資治通鑑晉紀二十一 孝宗穆皇帝 永和九年 353年

正月 燕の立后と涼の対秦戦

  • 正月乙卯朔、東晋は大赦を行った。
  • 二月庚子、燕主慕容雋は妃の可足渾氏を皇后とし、世子慕容曄を皇太子に立て、いずれも龍城から薊宮へ移した。
  • 張重華は将軍張弘・宋修を王擢に合わせ、歩騎一万五千で前秦を攻めさせた。しかし前秦の苻雄・苻菁に龍黎で大敗し、一万二千級を失い、張弘・宋修は捕らえられ、王擢は秦州を捨てて姑臧へ逃れた。
  • 苻健は苻願を秦州刺史として上邽に置いた。

交州と燕国内の反乱

  • 三月、交州刺史阮敷が林邑を討ち、五十余塁を破った。
  • 旧後趙の衛尉李犢が常山で数千人を集めて燕に叛いた。
  • また西域系胡人の劉康が、劉曜の子を偽って平陽で衆を集め、晋王を称した。夏四月、前秦の苻飛がこれを討ち取った。
  • 東晋では謝尚が尚書僕射となった。

五月 王擢の再侵攻

  • 張重華は再び王擢に二万を与えて上邽を攻めさせた。秦州の郡県の多くはこれに応じ、苻願は敗れて長安へ奔った。
  • 張重華はこの勢いで前秦討伐を願い出て、朝廷から凉州牧に進められた。

燕の東方平定

  • 燕主慕容雋は慕容恪に李犢討伐を命じ、李犢は降った。慕容恪はそのまま魯口の呂護を討った。
  • 六月、前秦の苻飛は仇池の氐王楊初を攻めたが敗れた。苻雄・苻菁は歩騎四万を率いて隴東に屯した。

張遇の謀反と関中の反乱

  • 苻健は張遇の継母韓氏を昭儀とし、人前でしばしば張遇を「仮の子」と呼んだ。張遇はこれを辱めと感じ、苻雄ら主力が外征中なのを見て、関中豪傑と結び、苻氏を滅ぼしてその地を東晋へ献じようとした。
  • 秋七月、張遇は黄門劉晃と謀って夜襲を図り、劉晃が門を開く手はずだったが、ちょうど苻健が劉晃を外出させたため連絡が狂い、張遇は閉ざされた門の前で発覚して誅殺された。
  • これを機に、孔持が池陽、劉珍と夏侯顕が鄠、喬秉が雍、胡陽赤が司竹、呼延毒が灞城でそれぞれ蜂起し、数万の兵を擁して外部に援軍を求めた。
  • 前秦では魚遵を司空とした。

九月 前秦の反攻

  • 九月、苻雄は二万を率いて長安へ帰り、苻菁には上洛を平定させ、豊陽川に荊州を置いて郭敬を刺史とした。
  • 苻雄は清河王苻法・苻飛と分かれて孔持らを討った。

姚襄と殷浩の対立激化

  • 姚襄は歴陽に屯し、燕と前秦が強盛で北伐の望みがないと見ると、淮水流域に屯田を広く設け、将士の訓練に励んだ。
  • 殷浩はその勢力の成長を恐れ、姚襄の弟たちを拘束し、刺客を繰り返し送ったが、刺客たちは事情を姚襄に告げた。
  • 安北将軍魏統が死ぬと、その弟の魏憬が部曲を継いだ。殷浩はひそかに魏憬に五千を率いさせて姚襄を襲わせたが、姚襄は魏憬を斬り、その兵も併呑した。
  • 殷浩はさらに姚襄を恐れ、劉啓を譙に置き、姚襄を梁国内史として蠡台へ移した。

権翼の弁明

  • 魏憬の子弟がたびたび寿春を往来していたため、姚襄はいよいよ不安を募らせ、参軍権翼を殷浩のもとへ送った。
  • 殷浩は、姚襄は同じ王臣でありながら何事も独断し、王臣の体を失っていると責めた。
  • 権翼は、姚襄が遠くから東晋に帰命したのは朝廷に道があり、宰輔が明哲だからであって、いま猜疑の端を作っているのはむしろ殷浩の側だと切り返した。馬を奪った件についても、将来の討伐に備えた自衛にすぎないと述べた。殷浩は笑って打ち消したが、心中では姚襄を制御できていなかった。

