資治通鑑晉紀十五 顯宗成皇帝上之上 咸和元年 326年

春二月 三国の政局

  • 大赦が行われ、年号は咸和に改められた。
  • 前趙では汝南王劉咸が太尉・録尚書事、劉綏が大司徒、卜泰が大司空となった。
  • 劉皇后は病床で、幼くして叔父劉昶に養われた恩を語り、その昇進と、叔父劉皚の娘劉芳を後宮に入れることを願って死んだ。劉曜はその遺言どおり、劉昶を侍中・大司徒・録尚書事、さらに太保とし、劉芳を皇后に立てた。

三月 石勒の夜行

  • 後趙の石勒は夜ひそかに出て諸営を視察し、永昌門を出ようとして門番に金帛を与えたが、候王仮が不審に思って捕えようとした。随従が来て正体がわかり、その場は収まった。
  • 翌朝、石勒は王仮を忠義の士として振忠都尉・関内侯に取り立てた。
  • また記室参軍徐光が酒に酔って参内せず、牙門に左遷されると、徐光は不満を色に出したため、石勒は怒って妻子ともども囚えた。

夏四月~六月 劉遐の死後

  • 後趙の石生は汝南に侵攻し、内史祖済を捕えた。
  • 六月、泉陵公劉遐が死んだ。
  • 朝廷は郗鑒に徐州刺史を兼ねさせ、郭黙を北中郎将・監淮北諸軍事として劉遐の部曲を統べさせた。
  • しかし遐の子劉肇がまだ幼かったため、遐の妹婿田防や旧将史迭らは他人に属するのを嫌い、劉肇を擁立して反乱した。
  • 臨淮太守劉矯がその営を急襲して田防らを斬った。
  • 劉遐の妻は邵続の娘で、父に似て勇敢だった。かつて夫が後趙に包囲された際には、少数騎で救い出したこともあり、このたびも田防らの反乱を止めようとした。従わないと見るや、密かに武器庫へ火を放って甲仗を焼き払ったため、反乱軍は敗れた。
  • 朝廷は劉肇に父の泉陵公の爵を継がせた。

王導と卞壼

  • 王導は病を称して朝政に出ず、ひそかに郗鑒を見送った。
  • 卞壼は、王導は法を欠いて私情に従い、大臣の節を失っているとして免官を請うた。処分そのものは行われなかったが、朝廷はみな卞壼を恐れた。
  • 卞壼は質素廉潔で、裁断は厳しく実務に強かったが、度量広大とは言えず、時流に迎合しなかったため、名士たちにはしばしば敬遠された。
  • 阮孚が、そこまで肩肘張って瓦石を口に含むような苦しい生き方をしなくてもよいではないかと軽口をたたくと、卞壼は、道徳や風流を高く掲げる諸君に対し、鄙吝を引き受けて秩序を守る者が必要なのだと答えた。
  • 当時、王澄・謝鯤のような放達が若者の流行となっていたが、卞壼は朝廷で、礼を傷つけ教えを乱す大罪であり、西晋の傾覆もこれに由来すると非難し、弾劾しようとした。王導・庾亮が止めたので実行には至らなかった。

成漢の動き

  • 成漢は越嶲の斯叟を討ってこれを破った。

秋七月 應詹死去、祖約・蘇峻の不満

  • 観陽烈侯應詹が死んだ。
  • 王導が政を補佐した頃は寛和によって人望を得ていたが、庾亮が主導するようになると、法で物事を裁く傾向が強まり、しだいに人心を失った。
  • 豫州刺史祖約は、自分の名望は郗鑒・卞壼に劣らず、しかも顧命にも加えられず、さらに開府の望みも叶わなかったことを不満に思っていた。上表の多くが聞き入れられなかったこともあり、怨望を深めた。
  • 遺詔の褒賞にも祖約と陶侃が入っていなかったため、二人とも庾亮が故意に削ったのではないかと疑った。

