資治通鑑晉紀二十二 孝宗穆皇帝 永和 十一年 355年
仇池の政変
- 春正月、仇池では楊毅の弟・宋奴が、母方の親族である梁式王を使って楊初を殺させた。だが楊初の子・楊國が梁式王と宋奴を誅し、自ら仇池公となった。
- 桓温は楊國を鎮北将軍・秦州刺史に推薦した。
前秦の災異と皇太子冊立
- 二月、前秦では大規模な蝗害が起こり、草木は食い尽くされ、牛馬が互いの毛まで食むほどであった。
- 前秦の淮南王・苻生は幼少より片目がなく、性質も粗暴であった。祖父の苻洪が冗談でからかうと、自ら刀で体を刺して血を流し、「これも涙だ」と言ったという。父の苻健は一時は殺そうとしたが、弟の苻雄がとどめた。成長後は怪力と武勇で知られた。
- 献哀太子が死去すると、強皇后は幼い晋王苻柳を立てようとしたが、苻健は讖文の「三羊五眼」を根拠に苻生を皇太子とした。
- あわせて平昌王苻菁を太尉、王墮を司空、梁楞を尚書令とするなど、人事を整えた。
姚襄、北帰して許昌を占拠
- 姚襄の部下たちの多くが北へ戻るべきだと勧め、姚襄もこれに従った。
- 五月、姚襄は外黄で冠軍将軍の高季を攻めた。高季が死ぬと、姚襄は進んで許昌を占拠した。
前秦の宮廷クーデター未遂と苻健の死
- 六月、前秦の主・苻健が病に伏すと、平昌公苻菁が兵を率いて東宮に入り、皇太子苻生を殺して自立しようとした。
- この時、苻生は西宮で病床の苻健に侍っており、苻菁は苻健がすでに死んだと思い込んで行動した。だが苻健が端門に登って兵を並べると、反乱軍は恐れて散り、苻菁は捕らえられて殺された。
- 苻健は武都王苻安を都督中外諸軍事とし、魚遵・雷弱児・毛貴・王墮・梁楞・梁安・段純・辛牢らに遺詔を託して後事を委ねた。
- 苻健は太子苻生に対し、異族の首長や漢人の重臣で命令に従わぬ者は次第に除けと告げた。これはのちの苻生の大臣虐殺の伏線となった。
- 乙酉、苻健が死去し、景明皇帝と諡され、廟号を高祖とした。翌日、太子苻生が即位し、大赦して年号を寿光に改めた。
- まだ服喪の年内に改元するのは礼に反すると群臣が述べると、苻生は怒って議論の主導者を探し出し、右僕射の段純を殺した。
後燕の東巡帰還と諸郡の帰服
- 夏四月、燕の主・慕容儁が和龍から薊へ帰還した。
- それ以前、幽州・冀州では「皇帝が東へ遷都するのではないか」との風説が広まり、人々が動揺して各地に自衛集団を作っていた。群臣は討伐を求めたが、慕容儁は自分の帰還で自然に収まると見て、実際その通りになった。
- 蘭陵太守の孫黒、済北太守の高柱、建興太守の高瓫、さらに前秦の河内太守王会・黎陽太守韓高らが郡を挙げて燕に降った。
東晋朝廷の疑惑と王彪之の判断
- 秋七月、ある者が会稽王司馬昱に対し、武陵王の邸宅で武器が大量に整えられており、異変を図っていると訴えた。
- 司馬昱が太常の王彪之に相談すると、王彪之は武陵王の関心は狩猟や遊楽に尽き、深謀遠慮はないとして、騒ぎ立てぬよう勧めた。司馬昱はこれを受け入れた。
苻生の即位と暴政の始まり
- 苻生は母の強氏を皇太后とし、妃の梁氏を皇后に立てた。梁氏は梁安の娘であった。
- 寵臣の趙韶を右僕射、趙誨を中護軍、董榮を尚書に取り立てた。
