正月〜三月 前燕の河南進出と庚戌制
- 前燕で大赦が行われた。
- 二月、太傅慕容評と李洪が河南で兵を進めた。
- 三月、戸口を大規模に調査し、流民を居住地で土着民として登録する制度を厳格化した。これは庚戌制と呼ばれた。
皇帝の服薬と褚太后の再臨朝
- 哀帝は方士の説を信じ、穀物を断って薬を服し、長生を求めた。
- 侍中高崧は、これは天子のなすべきことではなく、君主の過失が天下に明らかになるようなものだと諫めたが、聞き入れられなかった。
- 辛未、薬の害が発して万機を親裁できなくなり、褚太后が再び臨朝して政務を執った。
夏四月〜五月 前燕の攻勢と晋の失地
- 四月、前燕の李洪が許昌を攻め、懸瓠で晋軍を破った。潁川太守李福は戦死し、朱斌は寿春へ逃れ、陳郡太守朱輔は彭城へ退いた。
- 桓温は袁真らに防戦させ、自らは舟師を率いて合肥に駐屯した。
- しかし前燕はついに許昌を奪い、汝南・陳郡の住民一万余戸を幽州・冀州へ移し、慕容塵を許昌に駐屯させた。
- 五月、王述が尚書令となり、桓温には揚州牧・録尚書事が加えられた。侍中を派遣して朝政に参画させようとしたが、桓温は赴かなかった。
- 王述は、辞退すべきでないものは辞さず、受けないと決めたものだけ辞する人物で、子の王坦之に「能力があるならなぜ譲る必要がある」と言い切った。
六月〜八月 張天錫の冊封と桓温の赭圻進出
- 六月、苻堅は使者を送り、張天錫を正式に使持節・大将軍・涼州牧・西平公に任じた。
- 七月、晋朝は再び桓温を朝廷へ召した。
- 八月、桓温は赭圻に至ったが、朝廷は尚書車灌を遣わしてこれを止めた。桓温はその地に城を築いて留まり、録尚書事については固辞し、揚州牧だけを遠隔で領した。
秦 宗室叛乱の兆しと前燕の中枢移動
- 秦では汝南公苻騰が謀反して誅された。苻騰は苻生の弟である。
- この時、苻生の弟たちはまだ五人おり、王猛は「この五公を除かなければ必ず患いになる」と苻堅に告げたが、苻堅は従わなかった。
- 前燕では慕輿龍が龍城に赴いて宗廟と留守の百官を鄴へ移した。
秋〜冬 前燕の洛陽奪取準備
- 慕容恪は洛陽奪取を図り、先に人を遣わして土民を招納すると、周辺の塢堡が次々と帰服した。
- 司馬悦希を盟津に、孫興を成皋に置いた。
- このころ沈充の子沈勁は、逆臣の子として禁錮されていたが、父の汚名をすすぐため功を立てたいと願い、王胡之の推挙で禁錮を解かれた。
- 前燕が洛陽へ迫ると、守将陳祐の兵は二千に満たなかったため、沈勁は自ら願い出て長史となり、千余人を募って入城した。
- 沈勁は寡兵でたびたび前燕軍を破ったが、洛陽は食糧が尽き、援軍も絶えた。陳祐は許昌救援を名目に九月に東へ退き、沈勁だけが五百で洛陽を守ることになった。
- 沈勁はこれを死所と喜んだが、陳祐は許昌陥落を聞いて新城へ逃れた。
- 前燕の悦希は河南の諸城を次々に攻略した。
秦 王国官制の乱れ是正
- 苻堅は諸公国に三卿以下の官を置かせ、自ら人材を採用させたが、豪商趙掇らまでが車服を僭越し、諸公が競って卿に取り立てた。
- 黄門侍郎程憲がこれを取り締まるよう求めると、苻堅は、もとは賢者を延べ求める趣旨だったのに、かえって猥雑濫任になったとして、無能な者を辟召した諸公の爵を侯へ落とし、以後は国官任用を吏部に一元化した。
- また、命士以上でなければ車馬に乗ることを禁じ、京師百里内では工商・皁隷の金銀や錦繡の服用を禁じ、違反者は死刑とした。
- その結果、平陽・平昌・九江・陳留・安楽の五公が侯へ降格された。