蘇峻への警戒

  • 歴陽内史蘇峻は、沈充・錢鳳討伐の功によって威望が高まり、精鋭一万を持ち、武器も整っていた。朝廷は江北防衛を彼に頼っていたが、蘇峻はしだいに驕り、朝廷を軽んじる心を抱いた。
  • 亡命者を多く抱え、その兵はみな官の糧で養われ、輸送は絶えなかった。少しでも意に沿わないことがあると怒りの言葉を吐いた。
  • 庾亮はすでに蘇峻を疑い、また陶侃の勢力にも警戒していたため、八月、温嶠を都督江州諸軍事・江州刺史として武昌に鎮させ、王舒を会稽内史に出し、あわせて石頭の修築を進めた。
  • しかし阮孚は、江東の基業はまだ浅く、主君は幼く時勢は難しく、庾亮は若くして徳望が足りないから、近く必ず乱が起こると見て、自ら広州刺史への転出を求めた。

冬十月 南頓王宗の誅殺

  • 十月、帝の同母弟司馬岳が呉王に立てられた。
  • 南頓王宗は、自分が兵権を失ったことを怨み、もともと蘇峻とも親しかった。庾亮は宗を誅そうとし、宗のほうでも執政を廃そうと考えていた。
  • 御史中丞鍾雅が宗の謀反を弾劾し、庾亮は趙胤に命じてこれを捕えさせた。宗は兵で抗したが殺された。
  • 宗の姓は馬氏に貶められ、その三子は庶人とされた。太宰西陽王羕も弋陽県王に降封され、虞胤は桂陽太守へ左遷された。
  • 宗は皇室の近親であり、羕は先帝の保傅でもあったので、庾亮が一挙にこれらを誅黜したことで、遠近の人心はさらに離れた。
  • 宗の党である卞闡は逃れて蘇峻のもとへ走った。庾亮は蘇峻に送還を命じたが、蘇峻は匿って渡さなかった。
  • 宗の死を幼帝はすぐには知らず、のちに「あの白髪の老人はどこにいるのか」と庾亮に尋ねた。亮が謀反で誅したと答えると、帝は泣いて、「舅が人を賊だと言えば殺される。では人が舅を賊だと言ったらどうなるのか」と言ったため、亮は顔色を失った。

北方情勢

  • 趙の黄秀らが鄼に侵入し、順陽太守魏該は兵を率いて襄陽へ逃れた。
  • 後趙の石勒は程遐の策を用い、鄴宮を造営して世子石弘を鄴に鎮させ、禁兵一万と車騎所属の五十四営を付け、さらに王陽に六夷を専ら統率させて補佐させた。
  • 中山公石虎は、功績が多いのに鄴を離れねばならず、また二台造営に際して家族まで移されたので、程遐を深く怨むようになった。

十一月~十二月 淮南の危機

  • 十一月、後趙の石聰が寿春を攻めた。祖約はしばしば救援を請うたが、朝廷は兵を出さなかった。
  • 石聰はさらに逡遒・阜陵を侵し、五千余人を殺掠したため、建康は大きく震えた。
  • 朝廷は司徒王導を大司馬・仮黄鉞・都督中外諸軍事として江寧に出し防がせた。
  • 蘇峻は将韓晃を派遣して石聰を撃退した。王導は大司馬を辞した。
  • 朝議では滁塘を築いて胡賊を防ぐ案も出たが、祖約はそれでは寿春を見捨てることになると考え、いよいよ朝廷への憤りを深めた。
  • 十二月、済岷太守劉闓らが下邳内史夏侯嘉を殺し、下邳をもって後趙に降った。
  • 石瞻は河南太守王瞻を邾で攻め落とし、さらに彭城内史劉続が蘭陵石城を奪い返すと、これも攻め抜いた。
  • 石勒は牙門将王波を記室参軍とし、九流の制度を整え、秀才・孝廉に経書試験を課す制度を初めて立てた。
  • 張駿は前趙の圧迫を恐れ、隴西・南安の民二千余家を姑臧へ移し、あわせて成漢へ使者を送って修好した。書簡では李雄に尊号を去り、晋に藩臣として仕えるよう勧めた。
  • 李雄は返書で、自分は士大夫に推されてやむなく帝位にあるだけで、本心では晋室の元勲となって乱を払い、東方の朝廷を助けたいと述べた。これ以後、両者の使節往来は続いた。