正月 成・後趙の改元と成皇帝の冠礼
- 正月庚午朔、成帝は元服を行い、大赦して年号を咸康と改めた。
- 成も大赦して年号を玉恒とし、後趙は建武と改元した。
- 成の主李期は閻氏を皇后に立て、尹奉を右丞相、王瓌を司徒とした。
石虎の宮室造営と太子石邃への権限移譲
- 趙王石虎は太子石邃に尚書の奏事を裁可させ、郊祀・廟祀、牧守の選任、征伐・刑殺といった大事だけを自ら扱った。
- 石虎は宮室造営を好み、鸛雀台が崩れると、工事責任者の少府任汪を殺し、以前以上の規模で再建させた。
- 石邃の保母劉芝は宜城君に封ぜられ、朝政に関わって賄賂を取り、出仕希望者の多くがその門を通った。
慕容皝の官制整備
- 慕容皝は左右司馬を置き、韓矯と封奕をそれに任じた。
王導の失態と孔坦の諫言
- 司徒王導は病弱で朝会に堪えられず、三月乙酉、成帝はその府に幸して群臣と内室で宴を開き、王導だけでなく妻の曹氏にまで拝礼した。
- 侍中孔坦は密かに上表し、成帝が元服を終えたばかりの時期に礼を失する行動をするのはよくないと強く諫めた。皇帝はこれに従った。
- 孔坦はさらに、政務を王導に委ねきりではいけない、年齢も進み聖徳も日増しに備わっているのだから、朝臣の意見を広く求めて善道を採るべきだと、静かな場で帝に勧めた。
- 王導はこれを聞いて孔坦を嫌い、彼を廷尉に出した。孔坦は不満を抱いて病を理由に職を去った。
桓景と熒惑の占い
- 丹陽尹桓景はへつらい巧みに王導へ取り入り、寵愛を受けていた。
- そのころ火星が南斗にとどまり続けたため、王導は陶回に、南斗は揚州の分野だから自分が位を譲って天譴を鎮めたいと言った。
- 陶回は、公は明徳によって輔政しているのに、桓景のような人物を膝を交えて近づけているからこそ火星が去らないのだと答えた。
- 王導は深く恥じ入った。
王濛・王述ら名士
- 王導は太原の王濛を掾に、王述を中兵属に招いた。
- 王濛は細かな廉潔を飾らぬが、清約で称され、沛国の劉惔と並び称された。劉惔は王濛が自然でありながら節度があると褒め、王濛は劉惔こそ自分をよく知っていると言った。
- 王述は沈静な人物で、座客の議論が沸き立つ中でも平然としていたため、三十になっても痴者扱いされた。
- 王導が家柄によって召した際、王述はただ江東の米価だけを尋ねられ、黙って答えなかった。王導は、こんな人物を痴れ者というのかと言った。
- また王導の発言を人々が何でも称賛するのを見て、王述は、人は堯舜ではないのだから、何事も尽善であるわけがないと正色で述べた。王導は顔色を改めて謝った。
四月 歴陽騒擾と朝廷の動揺
- 趙王石虎は南遊して長江近くまで至り、帰還した。
- その遊騎十余騎が歴陽に現れたが、歴陽太守袁耽はその数の少なさを告げずに報告したため、朝廷は震え上がった。
- 司徒王導は自ら出撃を請い、夏四月、大司馬・仮黄鉞・都督征討諸軍事を加えられた。皇帝は広莫門で観兵し、諸将に歴陽救援と慈湖・牛渚・蕪湖の守備を命じた。
- 司空郗鑒も広陵相陳光に兵を率いさせて京師防衛へ向かわせた。
- まもなく趙の騎兵は少数で、すでに去ったとわかり、戊午に警戒は解かれた。袁耽は軽率な報告の罪で免官となった。
襄陽攻防と飢饉
- 趙の征虜将軍石遇は襄陽の桓宣を攻めたが、落とせなかった。
- この年は大旱で、会稽の余姚では米一斗が五百にまで高騰した。
慕容雋の立太子と石虎の遷都
