資治通鑑晉紀二十一 孝宗穆皇帝 永和十年 354年

正月 張祚の僭号

  • 正月、張祚は自ら凉王を称し、東晋の建興四十二年を廃して「和平」元年と改元した。妻の辛氏を王后、子の張太和を太子とし、弟の張天錫を長寧侯、子の張庭堅を建康侯、張曜霊の弟張玄靚を凉武侯に封じた。
  • さらに百官を置き、郊祀を天子の礼楽で行った。
  • 尚書馬岌は厳しく諫めたため罷免され、郎中丁琪も、張氏は武公張軌以来五十余年にわたり晋臣の節を守ってきたからこそ民心と外援を保てたのであり、今の段階で革命を図るのは自滅だと諫めた。
  • 張祚は激怒し、丁琪を宮門下で斬った。

殷浩失脚

  • 旧魏の降将周成が東晋に叛き、宛から洛陽を襲った。辛酉、河南太守戴施は鮪渚へ逃げた。
  • 前秦の苻雄は司竹を平定し、胡陽赤は灞城の呼延毒のもとへ逃れた。
  • 殷浩は連年の北伐で兵も糧も尽き、桓温は朝野の怨嗟に乗じて殷浩の罪を数え上げ、罷免を求めた。
  • 朝廷はやむなく殷浩を庶人に落として東陽郡信安へ流し、これ以後、内外の大権はほぼ桓温の手に帰した。
  • 殷浩は若いころ桓温と並び称されたが、互いに競い合って相容れず、桓温は常に殷浩を軽んじていた。流罪後の殷浩は、空中に「咄咄怪事」と書き続けたという。
  • のちに桓温は郗超に、殷浩には徳も言論もあり、本来は朝廷の高官として百官の模範となるべき人物だったが、才に適さぬ任用をされたのだと語った。そして尚書令にしようとして書を送ったが、殷浩は返書を慎重にしすぎて空の封筒を送ってしまい、桓温は怒って絶交した。殷浩はついに流所で没した。
  • 以前の会稽内史王述が揚州刺史になった。

二月 桓温の前秦遠征開始

  • 二月乙丑、桓温は歩騎四万を率いて江陵を発し、水軍は襄陽から均口へ入り、南郷に至った。歩兵は淅川から武関へ向かい、司馬勲には子午道から進ませて前秦を攻めた。
  • 同じころ、燕の慕容恪は魯口を包囲した。

三月 燕と姚襄の動き

  • 三月、慕容恪は魯口を陥落させ、呂護は野王へ逃れて弟を通じて謝罪した。燕は呂護を河内太守に任じた。
  • 姚襄は使者を燕へ送り、降伏を申し出た。燕主慕容雋は慕容評を鎮南将軍・都督十州諸軍事として洛水方面に鎮させ、慕容強を前鋒都督として河南に進めた。

桓温の関中進撃

  • 桓温の別将は上洛を攻めて前秦の荊州刺史郭敬を捕らえ、さらに青泥でも勝利した。司馬勲は前秦の西辺を掠め、涼州の王擢も呼応して陳倉を攻めた。
  • 苻健は太子苻萇、丞相苻雄、淮南王苻生、平昌王苻菁、北平王苻碩に五万を授け、嶢柳に布陣して桓温を防がせた。
  • 夏四月己亥、桓温は藍田で前秦軍と戦った。苻生は単騎で何度も陣中を突き抜けて晋軍に大きな損害を与えたが、桓温は全軍を督して戦い、秦軍を破った。桓沖も白鹿原で苻雄を破った。
  • 桓温は勝勢のまま進み、壬寅には灞上に至った。前秦の苻萇らは長安城南へ退き、苻健は老弱六千で長安小城を守った。さらに精兵三万を出して雷弱児らを苻萇に合流させ、桓温に当たらせた。
  • 二輔の郡県は次々に桓温へ降り、桓温は住民を撫慰して旧業への復帰を許した。住民は牛酒を携えて迎え、長老の中には官軍の再来に涙する者もいた。
  • しかし前秦の苻雄は七千騎で子午谷の司馬勲を急襲して破り、司馬勲は女媧堡へ退いた。

燕の大規模な封建

  • 戊申、燕主慕容雋は大規模な封王を行った。慕容恪を大司馬・大都督・録尚書事・太原王、慕容評を司徒・上庸王、慕容霸を呉王とし、そのほか宗室の弟子多数を諸王・公に封じた。
  • 陽騖を司空のまま尚書令にとどめ、呉王慕容霸には信都への移鎮を命じた。
  • もとは慕容皝が慕容霸の才を愛して世子にしようとしたが、群臣の反対でかなわなかった。慕容雋はその後も慕容霸を疎み、落馬で歯を折ったことから名を「缺」と改め、さらに讖文に合わせて「垂」と改名させた。
  • いったん龍城に移して留台を任せたが、東北で人望を得るとますます嫌って再び呼び戻した。それでものちに燕を再興するのはこの慕容垂である。

