資治通鑑晉紀十四 肅宗明皇帝上 大寧 元年 323年
正月から三月 即位直後の内外情勢
- 春正月、成漢の李驤と任回が台登へ侵攻し、将軍の司馬玫が戦死した。越嶲太守の李釗、漢嘉太守の王載は、ともに郡を挙げて成に降った。
- 二月庚戌、元帝は建平陵に葬られた。
- 三月戊寅朔、改元して大寧元年となった。
- 饒安・東光・安陵の三県で大火災があり、七千余家を焼き、一万五千人が死んだ。これらは渤海郡に属し、この時は後趙の地であった。
後趙の侵攻と王敦の簒奪準備
- 後趙は彭城・下邳を攻め、徐州刺史の卞敦と征北将軍の王邃は盱眙へ退いて守った。卞敦は卞壼の従父兄であった。
- 王敦は帝位簒奪を企て、朝廷に自分を召すようそれとなく迫った。帝は手ずから詔してこれを徴した。
- 夏四月、王敦に黄鉞・班剣が加えられ、奏事には名を避けず、入朝にも小走りせず、剣履のまま殿上に上がることを許された。
- 王敦は鎮所を姑孰へ移し、于湖に屯した。司空の王導は司徒に進められ、王敦自身は揚州牧を兼ねた。
王彬の諫争
- 王敦が逆心を抱くと、王彬は強く諫めた。王敦は顔色を変え、左右に命じて王彬を捕らえさせようとした。
- 王彬は面色を正して、王敦は以前兄を殺し、今また弟を殺すのかと言い返した。王敦はついに思いとどまり、王彬を豫章太守に出した。
寧州・交州の変動
- 後趙の石勒は使者を送って慕容廆と通好しようとしたが、慕容廆はこれを捕えて建康へ送った。
- 成漢の李驤らは寧州刺史の王遜を攻めたが、王遜は姚嶽らに迎撃させ、螗蜋で成軍を大破した。姚嶽は瀘水まで追って多くを溺死させたが、王遜は徹底追撃しなかったとして怒り、姚嶽を鞭打った。その怒りが激しすぎて冠が裂けるほどで、そのまま死去した。
- 王遜は十四年にわたり州を治めて威令を異俗にまで及ぼしていたため、州人は子の王堅を立てて州府の事務を代行させた。詔により王堅が寧州刺史となった。
- 広州刺史の陶侃は兵を交州救援に派遣したが、到着前に梁碩が龍編を陥し、刺史の王諒から節を奪おうとした。王諒は節を渡さず、梁碩はその右腕を断った。王諒は死さえ避けないのだから腕の一本に何の意味があるかと言い、十日余りして死んだ。
- 六月壬子、皇后に庾氏を立て、その兄の庾亮を中書監にした。
- 梁碩は交州で暴虐を働き人心を失った。陶侃の参軍・高宝がこれを攻めて斬り、陶侃は交州刺史を兼ね、征南大将軍・開府儀同三司に進んだ。
- まもなく吏部郎の阮放が交州刺史を求めて許され、寧浦に至ったところで高宝に饗応されるふりをされ、伏兵に襲われた。阮放は逃れて州に入ったが、まもなく病死した。
陳安滅亡
- 陳安は前趙の劉貢を南安で囲んだ。休屠王石武が桑城から上邽へ救援に向かい、劉貢と合流して陳安を大破した。陳安は八千騎を率いて隴城へ逃げ込んだ。
- 秋七月、劉曜は自ら隴城を包囲し、別軍で上邽も囲んだ。劉幹は平襄を攻め落とし、隴上の諸県は次々と降った。
- 陳安は楊伯支と姜冲児に隴城を守らせ、自ら精鋭騎兵で包囲を突破して陜中へ逃れた。追撃軍との戦いでは、大刀と長矛を自在に振るって近づく敵をなぎ払い、遠くからは騎射で翻弄したが、平先と三度交戦して矛を奪われた。日暮れの大雨に乗じて山中へ潜んだものの、翌日、石容が捕らえられても居所を明かさず殺され、その痕跡をたどられてついに澗のほとりで捕えられ、斬られた。
