資治通鑑晉紀十五 顯宗成皇帝上之上 咸和二年 327年

春正月~五月 西南・西北の戦い

  • 朱提太守楊術は成漢の将羅恒と台登で戦って敗れ、戦死した。
  • 五月朔、日食があった。
  • 前趙の劉朗は騎兵三万で仇池の楊難敵を襲ったが勝てず、三千余戸を奪って帰った。
  • 張駿は、前趙が後趙に敗れたと聞くと、前趙から受けた官爵を捨て、再び晋の大将軍・涼州牧を称した。
  • そのうえ竇濤・張閬・辛巖・宋輯ら数万を出し、韓璞とともに前趙の秦州諸郡を攻掠させた。
  • 前趙の南陽王劉胤はこれを迎えて狄道に屯し、枹罕の辛晏も救援を求めた。
  • 秋、張駿は韓璞・辛巖を救援に出した。辛巖は速戦を望んだが、韓璞は天文の変と劉曜・石勒の対立を理由に慎重策を取り、劉胤と洮水をはさんで七十余日対峙した。
  • 冬十月、韓璞は辛巖に金城への運糧を任せた。劉胤は敵が兵を分けたのを好機として三千騎で辛巖を沃干嶺に急襲し、これを破った。さらに韓璞の営に迫ると、張駿軍は総崩れとなった。
  • 劉胤は追撃して河を渡り、令居を陥して二万級を斬り、振武まで進んだ。河西は大いに震え、張閬・辛晏は数万を率いて前趙に降った。こうして張駿は黄河南岸の地を再び失った。

庾亮、蘇峻を召す

  • 庾亮は、歴陽にいる蘇峻は放置すれば必ず乱の根になると考え、詔を下して召還しようとした。
  • 王導は、蘇峻は猜疑心が強く危険だから、むしろ包容しておくべきで、召せば従わないだろうと止めた。
  • しかし庾亮は、蘇峻は狼の子のように野心があり、今なら仮に命に背いても禍は浅いが、年を経れば制御できなくなるとして、漢が七国を削った故事にたとえて強行した。
  • 朝臣であえて強く反対したのは卞壼だけで、蘇峻は強兵を擁し都に近く、一朝事変があれば危険だと諫めたが、庾亮は従わなかった。
  • 卞壼は温嶠に書を送り、庾亮の決断は国の大事を誤るものであり、蘇峻はもとより狂気を含んでいるのに、召すことでかえって毒を朝廷に向けさせると嘆いた。
  • 温嶠もたびたび書を送って中止を求め、朝廷でも大半が反対したが、庾亮は聞かなかった。

蘇峻、召命に背く

  • 蘇峻は司馬何仍を派遣し、自分は外征には従えるが、内政補佐はとても担えないと辞退した。庾亮は許さなかった。
  • さらに郭黙を後将軍・屯騎校尉、庾氷を呉国内史とし、それぞれ兵を持たせて蘇峻に備えた。
  • 優詔を下して蘇峻を大司農・散騎常侍・特進とし、弟蘇逸に部曲を継がせる案を示したが、蘇峻は、先帝が自ら手を執って北征を命じたのに中原が未平定のまま安閑とできない、せめて青州の荒郡を与えてほしいと上表した。これも許されなかった。
  • 蘇峻は出頭のために武装を整えつつも迷い、参軍任讓や阜陵令匡術から、今の形勢では生き残れず、自衛のため反くしかないと勧められたため、ついに応召しなかった。

温嶠・三呉の動員案を退ける

  • 温嶠は事態を聞くと、ただちに兵を率いて下り、建康を守ろうとした。三呉でも義兵を起こそうとする動きがあった。
  • しかし庾亮はどちらも許さず、温嶠に「自分は歴陽よりも西辺を憂える。そなたは雷池を一歩も越えてはならぬ」と返書した。
  • 朝廷は使者を送って蘇峻を諭したが、蘇峻は、朝廷が自分を反逆者と見ている以上、生き延びることはできない、国家が累卵の危機にあったとき自分が救ったのに、今や猟犬として煮殺される番だと語り、謀主への報復を誓った。

祖約と結ぶ

  • 蘇峻は、朝廷を怨む祖約に目をつけ、参軍徐会を送って持ち上げ、庾亮討伐を共に行うよう求めた。
  • 祖約は大いに喜び、従子の祖智・祖衍らも賛成した。
  • 譙国内史桓宣は祖智に対し、いまは強胡が未滅であり、国を助けて蘇峻を討てば威名は自然に立つのに、峻とともに反くのでは長続きしないと諫めた。だが受け入れられなかった。
  • 桓宣は祖約に直接会って諫めようとしたが、祖約は会おうとせず、桓宣は絶縁して別行動を取った。

十一月 朝廷の備え

  • 十一月、祖約は甥の祖渙と娘婿の淮南太守許柳に兵を率いさせて蘇峻に合流させた。祖逖の妻である許柳の姉は強く諫めたが、従わなかった。
  • 朝廷は卞壼を再び尚書令・領右衛将軍とし、王舒に揚州刺史の事を行わせ、虞潭に三呉諸郡の軍事を督させた。
  • 孔坦・陶回は王導に対し、蘇峻がまだ来ないうちに阜陵や当利など長江渡渉の要地を押さえれば、一戦で決着できると進言した。あるいは峻が来る前に歴陽へ攻め寄せるべきだとも説いた。
  • 王導はこれに同意したが、庾亮は採らなかった。

十二月 蘇峻、反乱を起こす

  • 辛亥、蘇峻は韓晃・張健らに命じて姑孰を急襲させ、塩と米を奪った。ここに至って庾亮もようやく後悔した。
  • 壬子、彭城王雄・章武王休が朝廷を離反して蘇峻へ奔った。
  • 庚申、京師は戒厳となり、庾亮は節を仮し、征討諸軍事を都督した。趙胤を歴陽太守として司馬流に慈湖を守らせ、劉超を左衛将軍、褚翜に征討軍事を掌らせた。庾亮は弟の庾翼に白衣のまま数百人を率いさせ、石頭の防備に当てた。
  • 丙寅、琅邪王司馬昱を会稽王に移し、呉王司馬岳を琅邪王に移封した。

桓彛の挙兵

  • 宣城内史桓彛は兵を起こして朝廷を援けようとした。長史裨惠は、郡兵が少なく山民も騒ぎやすいから静観すべきだと述べたが、桓彛は、君に無礼をなす者を見て黙っていられるのは鳥を追う鷹ではないと激しく言い、出兵を決めた。
  • 辛未、桓彛は蕪湖へ進出したが、韓晃に破られ、宣城への攻撃を受けると広徳へ退いて守った。韓晃は諸県を大いに掠めて帰った。
  • 郗鑒は自軍を率いて赴難したかったが、北方の敵備えを理由に詔で許されなかった。

北辺と代の動向

  • この年、後趙の石虎は代王紇那を句注陘北で破った。紇那はこれを避けて都を大寧へ移した。
  • 代王鬱律の子翳槐は母方の賀蘭部にいたが、紇那が返還を求めても賀蘭部の藹頭は守って渡さなかった。紇那は宇文部とともに藹頭を攻めたが勝てなかった。