資治通鑑晉紀二十一 孝宗穆皇帝 永和八年 352年
正月 前秦が皇帝号を採る
- 正月辛卯、日食があった。
- 前秦では苻雄らが、石氏のように天王号を経てから皇帝に進む必要はなく、漢・晋の正統のように直ちに皇帝号を用いるべきだと勧めた。
- 苻健はこれを受けて皇帝に即位し、大赦を行った。諸公はみな王爵に進められ、単于の称号は諸蛮を統べるためのものとして太子苻萇に譲られた。
杜洪・張琚の内紛
- 司馬勲が漢中へ戻ると、杜洪と張琚は宜秋に駐屯した。杜洪は名族出身であることを頼んで張琚を軽んじたため、張琚は杜洪を殺して自立し、秦王を称して建昌と改元した。
冉閔、劉顕を滅ぼす
- 劉顕が常山を攻めると、冉閔は太子冉智と大将軍蒋幹に鄴を守らせ、自ら八千騎で救援に向かった。
- 劉顕の大司馬・清河王劉寧が棗彊をもって冉閔に降った。冉閔は劉顕を破って襄国まで追い、顕の将曹伏駒が城門を開いて迎え入れた。
- 冉閔は劉顕以下、公卿百余人を殺し、襄国の宮殿を焼き、住民を鄴へ移した。趙の汝陰王石琨は妻妾を伴って東晋へ逃れたが、建康の市で斬られた。
- これにより石氏はついに断絶した。
東晋の北伐論
- 尚書左丞孔厳は殷浩に対し、最近の帰降者たちは人面獣心で義で感化しがたく、また桓温との不和を解かなければ大功は望めないと進言した。韓信・彭越の征伐と、蕭何・曹参の内政のように、内外の役割を明確にし、廉頗・藺相如や陳平・周勃のように協調すべきだと説いた。
- しかし殷浩は受け入れなかった。
- その後、殷浩は許・洛への北進を請い、朝廷は許可した。謝尚と荀羨が都督統としてこれを助けることになり、殷浩は寿春へ進んだ。
- ところが謝尚は張遇をうまく慰撫できず、張遇は怒って許昌に拠り反乱を起こし、配下の上官恩を洛陽に置いた。楽弘も戴施を倉垣で攻め、殷浩軍は進めなくなった。
- 三月、荀羨は淮陰に鎮し、まもなく青州諸軍事の監、さらに兗州刺史を兼ねて下邳に駐屯した。
姚弋仲の遺命と姚襄の南下
- 姚弋仲は病に臨み、四十二人の子らに対して、石氏から受けた恩に報いたかったが今や中原に主がない、父の死後は速やかに東晋へ帰順し、臣節を固守して不義を行うなと遺言した。
- 弋仲が死ぬと、姚襄は喪を秘して六万戸を率い、陽平・元城・発干を破って碻磝津に屯した。長史には王亮、司馬には尹赤、参軍には薛瓚・権翼を置いた。
- 姚襄は前秦軍と戦って三万余戸を失い、滎陽に至って初めて喪を発した。さらに麻田で秦将高昌・李歴と戦い、流れ矢で馬を失ったが、弟の姚萇が馬を譲って救った。尹赤は前秦へ奔り、前秦はこれを并州刺史として蒲阪に置いた。
- 姚襄はその後、衆を率いて東晋へ帰順し、五人の弟を人質として送り、詔によって譙城に屯した。
- 姚襄は単騎で淮を渡って寿春の謝尚を訪れた。謝尚は護衛を退け、幅巾だけで迎え、旧知のように歓談した。姚襄は博学で議論にすぐれ、江東の士人からも重く見られた。
四月 冉閔と燕の決戦
- 冉閔は襄国攻略後、常山・中山で兵糧を求めて遊動していたが、趙の段勤が胡・羯一万余を集めて繹幕に拠り、趙帝を称した。
- 四月甲子、燕王慕容雋は慕容恪らに冉閔討伐、慕容霸らに段勤討伐を命じた。
- 冉閔は燕と戦おうとし、董閏・張温は、燕は勝勢に乗じて鋭く、こちらは少数だからいったん避けて疲れを待つべきだと諫めたが、冉閔は聞き入れなかった。
- 司徒劉茂と特進郎闓は、君主はきっと帰らないだろうとして自殺した。
- 冉閔は安喜に陣し、慕容恪はこれを追って魏昌の廉台に及んだ。初戦で燕軍は勝てず、冉閔の勇名と精鋭に燕側も恐れた。