五月 江東の動揺と王猛の登場

  • 江西の流民郭敞らは陳留内史劉仕を捕らえ、姚襄に降った。建康は震え上がり、周閔を中軍将軍として中堂に屯させ、謝尚も歴陽から戻って都を守った。
  • 王擢は陳倉を陥として前秦の扶風内史毛難を殺した。
  • 北海の王猛は若くして学問を好み、大志を抱きながら細事にこだわらず、人から軽く見られていたが、本人は悠然として華陰に隠棲していた。
  • 桓温が関中に入ると、王猛は粗末な衣でこれを訪れ、蝨を指でつまみながら天下の大勢を論じた。桓温が「天子の命で十万の兵を率いて残賊を除こうとしているのに、三秦の豪傑がまだ来ないのはなぜか」と問うと、王猛は「長安は目と鼻の先なのに灞水を渡らず、民はあなたの本心をまだ知らないからだ」と答えた。
  • 桓温は返答できず、王猛を江東に並ぶ者なしと評価し、軍謀祭酒に任じた。

白鹿原での敗戦と撤退

  • その後、桓温は苻雄らと白鹿原で戦って不利となり、一万余を失った。
  • もともと桓温は関中の麦を兵糧に当て込んでいたが、前秦側はすでに刈り尽くして清野策を取っており、晋軍は食糧不足に陥った。
  • 六月丁丑、桓温は関中の住民三千余戸を移して帰還した。王猛には高官督護の地位を与えて同行させようとしたが、王猛は応じなかった。
  • 呼延毒は一万を率いて桓温に従って帰った。前秦の苻萇らは桓温を追撃し、潼関に至るまで晋軍はたびたび敗れて、失った兵は万単位にのぼった。
  • 桓温が灞上に屯していたとき、順陽太守薛珍は長安へ直進して圧力をかけるよう進言したが、桓温は従わなかった。薛珍は独断で小部隊を率いて渡河し、一定の戦果を上げていた。撤退後、薛珍は自分の勇を誇って桓温の慎重すぎる対応を責めたため、桓温に殺された。
  • 前秦の苻雄は陳倉で司馬勲・王擢を攻め、司馬勲を漢中へ、王擢を略陽へ敗走させた。趙俱は洛陽刺史として宜陽に置かれた。

苻雄の死

  • 前秦の苻雄は雍で喬秉を攻めていたが、丙申に死んだ。苻健は号泣して吐血し、「天は自分に四海平定を許さないのか。なぜ元才をこんなに早く奪うのか」と嘆いた。
  • 苻雄は開国の元勲で、権勢は人主に並びながらも謙恭で、法を守り、広く人を愛したので、苻健は常に「我が周公」と呼んでいた。
  • 子の苻堅が東海王の爵を継いだ。苻堅は幼時から孝心と志があり、博学で多能、多くの英豪と交わっていた。ここから苻堅の事績が始まる。

七~八月 関中平定

  • 燕の楽陵太守慕容鉤は宗室であることを恃んで青州刺史朱禿を侮ったため、朱禿は不満を抑えきれず、七月に慕容鉤を襲って殺し、段龕のもとへ逃れた。
  • 前秦の太子苻萇は雍の喬秉を攻め、八月にこれを斬った。関中の反乱はすべて平定された。
  • 苻健は桓温撃退の功により、雷弱児を丞相、毛貴を太傅、魚遵を太尉、苻生を中軍大将軍、苻菁を司空とした。
  • 苻健は政務にも熱心で、たびたび公卿を招いて治道を議論し、後趙の苛酷・奢侈の後を受けて、寛簡・節倹・儒者尊重を進めたため、前秦の民心はこれを喜んだ。

燕の軍備拡張

  • 燕では大規模な兵員徴発を行い、詔を出した日付をとって「丙戌挙」と呼んだ。

九~十二月 諸国の整理

  • 九月、桓温が前秦遠征から帰ると、皇帝は侍中・黄門侍郎を襄陽に遣わして慰労した。
  • 燕では黄門侍郎宋斌らが冉智を奉じて反乱を起こそうとしたと告発され、みな処刑された。
  • 前秦の太子苻萇は、桓温との戦いで受けた流れ矢の傷がもとで、冬十月に死去し、「献哀」と諡された。
  • 燕主慕容雋は龍城へ赴いた。
  • 桓温の入関時、王擢は凉王張祚に対し、桓温は善戦で志も測り難いと告げた。張祚は恐れ、また王擢が自分に背くことも怖れて刺客を送り、事が漏れるといっそう不安になった。大軍を興して東征のふりをしつつ、実は敦煌へ退こうとしたが、桓温撤退の知らせで中止した。
  • その後、張祚は牛霸ら三千を送り王擢を撃って破った。
  • 十一月、王擢は部衆を率いて前秦に降り、前秦はこれを尚書、啖鉄を秦州刺史とした。
  • 苻健の叔父である武都王苻安は以前東晋から戻る途中に姚襄に捕らえられ、洛州刺史にされていたが、十二月に脱走して前秦へ帰った。苻健は苻安を大司馬・驃騎大将軍・并州刺史として蒲阪に置いた。
  • この年、前秦では大飢饉となり、米一升が布一匹に相当するほど高騰した。