春二月 張駿の服喪と河西の回復
- 張駿は元帝の訃報を受けると、三日間にわたり正式に喪に服した。ちょうど黄龍が嘉泉に現れたため、汜禕らは祥瑞をもって改元すべきだと請うたが、張駿は許さなかった。
- 辛晏は枹罕をもって張駿に降り、張駿はこれにより黄河南岸の地を回復した。
忠臣の追贈と周札評価をめぐる論争
- 朝廷は譙王司馬承・甘卓・戴淵・周顗・虞望・郭璞・王澄らに官を追贈した。
- 周札の旧吏は、周札にも冤があるとして追贈を求めた。
- 卞壼は、周札は石頭を守って敵に門を開いた者であり、贈官や諡号は不当だと主張した。
- 王導は、当時は王敦の姦逆がまだ明白でなく、自分たち有識者ですら見抜けなかったのであり、周札だけを責めるのは不公平だ、のちに周札は身をもって国に尽くして殺されたのだから周顗・戴淵と同様に扱うべきだと論じた。
- 郗鑒は、周顗・戴淵は死節であり、周札は延敵であって本質が違う、賞罰を同じにすれば勧懲が立たないと反対した。最終的には王導の議が採用され、周札には衛尉が追贈された。
慕容部、宇文氏を破る
- 後趙の石勒は宇文乞得帰に官爵を与えて帰国させ、慕容廆を討たせた。
- 慕容廆は世子慕容皝、索頭段国、遼東相裴嶷、慕容仁らを派遣してこれを迎え撃った。
- 乞得帰は澆水に拠って抗戦し、兄の子悉拔雄を慕容仁の正面に当てたが、仁がこれを斬って勢いに乗り、皝と合して乞得帰を大破した。
- 慕容軍は宇文国城に入り、軽兵で三百余里追撃したうえ、重器・家畜を大量に獲得し、数万の民が降附した。
三月以後 即位・婚立・羌胡の動向
- 段末柸が死に、弟の段牙が立った。
- 戊辰、皇子司馬衍が皇太子に立てられ、大赦が行われた。
- 前趙の主劉曜は劉氏を皇后に立てた。
- 北羌王盆句除が前趙に附くと、後趙の石佗が雁門から上郡へ出てこれを襲い、三千余落を虜にし、牛馬羊百余万を奪って帰った。
- 劉曜は中山王劉岳に追撃を命じ、自らは富平に屯して後援した。劉岳は河辺で石佗を斬り、奪われたものをすべて奪い返した。
楊難敵、仇池を奪い田崧を殺す
- 楊難敵は仇池を襲って奪い、前趙の田崧を捕えた。左右に命じて拝礼させようとしたが、田崧は怒って拒み、「賊に向かって拝するくらいなら趙の鬼となる」と罵倒した。
- 楊難敵は懐柔しようとして字で呼びかけたが、田崧はさらに激しく抗い、人の剣を奪って刺し殺そうとしたため、楊難敵はこれを殺した。
夏四月 後趙の拡張
- 後趙の石瞻は兗州刺史檀斌を鄒山で攻めて殺した。
- 後趙の王騰は并州刺史崔琨を襲って殺し、上党内史王眘も并州をもって後趙に降った。
五月 陶侃、荊州に赴任
- 陶侃は征西大将軍・都督荊湘雍梁四州諸軍事・荊州刺史となり、荊州の士民は大いに喜んだ。
- 陶侃は聡明勤勉で、終日きちんと座して政務をとり、軍府の事務を遺漏なく処理した。
- 寸陰を惜しむべきだと常に説き、放蕩や清談で実務を損なうことを厳しく戒めた。談笑や博戯で職を怠る者の道具は江へ投げ捨て、軍吏には鞭打ちまで加えた。
- 不法の利得を嫌い、民が労して得たものなら薄物でも厚く報い、理不尽に得た贈り物は叱責して返した。
- 百姓の農作業を妨げる行為にも厳格で、道ばたの未熟な稲を折っただけの者すら鞭打った。
- 船材の木屑や竹の切れ端まで記録して蓄え、のちに雪後の庁前のぬかるみ対策や、桓温の蜀攻めの船具に役立てた。細事まで行き届いた統治ぶりはこの類であった。
河南戦線の崩壊
- 後趙の石生は洛陽に屯して河南を侵掠した。司州刺史李矩・潁川太守郭黙はしばしば敗れ、食糧も尽きたため、前趙に使者を送って援助を求めた。
- 劉曜は中山王劉岳に一万五千を与えて孟津へ向かわせ、呼延謨には崤・澠から東進させて李矩・郭黙と合流し、石生を攻めさせた。
- 劉岳は孟津・石梁の二戍を落とし、石生を金墉に包囲したが、後趙の石虎が成皋関から歩騎四万で来援し、洛西で劉岳を破った。
- 劉岳は石梁に退いたが、石虎は壕と柵で包囲して連絡を断ち、軍中が飢えると馬を殺して食べさせた。石虎はさらに呼延謨も斬った。
