春 郭権の任命と仇池の代替わり
- 春正月、後趙は年号を延熙と改めた。
- 晋朝は郭権を鎮西将軍・雍州刺史に任じた。
- 仇池王楊難敵が死去し、子の楊毅が立った。楊毅は自ら龍驤将軍・左賢王・下辨公を称し、叔父堅頭の子楊盤を冠軍将軍・右賢王・河池公とし、晋へ使者を送って藩属を称した。
二月 張駿への正式冊命
- 二月丁卯、朝廷は耿訪・王豊を派遣し、印綬を持たせて張駿に大将軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事を授けた。
- 以後、毎年のように使者の往来が絶えなくなった。これは仇池が朝廷に帰順したことで、梁州・涼州への交通路が通じたためであった。
慕容仁・段遼の攻勢と柳城攻防
- 慕容仁は司馬翟楷を東夷校尉、前平州別駕龐鑑を遼東相とした。
- 段遼は兵を遣わして徒河を襲ったが落とせず、さらに弟の段蘭と慕容翰に柳城を攻めさせた。
- 柳城都尉石琮と城大の慕輿埿は力を合わせて守り抜き、段蘭らは攻めきれず退いた。
- 段遼は叱責して再攻を命じ、二旬ほど休んで兵を増やして再来した。兵は厚い衣を着て盾をかぶり、飛梯を使って昼夜絶えず攻め立てたが、石琮らはますます固く守り、千余人を殺傷してついに陥落を許さなかった。
慕容汗の敗戦と慕容翰の慎重論
- 慕容皝は慕容汗と封奕らに救援を命じ、敵の気勢が鋭いので正面から争うなと戒めた。
- しかし慕容汗は驍勇をたのんで千余騎で先鋒として進み、牛尾谷で段蘭と遭遇して大敗し、戦死者が半数を超えた。封奕が陣を整えて奮戦したため、全滅は免れた。
- 段蘭は勢いに乗って追撃しようとしたが、慕容翰はこれを止めた。慕容皝は多くの権謀を用い伏兵も得意とするので、偏師を破っただけで本軍を屈したとはいえず、もし全国の兵を率いて反撃してきたら、こちらは孤軍深入で危険だと説いた。
- また、命令を越えて深追いして敗れれば功名ともに失うと諭した。段蘭は、慕容翰が祖国滅亡を惜しんでいるだけではないかと疑ったが、翰は自分はすでに身を投じているので国の存亡は関係なく、ただ大国のためにも功名を惜しんでいるのだと答えた。
- 結局、段蘭もやむなく追撃をやめた。
成の交州設置
- 三月、成の主李雄は寧州を分割して交州を置き、霍彪を寧州刺史、㸑深を交州刺史とした。
後趙の西征と郭権の滅亡
- 後趙の丞相石虎は、郭敖と章武王石斌に歩騎四万を率いさせ、西方で郭権を討たせた。
- 夏四月、上邽の豪族が郭権を殺して降伏した。石虎は秦州の三万余戸を青州・并州へ移住させた。
- 長安の陳良夫は黒羌へ走り、北羌王薄句大らとともに北地・馮翊を侵した。章武王石斌と楽安王石韜はこれを撃ち破り、薄句大は馬蘭山へ逃れた。
- ところが郭敖は勝ちに乗じて深追いし、羌に敗れて兵の大半を失った。石斌らは軍をまとめて三城へ退いた。石虎は使者を送って郭敖を誅した。
- 秦王石宏は以前の召還以来、石虎に怨み言を漏らしていたため、石虎は彼を幽閉した。
- 慕容仁はこの頃、自ら平州刺史・遼東公を称した。
陶侃の引退表と死
- 長沙公陶侃は晩年、位が満ちすぎたことを深く恐れ、朝廷の政権中枢に深く関与しないようにしつつ、たびたび老齢を理由に辞職して本国長沙へ帰ることを望んだが、属吏らが強く引き留めた。
- 六月、病が重くなると上表して位を譲り、朝廷から授かった節・麾・幢・曲蓋、侍中貂蝉、太尉章、荊・江・雍・梁・交・広・益・寧八州刺史の印、伝棨戟、軍資器仗、牛馬舟船などを帳簿どおり封印し、自ら鍵を管理したうえで、後事を右司馬王愆期に託し、督護に文武の統率を加えた。
- 甲寅、輿車で津へ出て船に乗り、長沙へ帰ろうとしたが、乙卯、樊渓で死去した。
- 死に際して王愆期に、老いながらも退けなかったのは諸君が自分を引き留めたせいだ、と半ば冗談めかして語った。
- 陶侃は軍旅にあること四十一年、明察で決断力に富み、細事にもよく目が届き、人は彼を欺けなかった。江東西の広大な地域では道に落とし物もないほど秩序が保たれた。
- 尚書梅陶は親しい者への書簡で、陶侃は機略と洞察では魏武帝に、忠順勤労では諸葛亮・陸抗に似るが、いずれも及ばぬと評した。謝安も、法に拠りつつ法外の意を会得していたと称えた。
李雄の病没と李班即位
- 成の主李雄は頭部に腫物ができ、かねて戦傷も多かったため、古傷も化膿して崩れた。諸子は嫌って近づかなかったが、太子李班だけは昼夜側に侍して衣冠も脱がず、自ら膿を吸い取った。
