正月 皇后の死と代の寛政
- 皇后王氏が死去した。
- 劉衛辰が再び代に叛いたため、代王什翼犍は東に河を渡ってこれを撃ち、追い払った。
- 什翼犍は性格が寛厚で、郎中令許謙が絹二匹を盗んだことを知っても隠し、左長史燕鳳に「その顔を見るのが忍びない。恥じて自殺すれば、財で士を殺したことになる」と語った。
- また、西部の叛者を討った際、自分の目に矢を受けたが、射手を捕らえても「それぞれ主君のために戦っただけだ」として放免した。
二月 桓温の姑孰移鎮と弟たちへの軍権分掌
- 桓温は姑孰へ移鎮した。
- 弟の桓豁を荊州刺史として襄陽方面に、桓冲を江州刺史として尋陽方面に置き、ともに節を仮して広い方面軍指揮権を持たせた。
二月 哀帝の死と海西公即位
- 司徒司馬昱は、陳祐が洛陽を捨てたと聞き、冽洲で桓温と会して征討を議した。
- しかしその最中の二月丙申、哀帝が西堂で死去した。二十五歳で、嗣子はなかった。
- 丁酉、皇太后は琅邪王司馬奕に大統を継がせ、その日のうちに即位して大赦した。
- 秦でも大赦があり、建元と改元した。
二月〜三月 前燕の洛陽奪取
- 前燕では慕容恪と呉王慕容垂が洛陽を攻めた。慕容恪は、これまで自分が攻撃を控えるのを不満に思っていた諸将に対し、今回は城は高いが兵は弱く、容易に落ちるのだから怯むなと命じた。
- 三月、前燕は洛陽を陥れ、揚武将軍沈勁を捕らえた。
- 慕容恪は沈勁を助命しようとしたが、慕輿虔は、沈勁は志操から見て決して人に用いられる者ではなく、生かせば後患になると述べ、結局これを殺した。
- 前燕軍はさらに崤・澠にまで進出し、関中は大いに震えた。苻堅は自ら陝城へ出て備えた。
- 前燕は慕容筑を洛州刺史として金墉に鎮させ、慕容垂には広大な十州都督を与えて魯陽に一万兵で駐屯させた。
- 慕容恪は鄴へ帰る途中、かつて広固で辟閭蔚を救えず、今また洛陽で沈勁を死なせたことは本意ではないが、元帥として四海に恥じると語った。
- 晋朝は沈勁の忠節を嘉して東陽太守を追贈した。
- 司馬光は、沈勁は父沈充の逆罪を自らの死によってすすぎ、凶逆の家を忠義の門へ変えた者だと評する。
慕容恪の将としての資質
- 慕容恪は威圧や苛刻な命令に頼らず、恩信をもって士卒を扱い、大綱を押さえて細事には煩わされず、兵にとって都合よく安んじられるようにしていた。
- 平時の陣営は一見すると緩やかで犯しやすそうに見えたが、警備は厳密で敵は近づけず、そのため戦って敗れたことがなかった。
四月〜六月 前燕の人事と周撫の死
- 哀帝と静皇后は安平陵に葬られた。
- 四月、前燕の太尉封弈が死に、陽騖が太尉、皇甫真が司空兼中書監となった。
- 陽騖は四朝に仕えた宿老で、地位が高くなっても少壮時以上に謙恭で、子孫を厳しく戒めた。朱紫の高官が一門に並んでも、家法に背く者はいなかった。
- 六月、益州刺史周撫が死んだ。三十余年にわたり益州方面で威徳を布き、朝廷はその子に犍為太守を継がせて待遇した。
秋七月〜冬 皇后冊立・北方異動・司馬勲の叛乱
- 七月、会稽王司馬昱は再び琅邪王に戻され、庾氏が皇后に立てられた。さらに司馬昱の子司馬昌明が会稽王となったが、司馬昱自身はなお会稽王と称した。
- 匈奴の曹轂と劉衛辰が秦に叛き、曹轂は二万人で杏城を攻めた。苻堅は自ら討伐に向かい、李威・王猛に太子苻宏を補佐させて長安を守らせた。
- 八月、苻堅は曹轂を破り、その弟を斬った。曹轂が降ると、豪傑六千余戸を長安へ移した。鄧羌は木根山で劉衛辰を捕えた。
- 九月、苻堅は朔方へ巡り、諸胡を慰撫した。
- 十月、淮南公苻幼が杏城の兵を率いて長安を襲ったが、李威がこれを斬った。
- 鮮卑禿髪部の椎斤が百十歳で死に、子の思復鞬が継いだ。
- 梁州刺史司馬勲は苛酷残忍で、気に入らぬ州の要人をその場で斬り、しばしば自ら射殺すらした。蜀拠有の志を抱いていたが、周撫を恐れて発せず、周撫の死を機に叛いて梁・益二州牧、成都王を自称した。
- 十一月、司馬勲は剣閣から入り、涪城を攻略し、益州刺史周楚を成都に包囲した。
- 桓温は朱序を征討都護に任じて救援させた。
- 苻堅は長安へ戻り、曹轂を雁門公、劉衛辰を夏陽公として、それぞれ旧部を統率させた。
- 十二月、王彪之が僕射となった。