資治通鑑晉紀十八 顯宗成皇帝 咸康 七年 一 341年

春正月 燕の龍城建設

  • 慕容皝は唐国内史陽裕らに命じ、柳城の北、龍山の西に城を築かせ、宗廟と宮闕を備えて龍城と名づけた。

二月 日食

  • 甲子朔、日食があった。

劉翔の建康での請願

  • 劉翔が建康へ至り、成帝に引見された。帝が慕容皝の安否を問うと、劉翔は、出発の日に慕容皝が朝服で表章を奉じていたと答え、燕が晋への臣礼を忘れていないことを強調した。
  • 劉翔は、慕容皝に大将軍・燕王・章璽を授けてほしいと求めた。
  • 朝議では、辺境の者に大将軍を置く前例や、異姓王封の難しさを理由に反対意見が強かった。とくに諸葛恢は、中国にとっては夷狄同士が争うのが利益であり、名器は軽々しく与えられないと主張した。
  • これに対し劉翔は、慕容氏父子だけが晋室を思って強敵を破ってきたのに、その功に見合う封賞を惜しむのは忠義を冷遇するものだと論じた。韓信・彭越に王爵を惜しまなかった漢高祖と、印綬を惜しんで亡んだ項羽を対比し、忠義の国を励ますべきだと迫った。
  • 諸葛恢が「石虎を除いても、別の石虎を得るだけだ」と言うと、劉翔は、靡鬲がいなければ少康は夏を復せず、斉桓・晋文の戦いがなければ周人は異俗に落ちたはずだと論じ、忠臣を疑う言説こそ国を害すると責めた。
  • 劉翔は一年余り建康にとどまり、ついに中常侍郁𢎞を説得して帝にも取り次がせた。石虎が広大な地を有し、多くの周辺諸国を臣属させる中、慕容皝だけが晋を戴いて戦っているのに、なお特別の礼命がないのは天下を失望させると訴えた。
  • その後、慕容皝が上表して庾氏兄弟の専権を批判し、庾冰にも強い調子の書簡を送ると、庾冰は遠国を制することは難しいとして態度を和らげ、何充とともに燕の請願を容れた。
  • 乙卯、慕容皝は使持節・大将軍・都督河北諸軍事・幽州牧・大単于・燕王に任じられ、儀仗や冊命も特別礼に従った。世子慕容㒞も安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、軍資器械も莫大に賜われた。功臣百余人にも封賞が下り、劉翔自身も代郡太守・臨泉郷侯・員外散騎常侍とされたが、固辞して受けなかった。

劉翔の江南批判

  • 劉翔は、江南の士大夫が驕奢と放逸を競い、乱世の危機に無頓着であることを痛烈に批判した。
  • 宴席で何充らに向かい、天下が三十余年も乱れて宗社が危ういのに、なお安逸と奢侈を楽しみ、諫言も征伐もないのでは、どうして君主を尊び民を救えるのかと責め、居並ぶ人々を大いに恥じ入らせた。

三月・四月

  • 三月戊戌、皇后杜氏が崩じた。
  • 夏四月丁卯、恭皇后を興平陵に葬った。
  • さらに王公以下庶人に至るまで、みな土地に応じて戸籍を整理し、白籍に正しく登録するよう命じた。

夏秋 燕の新体制

  • 七月、郭悕・劉翔らが燕へ至った。
  • 慕容皝は劉翔を東夷護軍兼大将軍長史とし、陽裕を左司馬、李洪を右司馬、鄭林を軍諮祭酒に任じて、王国体制を整えた。

八月

  • 辛酉、東海王司馬冲が死んだ。

九月 代の盛楽城築城

  • 什翼犍は故城の南八里に盛楽城を築いた。
  • 代王妃の慕容氏が死んだ。

冬十月 匈奴劉虎との戦い

  • 匈奴の劉虎が代の西部を侵したが、什翼犍はこれを迎撃して大破した。
  • 劉虎が死ぬと子の務桓が立ち、代に和を求めた。什翼犍は娘を務桓に嫁がせた。
  • 務桓はさらに後趙にも朝貢し、石虎は彼を平北将軍・左賢王に任じた。

後趙の海路攻撃と慕容恪の遼東経営

  • 後趙の王華は舟師を率いて海路から燕の安平を襲い、これを破った。
  • 慕容皝は慕容恪を渡遼将軍として平郭に鎮させた。慕容翰・慕容仁の後、遼東方面を担える将がいなかったが、慕容恪は旧来の民を撫し、新来の者を受け入れ、高句麗軍をたびたび破ったので、高句麗は恐れて国境を侵さなくなった。

十一月 陸玩の死と成漢の悪政

  • 興平康伯陸玩が死んだ。
  • 成漢では李寿が太子李勢に大将軍・録尚書事を兼ねさせた。
  • もともと李雄は倹約と寛恵によって蜀人の心を得ていたが、李閎と王嘏が鄴から帰ると、後趙の繁華な都城と、石虎が刑殺によって国を制しているさまを盛んに語った。
  • 李寿はそれに感化され、周辺郡から三代以上住んだ者を成都へ移して宮城拡張の労役に使い、大々的に宮室や器玩を整えた。人に小過失があればすぐ殺して威を立てた。
  • 左僕射蔡興、右僕射李嶷も直諫したため殺され、民は賦役に疲れ、道には怨嗟が満ち、乱を思う者が多くなった。成漢滅亡の兆しがここに明らかになった。