- 李雄は大将軍・建寧王李寿を召して遺詔を授け、輔政を命じた。丁卯、李雄は死去した。
- 太子李班が即位し、李寿を録尚書事とし、政務の多くを李寿と司徒何点・尚書王瓌に委ねた。李班自身は喪礼にこもり、ほとんど政治には関与しなかった。
- 辛未、朝廷は平西将軍庾亮を征西将軍・仮節・都督江荊豫益梁雍六州諸軍事・領江豫荊三州刺史として武昌に鎮させた。これによって庾亮が上流の軍政を専らにする体制ができた。
- 庾亮は殷浩を記室参軍に招いた。殷浩は褚裒・杜乂とともに老荘・易を論じて江東で名を馳せ、なかでも風流の宗とされた。褚裒は「皮裏春秋」があると評され、外には善悪を語らず内には褒貶がある人物と見られた。
慕容皝への詔使が慕容仁に留められる
- 秋八月、王済が遼東へ帰ると、晋朝は侍御史王斉に慕容廆の祭祀を行わせ、さらに謁者徐孟に慕容皝を鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公に冊する策書を持たせた。持節・承制封拝も慕容廆の先例どおり許した。
- しかし一行の船が馬石津に至ると、みな慕容仁に留め置かれた。
李越・李期の政変
- 九月、衛将軍陸曄が死去した。
- 成では李雄の子・車騎将軍李越が江陽から喪に奔った。彼は、太子李班が李雄の実子でないことを不服とし、弟の安東将軍李期とともに叛乱を企てた。
- 李班の弟李玝は、李越を江陽へ帰し、李期を梁州刺史として葭萌へ出すよう勧めたが、李班はまだ李雄を葬っていないとして忍びず、疑いもせずに厚遇した。李玝だけを涪へ出して駐屯させた。
- 冬十月癸亥朔、李越は李班が夜に哭礼しているところを殯宮で殺し、あわせて班の兄で領軍将軍の李都も殺した。
- 太后任氏に命じて李班の罪状を並べさせ、これを廃した。初め人々は李越を立てようとしたが、李越は李期を奉じて即位させた。甲子、李期が皇帝位についた。
- 李班には戾太子の諡を贈り、李越を相国・建寧王とし、李寿を大都督・漢王としてともに録尚書事とした。兄弟・従兄弟にも将軍職を配した。
- 李始はもともと李寿とともに李期を攻めようとしたが、李寿は動かなかった。李始は怒って逆に李寿を讒言した。李期は李玝討伐に李寿を用いたかったので殺さず、李寿に兵を授けて涪へ向かわせた。
- 李寿はあらかじめ使者を遣わし、去就の利害を説いて李玝の逃げ道を開いたため、李玝は晋へ奔った。朝廷は李玝を巴郡太守とした。
- 李期は李寿を梁州刺史として涪に置いた。
石弘の廃位と石虎の擁立劇
- 後趙の石弘は、自ら璽綬を持って魏宮へ赴き、石虎に禅位を願った。石虎は、帝王の大事は天下の議するところであり、なぜ自分で言い出すのかと退けた。
- 石弘は涙して宮へ帰り、太后程氏に対し、先帝の血統はもはや絶えてしまったと嘆いた。
- やがて尚書が魏台に奏して唐虞の禅譲故事に倣うよう求めると、石虎は、石弘は愚暗で喪中の礼もなく、廃すべきである、何が禅譲かと言った。
- 十一月、石虎は郭殷を宮中へ入れ、石弘を海陽王に落とした。石弘は落ち着いた様子で車に乗り、群臣に、自分は暗愚で大統を継ぐに堪えなかったのだと言ったので、人々は涙した。
- 石虎はひとまず「居摂趙天王」と称し、石弘・程太后・秦王石宏・南陽王石恢を崇訓宮に幽閉し、ほどなく皆殺した。
- 姚弋仲は病を称して石虎への賀を拒み、しばしば召されてようやく来ると、あなたほどの英雄が、腕を取って託されたのに奪い返すとは何事かと面と向かって責めた。石虎は、海陽王が若すぎて家事を処理できぬから代わっただけだと弁明した。姚弋仲は内心不平ながら、その率直さを石虎に咎められなかった。
慕容皝の遼東回復
- 石虎は人事を行い、信都へ巡幸してから襄国へ戻った。これは「天子は東北から来る」という讖に応じた行動ともいわれる。
- 慕容皝は遼東を討ち、甲申に襄平へ至った。遼東人王岌が密かに使者を送り降伏を請うたため、軍は城に入った。
- 翟楷・龐鑑は単騎で逃れ、居就・新昌などの県も降伏した。
- 慕容皝は遼東の民を皆殺しにしようとしたが、高詡が、反乱は慕容仁の凶威を恐れて従ったまでであり、元凶もまだ残る今、初めて得た城をただちに虐殺すれば未帰順の城に帰順の道を閉ざすことになる、と諫めた。
- 慕容皝は思いとどまり、遼東の大姓を棘城へ移して勢力を分散させ、杜羣を遼東相として遺民を安撫させた。
朱縦の彭城降服
- 十二月、趙の徐州従事朱縦は刺史郭祥を斬って彭城をもって晋に降った。
- 趙の将王朗がこれを攻めると、朱縦は淮南へ逃れた。