- 秋七月、慕容皝は子の慕容雋を世子に立てた。
- 九月、趙王石虎は都を襄国から鄴へ遷し、大赦した。
仏図澄への尊崇と仏教政策
- 石勒の時代から、天竺僧仏図澄は成敗を予言してよく当てるとして厚く敬われていたが、石虎は即位後さらにこれを重んじ、綾錦を着せ、彫飾の輦に乗せた。
- 朝会の日には太子や諸公が脇を支えて殿上へ上らせ、儀礼係が「大和尚」と唱えると、居並ぶ者はみな起立した。司空李農が朝夕に起居を問うほか、太子や諸公も五日に一度は参候した。
- 国人はこれにならい、澄のいる方角へ唾を吐くことすら避け、寺塔建立と出家が盛んになった。
- 石虎は、真偽入り乱れており、租税や労役逃れのために出家する者もいるとして、中書に対し、無位無官の庶民にも仏を奉じることを許すべきかと問うた。
- 著作郎王度らは、仏は外国の神であり、天子や華夏の人が祀るべきものではなく、漢以来、西域人のみ寺を立てることを許し、漢人の出家は認められていなかったとして、公卿以下の礼仏を禁じ、趙人の沙門は俗に戻すべきだと答えた。
- しかし石虎は、自分は辺境出身であり、祭祀も本俗に従うべきだとして、夷人・趙人の百姓が仏を信じることを特に許した。
成の内政悪化
- 趙の章武王石斌は精騎二万と秦・雍二州兵を率いて薄句大を討ち、これを平定した。
- 成では、故太子李班の舅の羅演と、漢王李寿の相上官澹が李期を殺して李班の子を立てようと謀ったが、発覚して殺された。李班の母羅氏も殺された。
- 李期は自分が権力を握ったことで旧臣を軽んじ、尚書令景騫、尚書姚華・田褒、中常侍許涪ら数人だけを信任し、刑賞大政は彼らだけで決して、公卿にはほとんど相談しなくなった。
- 田褒は特別な才があったわけではなく、かつて李雄に李期を太子に立てるよう勧めたことによって寵を得ていただけだった。
- そのため紀綱は乱れ、李雄が築いた成の基業はここから衰え始めた。
年末の遼東情勢とその他
- 冬十月乙未朔、日食があった。
- 慕容仁は、前年に留めていた王斉らを南へ帰した。王斉らは海路で棘城を目指したが、風に遭って着かなかった。
- 十二月、徐孟らが棘城に至り、慕容皝はここで初めて朝命を正式に受けた。
- 段氏・宇文氏もそれぞれ使者を慕容仁のもとへ送り、平郭城外に滞在させていたが、慕容皝配下の張英が百余騎で間道を進み、これを襲って宇文氏の使者十余人を斬り、段氏の使者を生け捕りにした。
- この年、明帝の生母で建安君荀氏が死去した。禁中での待遇は皇太后同然であったため、詔して豫章郡君を追贈した。
- 代王拓跋翳槐は、賀蘭藹頭が不遜であるとして召して殺そうとしたため、諸部がみな叛いた。先に亡命していた拓跋紇那が宇文部から帰ると、諸部は再び彼を奉じた。翳槐は鄴へ逃れ、趙に厚遇された。
- 張軌・張寔・張茂以来、河右は軍事の苦労が絶えなかったが、張駿の代になって領内は次第に安定し、民は富み兵は強く、遠近から賢君と称えられた。
- 張駿は楊宣を遣わして龜茲・鄯善を攻め、西域諸国も姑臧へ朝貢するようになった。
- 張駿は姑臧南に五殿を築き、季節ごとに色と方角を変えて居住した。官属はみな臣と称し、張駿には秦・雍を兼ね取る志もあった。
- そこで参軍麴護を通じて上疏し、石勒と李雄が死に、石虎と李期が逆を継いだ今、民衆は旧主への思いを忘れつつあるから、郗鑒・庾亮らに命じて長江・漢水から同時に兵を進めるべきだと訴えた。