- 中書監胡文・中書令王魚が、星変から「三年以内に大喪と大臣誅殺がある」と諫めると、苻生はそれを皇后や補政大臣に当てはめるかのような不吉な返答をした。
- 九月、苻生は本当に梁皇后と毛貴・梁楞・梁安を殺した。
- 尚書令への就任を勧められた趙俱は、趙韶・趙誨に対して「一門滅亡のもとだ」と責め、自らは病を理由に辞して憂死した。
涼の内乱と張祚の滅亡
- 涼王張祚は淫虐で人望を失い、河州刺史張瓘の勢力を恐れた。索孚を張瓘の後任に送り、張瓘には叛胡討伐を命じ、さらに易揣・張玲に一万三千の兵を与えて襲わせた。
- 張掖の王鸞は術数により遠征失敗と国内危機を予言し、張祚の不道を三つ挙げて諫めたが、張祚はこれを妖言として斬った。王鸞は死に際して、軍は外で敗れ王は内で死ぬと予言した。
- 張瓘は索孚を斬り、張祚廃位と張曜霊復位を掲げて起兵した。易揣らの軍は黄河を渡ったところで破られ、単騎で逃げ帰った。
- 八月、敦煌の宋混と弟の宋澄も張祚に反して西へ走り、兵一万余を集めて張瓘に呼応した。
- 張祚は張曜霊を東苑で殺して砂坑に埋めた。
- 閏月、宋混軍が姑臧に迫ると、張瓘の弟張琚と子張嵩が城中で決起し、西門を開いて宋混を迎え入れた。
- 領軍将軍趙長らは張重華の母・馬氏を奉じて涼武侯張玄靚を立てたが、張祚は剣を執って殿上で抗戦した。しかしもはや人心が離れており、ついに兵士に殺された。宋混らはその首をさらし、庶人の礼で葬り、二人の子も殺した。
- 張玄靚が大将軍・涼州牧・西平公に立てられ、赦令を出して再び建興四十三年を称した。
- 張瓘が姑臧へ入ると、張玄靚を涼王に推し、自身は使持節・都督中外諸軍事・尚書令・涼州牧・張掖郡公として政権を握った。宋混は尚書僕射とされた。
- 隴西の李儼は張瓘に従わず、江東の年号を用いたため、多くの人々が彼のもとに集まった。張瓘が討たせた牛霸は西平の衛綝にも背かれて敗走し、のちに張琚が衛綝を破り、酒泉太守馬基も討たれた。
東晋の北辺措置
- 冬十月、東晋は豫州刺史謝尚に并・冀・幽三州の督を加え、寿春に鎮させた。これは江北防衛線の再編であった。
段龕と燕の対立
- 鎮北将軍段龕が燕の主・慕容儁に対して、皇帝に対する礼を取らず、対等な親族同士のような形式で書簡を送ったため、慕容儁は怒った。
- 十一月、慕容儁は太原王慕容恪を大都督、陽騖を副将として段龕討伐に向かわせた。
高句麗との関係修復
- 十二月、高句麗王高釗は燕へ使者を送り、人質を差し出して朝貢し、母の返還を求めた。
- 燕はこれを許し、殿中将軍刁龕に送還させたうえで、高釗を征東大将軍・営州刺史・楽浪公に封じ、高句麗王の位もそのまま認めた。
上党・安民城の動きと前秦の恐怖政治
- 上党の馮鴦が燕の太守段剛を追い出して安民城に拠り、自ら太守を称して東晋に降った。
- 前秦では丞相雷弱児が趙韶・董榮の専横をたびたび公然と非難したため、二人に讒言されて苻生に殺された。九人の子と二十七人の孫まで同時に誅され、羌族諸部は離反の気配を見せた。
- 苻生は喪中であるにもかかわらず遊興と酒宴を続け、刃物や鋸・鑿などの拷問器具を左右に並べ、即位後まもなく后妃・公卿から下僕に至るまで五百余人を殺した。脚を断ち、脇を裂き、首を鋸で切り、妊婦の腹を割くなど残虐さを尽くした。