰を図って殺された。
春から夏 人事と天災
- 苻堅は鄴にあった銅駝・銅馬・飛廉・翁仲を長安へ移した。
- 四月、扶風太守の王永を幽州刺史に任じた。王永は王皮の兄で、弟と違って清廉で学問を好んだためである。
- 陽平公苻融を司徒にしようとしたが辞退したので、苻堅は晋討伐を考え、征南大将軍・開府儀同三司とした。
- 五月、幽州で千里にわたる蝗害が発生し、劉蘭に幽・冀・青・并の民を動員して駆除させたが、秋冬になっても収まらなかった。
八月から九月 前秦の西域遠征計画
- 八月、晋では大赦があった。
- 苻堅は裴元略を巴西・梓潼二郡太守に任じ、ひそかに舟師を整えさせた。将来、順流して東下し晋を討つ意図があったとみられる。
- 九月、車師前部王の彌窴、鄯善王の休密䭾が前秦へ朝見し、西域の不服従諸国を討つ案内役を申し出た。また漢の制度にならって都護を置き、西域を統轄することも求めた。
- 苻堅は呂光を使持節・都督西域征討諸軍事とし、姜飛・彭晃・杜進・康盛らとともに兵十万、鉄騎五千を率いて西域へ向かわせた。
- 陽平公苻融は、西域は遠すぎて得る利が薄く、漢武帝の前例でも収支が合わなかったと諫めたが、苻堅は聞かなかった。
晋の襄陽方面での攻撃
- 桓冲は朱綽に命じて、前秦の荆州刺史・都貴の治める襄陽を襲わせた。
- 朱綽は沔北の屯田を焼き払い、六百余戸を掠めて帰った。
十月から十一月 苻堅、晋討伐を決意
- 十月、苻堅は群臣を太極殿に集め、即位以来二十数年で四方のほとんどを平定し、残るは東南だけなので、自ら大軍を率いて晋を討ちたいと諮った。
- 朱肜は、今や天罰を行えば戦わずして屈服させられる、北方から南渡した士民を故郷へ帰し、泰山で戦勝報告ができる千載一遇の機会だと賛成した。
- しかし権翼は、晋にはまだ謝安・桓冲という傑物がいて内外が結束しており、攻めるべきではないと反対した。
- 太子左衛率の石越も、今年は天文上「福徳」が呉にあり、長江の険と民心を頼む晋を攻めるのは危険だと述べた。
- 苻堅は、武王も太歳や卜に逆らって紂を討った、夫差や孫皓も江湖に拠って滅びた、自軍の勢いなら投鞭すれば長江も断流すると豪語した。
- 石越は、紂・夫差・孫皓はいずれも暴虐だったが、晋には大罪がないと再び諫めた。
- 群臣の議は長引いたが結論が出ず、苻堅は「道ばたで家を建てるようなもので、いつまでも決まらない」と不満を示した。
- 人払いの後、苻融だけを残して相談すると、苻融は、天道が順でないこと、晋に大義名分となる罪がないこと、自軍が連戦で疲弊し民にも恐れがあること、この三難を挙げて強く止めた。
- さらに、鮮卑・羌・羯が畿内に満ちており、太子に弱兵だけを残して親征すれば、腹心に変が起こる危険があると指摘し、王猛の遺言を思い出すべきだと訴えた。
- 苻堅は怒って退けた。
群臣・家族・道安の諫止
- 朝臣たちも次々に諫めたが、苻堅は、百万の強兵で衰亡寸前の晋を討つのに、なぜ朝廷内外が反対するのか理解できないとした。
- 太子の苻宏も、今年は呉分にあたり、晋君に大罪がない以上、もし失敗すれば威名も財力も傷つくと述べたが、苻堅は聞き入れなかった。
- 慕容垂は逆に、弱い国が強い国に併呑されるのは自然の理であり、天下の大勢を見れば江南を残して子孫の憂いとすべきでないと主張し、苻堅を強く後押しした。
- 苻堅はこれを喜び、天下平定を共にするのは慕容垂だけだとして厚く褒美した。
- なおも苻融は、知足知止を説き、江東は微弱でも中華の正統がなお残る以上、天意は絶えていないとしたが、苻堅は帝王の命数は徳にあるのであって血統に固定されないと反論した。
- 苻堅が信任していた沙門道安にも群臣は進言を頼んだ。
- 十一月、苻堅は道安と同車して東苑に遊び、共に呉越へ行き長江・滄海を見ようと語った。
- 道安は、中土を制して四方を統べるだけで堯舜に比肩できるのに、なぜわざわざ風雨にさらされて遠征する必要があるのか、東南は卑湿で瘴気も多く、舜や禹ですら帰らなかったではないかと諫めた。
- さらに、やむを得ず晋を圧迫するなら、洛陽に駐して使者を先に送り、諸将に大軍を率いさせれば十分で、皇帝自ら江淮を渡る必要はないと述べた。
- 苻堅はこれにも従わなかった。
- 寵妃の張夫人も、天地も聖王も皆「自然の理」に因って成功したのに、今は人心がみな晋伐を不可としており、何に拠って出兵するのかと問い、鶏の夜鳴き、犬の群嘷、厩馬の驚き、武庫の兵器の異音など不吉な兆しを列挙した。
- しかし苻堅は、軍事は婦人の関わるべきことでないと切り捨てた。
- 幼く寵愛されていた中山公苻詵も、国の興亡は賢者を用いるかどうかにかかっており、苻融を退けて謝安・桓冲のいる晋を討つことが理解できないと諫めたが、苻堅は子どもに大事は分からぬとして退けた。
十二月 蝗害処分の中止と異常豊作
- 劉蘭が蝗害を秋冬までに除けなかったとして、有司は彼を召して廷尉へ下すよう奏した。
- しかし苻堅は、災異は天から下るもので、人力では除き切れず、自分の失政こそ原因であって劉蘭の罪ではないとして処罰しなかった。
- この年、前秦では異常な豊作が記録され、上田では一畝七十石、下田でも三十石、幽州では蝗が麻豆を食わず、さらに上田百石・下田五十石ともいうほどであった。