十月 殷浩の北伐と大敗

  • もともと殷浩は、梁安・雷弱児をそそのかして苻健を殺し、関中を与えると約していた。弱児らは表向きこれを承知し、援軍まで求めていた。
  • その後、張遇の反乱が起こり、苻健の兄の子黄眉が洛陽から西へ逃れたため、殷浩は内応工作が成功したと思い込んだ。
  • 冬十月、殷浩は寿春から七万を率いて北伐し、洛陽へ進んで園陵を修復しようとした。
  • 王彪之は会稽王司馬昱に対し、梁安・雷弱児は詐っている可能性があり、殷浩は軽進すべきでないと上奏したが、容れられなかった。
  • 殷浩は姚襄を前駆としたが、姚襄は殷浩の接近を察すると、夜逃げを装って伏兵を置いた。殷浩は追撃して山桑に至り、そこで姚襄の反撃を受けて大敗し、輜重を捨てて譙城へ逃げ込んだ。
  • 姚襄は一万余を捕斬し、物資と武器をことごとく奪い、兄の姚益に山桑を守らせ、自身は再び淮南へ赴いた。
  • 会稽王司馬昱は王彪之に、あなたの言うことはことごとく当たったと感嘆した。

涼州 張重華の死と張祚の擁立工作

  • 西平公張重華は病にかかり、わずか十歳の子張曜霊を世子に立てて大赦した。
  • 重華の庶兄で長寧侯張祚は、勇力と事務能力を持ちながら、内外に取り入る術にも長け、寵臣の趙長・尉緝らと義兄弟の契りを結んでいた。都尉常拠は張祚を外へ出すべきだと進言したが、張重華は周公のように幼主を補佐させるつもりだとして退けた。
  • 一方、謝艾は枹罕での功により重華の寵を受けていたが、側近に憎まれ、酒泉太守に左遷されていた。謝艾は上疏して、権幸が政権を握れば公室が危ういとし、入朝して補佐したい、また張祚・趙長らは将来必ず乱を起こすので追放すべきだと訴えた。
  • 十一月己未、張重華は危篤となり、手ずから謝艾を衛将軍・監中外諸軍事として補政に当たらせる命を下したが、張祚・趙長らはこれを隠して発表しなかった。
  • 丁卯、張重華が死ぬと、世子張曜霊が立って大司馬・凉州刺史・西平公を称した。だが趙長らは遺詔を偽造し、張祚を都督中外諸軍事・撫軍大将軍・輔政とした。

年末 姚襄の伸長と各地の動揺

  • 殷浩は部将の劉啓・王彬之に山桑の姚益を攻めさせたが、姚襄が淮南から戻って撃ち、両将は敗死した。
  • 姚襄は芍陂に進んだ。
  • 後趙滅亡後、楽陵の朱禿、平原の杜能、清河の丁嬈、陽平の孫元らは、それぞれ兵を擁して城邑を分拠していたが、この年そろって燕への降伏を願った。燕はそれぞれ青州刺史・平原太守・立節将軍・兗州刺史に任じ、旧拠点に留めて撫治させた。
  • 前秦の苻雄は池陽を落として孔持を斬り、十二月には苻法・苻飛が鄠を平定して劉珍・夏侯顕を斬った。
  • 姚襄は淮を渡って盱眙に屯し、流民を招き集めて兵民七万に達した。守宰を置いて農桑を奨励し、東晋に対しては殷浩の罪を列挙しつつ自らの弁明も記した使者を建康へ送った。
  • 朝廷は謝尚を都督江西淮南諸軍事・豫州刺史として歴陽に鎮させ、姚襄への招撫と備えを兼ねさせた。
  • 凉州では右長史趙長らが、時勢はいまだ安定せず、幼主では立てないとして、長君を立てるべきだと主張した。張祚は張重華の母馬氏の寵を得ており、馬氏もこれを容認した。
  • そのため張曜霊は凉寧侯に落とされ、張祚が大都督・大将軍・凉州牧・凉公として立った。
  • 張祚は権力を握ると淫虐をほしいままにし、張重華の妃裴氏と謝艾を殺した。
  • 燕では慕容恪や慕容軍らが、給事黄門侍郎の慕容霸には天下を担う才があると繰り返し推挙し、この年、慕容雋は慕容霸を使持節・安東将軍・冀州刺史として常山に鎮させた。