- 劉曜自身が救援に出たが、前軍将軍劉黒が八特阪で石聰を破る勝利はあったものの、金谷に陣した夜に軍中が理由なく大混乱し、澠池へ退いても再び潰乱したため、そのまま長安へ帰った。
- 六月、石虎は石梁を陥し、劉岳以下将佐八十余人と氐羌三千余人を捕えて襄国へ送り、兵卒九千余人を坑殺した。続いて并州の王騰を攻めてこれも殺し、その兵七千余人も坑殺した。
- 劉曜は喪服で郊外にとどまり、七日間哭してから長安に入ったが、この敗戦を憤って病となった。
- 郭黙は再び石聰に敗れ、妻子を捨てて建康へ逃げた。李矩も配下がひそかに後趙へ降ろうとしたため支えきれず南帰したが、道中で兵が散り、郭誦ら百余人だけが従った。李矩は魯陽で死に、長史崔宣は残兵三千を率いて後趙に降った。
- これにより司州・豫州・徐州・兗州の地はおおむね後趙のものとなり、淮水が東晋との境目となった。
秋七月以後 諸国の人事
- 劉曜は永安王劉胤を大司馬・大単于とし、南陽王に改封して渭城に単于台を置き、その配下には胡・羯・鮮卑・氐・羌の豪傑を任じた。
- 七月、郗鑒が車騎将軍・都督徐兗青三州諸軍事・兗州刺史となり広陵に鎮した。
- 閏月、荀崧が光禄大夫・録尚書事、鄧攸が左僕射となった。
明帝の病と遺詔
- 右衛将軍虞胤と左衛将軍南頓王宗は、ともに明帝の近臣として禁兵を掌り、殿中に勇士を多く集めて帝の羽翼となっていた。王導・庾亮はこれを嫌っていたが、帝の信任はむしろ厚かった。
- 帝が病に伏すと、庾亮は夜に上表しようとして宗に宮門の鍵を求めたが、宗は「これはお前の家の門か」と言って拒んだため、亮は深く憤った。
- 帝が危篤となり群臣の拝謁を避けると、亮は宗・虞胤やその兄西陽王羕に異図ありと疑い、寝殿に押し入って羕・宗らが大臣を廃して自ら補政しようとしていると訴え、排斥を請うたが、帝は受け入れなかった。
- 壬午、帝は太宰羕・司徒導・卞壼・郗鑒・庾亮・陸曄・温嶠らを召し、遺詔を授けて太子補佐を命じ、殿中宿衛を交代で担当させた。卞壼は右将軍、庾亮は中書令、陸曄は録尚書事も兼ねた。
- 丁亥に遺詔が下り、戊子に明帝は二十七歳で崩じた。英断と機略によって弱きをもって強きを制し、逆臣を討って中興を成し遂げた帝として評された。
- 己丑、五歳の太子司馬衍が即位した。
- 王導は病を理由に出仕しなかったが、卞壼は朝廷で、先帝の殯中に嗣君もまだ正式に立っていない時に大臣が病を口実にするのは許されないと厳しく責めた。王導はこれを聞き、輿で参内した。
- 大赦が行われ、官位も進められ、庾后が皇太后とされた。
秋九月 皇太后臨朝
- 群臣は幼主であることを理由に、皇太后に漢の和熹皇后の故事にならって臨朝を願い出た。太后は数度辞退したが、ついに受け入れた。
- 九月、皇太后は臨朝称制し、王導が録尚書事、庾亮・卞壼が参輔朝政となったが、政務の大要は実際には庾亮が決した。
- 郗鑒は車騎大将軍、陸曄は左光禄大夫で、ともに開府儀同三司となり、南頓王宗は驃騎将軍、虞胤は大宗正となった。
人事拒否と卞壼の論
- 尚書は楽広の子楽謨を郡中正に、庾珉の同族庾怡を廷尉評に任じたが、二人はそれぞれ父の命を理由に辞退した。
- 卞壼は、人は父から生まれるが官職は国家のために立つものであり、各家が私に子を引き留めれば君臣の道は成り立たないと論じ、二人を就任させた。
冬 諸方の動き
- 辛丑、明帝は武平陵に葬られた。
- 十一月朔、日食があった。
- 慕容廆は段氏と親しく、段牙のために都を移すことを謀った。段牙はこれに従って令支を去ったが、国人はこれを喜ばなかった。
- 段疾陸眷の孫段遼は、遷都を罪として国人を率い、十二月に段牙を攻め殺して自立した。
- 段氏は務勿塵以来しだいに強盛となり、西は漁陽、東は遼水に及び、胡・晋三万余戸、弓騎四、五万を統べる勢力となっていた。
- 陶侃は、寧州刺史王堅では賊を防げないと見て、零陵太守尹奉を寧州刺史に推薦した。
- 以前から寧州では、梁水太守爨量・益州太守李逷ら蛮酋が成漢に附いており、王遜も抑えられなかった。尹奉は赴任すると徼外の夷を募って爨量を刺殺させ、李逷を説いて降し、州境を安定させた。
- 代王賀傉が死に、弟の紇那が立った。