- しかし慕容恪は、冉閔は勇敢だが謀に乏しく、しかも軍は疲れていると見抜いた。冉閔が歩兵を多く率いて林中へ退こうとすると、高開が「騎兵は平地でこそ利がある。林に入れれば制し難い」と進言したため、軽騎で退却を装い、平地に誘い出した。
- 慕容恪は軍を三分し、中軍に厚く兵を集めて冉閔を引きつけ、両翼から挟撃する策を立てた。さらに鮮卑の弓術に優れた五千騎を鉄鎖で互いの馬につなぎ、方陣を組ませた。
- 冉閔は朱龍という名馬に乗り、左に両刃の矛、右に鉤戟を執って奮戦し、三百余級を斬った。中軍の大幢を見て中央突破を図ったが、燕の両翼軍が側面から襲い、大敗した。
- 冉閔は幾重にも囲まれながら東へ逃れたが、二十余里で朱龍が突然死し、生け捕られて薊へ送られた。劉群は殺され、董閏・張温も捕らえられた。冉魏はここで実質的に滅亡した。
- 冉閔の子冉操は魯口へ逃れ、高開はこの戦いで傷を受けて死んだ。慕容恪は常山に進み、中山鎮守を命じられた。
冉閔の最期
- 己卯、冉閔が薊に着くと、慕容雋は大赦を行ったうえで、「奴僕の身分から出た才劣る者が、どうして帝を称したのか」と責めた。
- 冉閔は「天下大乱の中で、お前たち夷狄や禽獣の類でさえ帝を称している。中土の英雄たる自分がなぜ称してはならないのか」と言い返した。
- 慕容雋は怒って三百鞭を加え、龍城へ送った。
段勤の降伏と鄴包囲
- 慕容霸が繹幕に至ると、段勤は弟の思聡とともに降った。
- 甲申、慕容雋は慕容評と中尉侯龕に精騎一万を授け、鄴を攻めさせた。癸巳に到着すると、蒋幹と太子冉智は城門を閉じて守り、城外はみな燕へ降った。
- 劉寧・劉崇兄弟は胡騎三千を率いて晋陽へ逃れた。
前秦の関中平定
- 前秦は張遇を征東大将軍・豫州牧に任じた。
- 五月、苻健は宜秋の張琚を攻めて斬った。
鄴の飢餓と降伏交渉
- 鄴城内は大飢饉となり、人肉食にまで及んだ。後趙時代の宮人たちもほとんど食われ尽くした。
- 蒋幹は侍中繆嵩・詹事劉猗に命じて燕へ降表を奉らせる一方、謝尚にも救援を求めた。
- 庚寅、慕容雋は慕容軍・慕輿根・皇甫真ら歩騎二万を送り、慕容評の鄴攻めを助けた。
- 辛卯、燕は龍城で冉閔を斬った。ちょうど大旱と蝗害が起こっていたため、慕容雋は冉閔の祟りだと考え、使者を送って祭祀し、「悼武天王」と諡した。
戴施、伝国璽を奪う
- もとは謝尚が戴施に枋頭を守らせていたが、蒋幹から救援要請があると、戴施は倉垣から棘津へ移った。
- 戴施は蒋幹の使者を引き止め、伝国璽を求めた。劉猗は使者の繆嵩を鄴へ返して相談させ、蒋幹は謝尚が本当に救えるのか疑いながらも決断を保留した。
- 六月、戴施は勇士百余人を率いて鄴に入り、三台防衛を助けた。そのうえで「璽をまだ送るのは危険だ。いったん自分に渡せば、天子に急報して兵糧を多く送らせる」と偽って蒋幹を説いた。
- 蒋幹はこれを信じて璽を渡した。戴施は公然と糧秣を迎えに行くと称しつつ、密かに璽を枋頭へ送った。
- 甲子、蒋幹は精兵五千と晋兵で出撃したが、慕容評に大敗して四千級を斬られ、城へ逃げ戻った。
- 甲申、苻健は長安へ還った。
潁水の戦い
- 謝尚と姚襄は許昌の張遇を攻めた。前秦の苻健は丞相苻雄と衛大将軍苻菁に歩騎二万を与え、関東で地を略しつつ張遇を救わせた。
- 丁亥、潁水の誡橋で戦い、謝尚らは大敗して一万五千人を失った。謝尚は淮南へ敗走し、姚襄は輜重を捨てて謝尚を芍陂まで送った。
- 謝尚はその後始末を姚襄に一任したが、これがのちに姚襄の自立心を強める一因となった。殷浩は敗報を聞いて寿春へ退いた。
七~八月 前秦の移民政策と魏の滅亡
