資治通鑑晉紀十七 成皇帝 咸康 二年 336年

正月 彗星出現と慕容皝の海氷作戦

  • 正月辛巳、彗星が奎・婁に現れた。
  • 慕容皝は慕容仁討伐を決意し、司馬高詡は、仁が君父に叛いたため民も神も怒っており、以前は海が凍ることなどなかったのに、仁の反乱以来三年続けて凍っているのは、海氷を踏んで奇襲せよという天意ではないかと説いた。
  • 皝はこれに従った。群僚は氷を渡るのは危険で陸路にすべきだと言ったが、皝は決意は定まっている、阻む者は斬ると命じた。
  • 壬午、皝は弟の慕容評らを率いて昌黎の東から海氷を三百余里踏破し、歴林口に着くと、輜重を置いて軽兵で平郭へ急行した。

平郭の戦いと慕容仁の最期

  • 平郭の西北七里に迫ると、斥候が慕容仁に報じた。
  • 慕容仁は狼狽して出戦したが、以前に張英が捕えた段氏・宇文氏の使者を追撃しなかった経験から、今回もまた慕容皝の軽出した偏師だと思い込み、今度こそ一馬たりとも帰さないと言って全軍を出した。
  • 乙未、慕容仁は城西北に布陣したが、皝軍中の慕容軍がその部を率いて皝に降ったため、仁軍は動揺した。皝はそこへ総攻撃をかけて大破した。
  • 慕容仁は逃亡したが、帳下の者まで背いて捕えられた。皝はまず、その帳下で仁を裏切った者たちを先に斬り、しかる後に仁に死を賜った。
  • 丁衡・游毅・孫機ら仁の腹心もみな斬られ、王氷は自殺した。慕容幼・慕容稚・佟寿・郭充・翟楷・龐鑑は東へ逃れ、慕容幼だけは途中で帰還したが、翟楷と龐鑑は追撃されて斬られ、佟寿・郭充は高句麗へ逃れた。
  • それ以外の、慕容仁に連座させられて従っていた吏民はみな赦され、高詡は功により汝陽侯に封じられた。

王彬の死と皇后冊立

  • 二月、尚書僕射王彬が死去した。
  • 辛亥、成帝は臨軒して使者を遣わし、故当陽侯杜乂の娘・陵陽を六礼を備えて皇后として迎えた。群臣はそろってこれを賀し、大赦が行われた。

夏六月 段遼・宇文部との戦い

  • 夏六月、段遼は中軍将軍李詠に命じて慕容皝を襲わせ、李詠は武興へ急行したが、都尉張萌に撃たれて捕えられた。
  • 段遼は別に段蘭へ歩騎数万を与え、柳城西の回水に屯させ、宇文逸豆帰も安晋を攻めて呼応した。
  • 慕容皝は歩騎五万を率いて柳城へ向かうと、段蘭は戦わずに退いた。皝はさらに北上して安晋へ向かい、逸豆帰は輜重を棄てて逃走した。封奕が軽騎で追撃し、大破した。

段遼再襲と馬兠山の伏兵

  • 慕容皝は、二虜は無功を恥じて必ず再来すると見て、柳城左右に伏兵を設け、封奕に数千騎を率いさせて馬兠山に伏せさせた。
  • 三月、段遼は案の定、数千騎で掠奪に来た。封奕はこれを急襲して大破し、将の栄伯保を斬った。

孔坦の臨終

  • 前廷尉孔坦が死去した。
  • 重病のとき、庾氷が見舞って涙を流すと、孔坦は、大丈夫たるものが死を前にして国家安民の術を問わず、児女子のように泣くのかと言い放った。庾氷は深く謝罪した。

慕容皝の朝貢

  • 九月、慕容皝は長史劉斌と、兼郎中令の遼東陽景を遣わし、徐孟らを建康へ送り返した。

広州・漢中・索頭鮮卑

  • 冬十月、広州刺史鄧岳は督護王随らに夜郎・興古を攻めさせ、いずれも攻略した。これにより鄧岳は寧州も督することとなった。
  • 成の王李期は、従子で尚書僕射の武陵公李載に俊才があるのを忌み、謀反をでっち上げて殺した。
  • 十一月、晋は建威将軍司馬勲に兵を率いさせて漢中を安撫させたが、成の漢王李寿がこれを破った。李寿はそのまま漢中に守宰を置き、南鄭に兵を駐屯させて帰還した。
  • 索頭鮮卑の郁鞠は三万を率いて趙に降り、石虎は郁鞠ら十三人を親趙王に封じ、その部衆を冀・青など六州に分散移住させた。

石虎の宮殿建設

  • 石虎は襄国に太武殿を、鄴に東西の宮殿を造営した。東宮は太子石宣の居所、西宮は石虎自身の居所であった。
  • 十二月、これらは完成した。太武殿は基壇だけで高さ二丈八尺、縦六十五歩・横七十五歩におよび、文石で敷きつめ、地下に伏室を穿って衛士五百人を置いた。
  • 瓦には漆を塗り、金の璫、銀の楹、珠簾、玉壁を用い、工巧を極めた。殿上には白玉の牀と流蘇の帳を設け、帳頂には金の蓮華を飾った。
  • 顕陽殿の後ろにはさらに九殿を作り、士民の娘を選んで満たし、珠玉を身につけ綺縠をまとった者が一万人を超えた。
  • 宮人には占星・騎射・鼓吹・各種技芸まで教え、女騎千人を鹵簿として紫綸巾・熟錦袴・金銀鏤帯・織成の靴で飾らせた。

旱魃と重税・労役

  • このころ趙では大旱となり、金一斤が粟二斗に値するほど穀価が高騰し、百姓は騒然とした。
  • それにもかかわらず石虎は用兵をやめず、土木と諸役も並行して興し続けた。
  • 牙門張弥に洛陽の鐘虡・九龍・翁仲・銅駞・飛廉などを鄴へ移させた。巨大な車で運ぶため、車轍は幅四尺・深さ二尺に及んだ。
  • 一つの鐘が黄河に沈むと、水中に潜れる者三百人を募り、竹の大綱で結び、牛百頭と鹿櫨を用いてようやく引き上げた。さらに万斛船を造って渡河させた。
  • 鄴へ着くと石虎は大いに喜び、二年分の刑を赦し、百官に穀帛を賜い、民には爵一級を与えた。
  • また尚方令解飛の言を用いて、鄴の南で黄河に石を投じ、浮橋を架けようとして莫大な費用を費やしたが、ついに完成しなかった。
  • 役夫は飢えきり、ようやく工事は中止された。県令・県長には民を山沢へ入れて橡の実や魚を採らせ食を補わせたが、それも豪族に奪われ、民の口にはほとんど入らなかった。

林邑の范文

  • 日南夷の帥范稚に仕える奴で范文という者がいた。商人に従ってたびたび中国へ来ていたため、林邑王范逸に城郭・宮室・器械の作り方を教え、寵信を受けて将となった。
  • 范文はやがて范逸の諸子を讒言して追放させるか逃亡させた。
  • この年、范逸が死ぬと、范文は他国にいた逸の子を迎えるふりをし、椰酒に毒を入れて殺したうえで、自ら王となった。
  • さらに大岐界・小岐界・式僕・徐狼・屈都乾魯扶単などの国々を攻め滅ぼし、兵衆四、五万を有するようになった。そして使者を遣わして晋へ入貢した。

庭燎の失火

  • 趙の左校令成公段は、庭燎を支える長い杠の先端に灯火台を設ける新式の装置を作った。
  • 上盤に燎を置き、下盤には人を置いて操作させるもので、石虎は試して喜んだ。