- 七月、苻雄は張遇配下の陳・潁・許・洛の民五万余戸を関中へ移した。前秦は楊羣を豫州刺史として許昌に置いた。謝尚は失敗の責任で建威将軍に降格された。
- 後趙の旧将王擢が使者を送って前秦に降り、秦州刺史に任じられた。
- 武陵王司馬晞が太宰となった。
- 丙辰、慕容雋は中山へ赴いた。王午は冉魏敗亡を聞き、安国王を称した。
- 八月戊辰、慕容恪・封奕・陽騖が王午を攻めた。王午はこもって自守し、冉操を燕軍へ送った。燕軍はその田畑を荒らして兵糧を断ち、いったん退いた。
- 庚午、魏の長水校尉馬願らが鄴城を開いて燕軍を入れた。戴施と蒋幹は城壁から縄で降りて倉垣へ逃れた。
- 慕容評は冉魏の皇后董氏、太子冉智、太尉申鍾、司空条枚ら、および帝王の車服器物を薊へ送った。王簡・張乾・郎粛は自殺した。
- 燕は董氏が伝国璽を奉ったと偽り、董氏に「奉璽君」の号を与え、冉智を海賓侯に封じた。申鍾は大将軍となった。慕容評は鄴に駐屯した。
桓温配下の西南平定と伝国璽の帰着
- 桓温は司馬勲を周撫に合わせて涪城の蕭敬文を討たせ、これを斬った。
- 謝尚は枋頭から伝国璽を迎えて建康へ送り、百官はこぞって祝賀した。
- 前秦では雷弱児を大司馬、毛貴を太尉、張遇を司空とした。
王羲之の殷浩批判
- 殷浩が北伐を進めるにあたり、中軍将軍王羲之は書簡でこれを止めたが、殷浩は聞かなかった。失敗後も再挙を図ったため、王羲之はさらに厳しく批判した。
- 王羲之は、江左の小勢力で天下回復を急げば、内外の任にある者が遠謀なく国力の根本を疲弊させ、結局は国土崩壊に至ると警告した。いまは長江防衛に立ち返り、諸将を旧鎮に戻し、長江以北は羈縻にとどめ、民の賦役を軽くして更生を図るべきだと説いた。
- さらに会稽王司馬昱にも、難得の好機に見えても国力が伴っていない以上、喜びより憂いの方が大きいと進言し、まず「敗れない基礎」を固めてから機会を待つべきだと訴えた。しかし採用されなかった。
九~十一月 東晋・燕・前秦の動き
- 九月、殷浩は泗口に屯し、戴施を石門に、劉遯を倉垣に置いた。また軍事費のため太学生を解散させ、これによって学校制度は衰えた。
- 冬十月、謝尚は王侠に許昌を攻めさせて陥落させた。前秦の楊羣は弘農へ退いた。謝尚は給事中として石頭守備に召還された。
- 丁卯、慕容雋は薊へ戻った。後趙旧将で州郡を保っていた者たちは相次いで燕へ使者を送り、降伏を願った。
- 燕は王擢を益州刺史、夔逸を秦州刺史、張平を并州刺史、李歴を兗州刺史、高昌を安西将軍、劉寧を車騎将軍に任じた。慕容恪は安平に屯して兵糧と攻城具を蓄え、王午討伐の準備を進めた。
- 丙戌、蘇林が無極で兵を挙げて天子を称した。慕容恪は魯口から引き返してこれを討ち、閏月戊子には慕輿根も援軍に加わった。蘇林は斬られた。
- 王午は配下の秦興に殺されたが、呂護が秦興を殺し返して再び安国王を称した。
十一月 燕の皇帝即位
- 燕の群臣は慕容雋に尊号を上り、慕容雋はこれを受け入れた。
- 十一月丁卯、百官を置き、封奕を太尉、陽騖を尚書令、皇甫真を左僕射、張悕を右僕射とするなど、文武に官位を授けた。
- 戊辰、慕容雋は皇帝に即位し、大赦を行い、伝国璽を得たと称して年号を「元璽」と改めた。父の慕容皝を太祖文明皇帝、祖父の慕容廆を高祖武宣皇帝と追尊した。
- ちょうど東晋の使者が到着していたため、慕容雋は「自分は人に推されて中国の帝となった」と言わせた。
- 司州を中州と改め、旧都龍城に留台を設け、乙逸を尚書として現地政務を専任させた。
- 前秦の苻雄は隴西の王擢を攻めて破り、王擢は涼州へ逃れた。張重華は王擢を征虜将軍・秦州刺史として手厚く遇した。