- 陳安は将士をよく撫し、甘苦をともにしたため、死後も隴上の人々は彼を思い、「壮士の歌」を作って悼んだ。
- 楊伯支は姜冲児を斬って隴城を降し、別将の宋亭も趙募を斬って上邽を降した。劉曜は秦州の大姓である楊・姜ら二千余戸を長安へ移し、氐羌には人質を出させて降服を請わせた。赤亭羌の酋長・姚弋仲には平西将軍・平襄公を授けた。
郗鑒と王敦の対立
- 帝は王敦の圧迫に備えて郗鑒を外援にしようとし、兗州刺史・都督揚州江西諸軍事として合肥に鎮めた。王敦はこれを忌み、表向きには郗鑒を尚書令に推して建康へ呼び戻させた。
- 八月、郗鑒は詔で召され、姑孰を通ると王敦と西朝の人物評を論じた。王敦は楽広より満奮のほうが実務に勝るのではないかと言ったが、郗鑒は、楽広は愍懐太子廃立の危機に際して柔和でありながら正義を失わず、満奮のような失節の人と比べるべきでないと答えた。
- 王敦は、あの危機の中ではやむをえなかったのだと言うと、郗鑒は、大丈夫は生死を賭して節を守るべきだと返した。王敦はその言葉を憎み、以後会おうとせず、長く引き留めた。党与は殺すべきだと勧めたが、王敦は殺さず、郗鑒は朝廷に帰り着いてから帝とともに王敦討伐を謀るようになった。
後趙の青州制圧
- 後趙の石虎は歩騎四万で安東将軍の曹嶷を攻めた。青州の郡県は多くが降り、石虎は広固を包囲した。
- 曹嶷は降伏し、襄国へ送られて殺された。部下三万人も坑殺された。石虎はその兵民を皆殺しにしようとしたが、青州刺史の劉徴が、自分は民を治めるために残されたのであって、民がいなければ職務にならぬと述べたため、男女七百戸だけは残して劉徴に付け、広固鎮守に当たらせた。
劉曜の西征と張茂の屈服
- 劉曜は隴上からさらに西へ凉州を攻め、劉咸に冀城の韓璞を、呼延宴に桑壁の陰鑒を攻めさせ、自ら二十八万の大軍で河のほとりに進んだ。営は百余里に連なり、軍声で河水も沸くようであった。
- 張茂配下の河辺の諸戍はみな風を聞いて逃げ崩れた。劉曜は百道から一斉に渡河して姑臧へ直進すると威嚇し、凉州は大きく動揺した。
- 参軍の馬岌は張茂に、前々から朝廷のため劉曜を討とうとしてきた以上、今こそ自ら出陣して信義と勇気を示すべきだと勧めた。長史の汜褘は馬岌を斬れと怒ったが、馬岌は書物のかすしか知らぬ小才だと切り返した。張茂はこれを是として石頭に屯した。
- 張茂が参軍の陳珍に策を問うと、陳珍は、劉曜軍は数は多くても精兵は少なく、氐羌の寄せ集めで統御も弱い、さらに東方に石勒という大患を抱える以上、長く河西で戦えないだろうと分析し、二十日も動かなければ自分が数千の疲兵でこれを擒にできると述べた。張茂は喜び、韓璞救援を命じた。
- 劉曜は、軍勢は盛んに見えても実際には疲弊しており、威圧だけで十分だとして、二十日以内に張茂の降表が来なければ自分の負けだと諸将に語った。やがて張茂は使者を送って称藩し、馬牛羊・珍宝を夥しく献じた。劉曜は張茂に侍中・都督諸軍事・太師・凉州牧・凉王・九錫を加えた。
仇池・成漢・楊氏
- 楊難敵は陳安の死を聞いて恐れ、弟の堅頭とともに漢中へ南奔した。前趙の劉厚が追撃して大勝した。
- 劉曜は田崧を鎮南大将軍・益州刺史として仇池に置いた。楊難敵は成漢へ人質を送って降服を求めた。
- 成漢の李稚は賄賂を受け、楊難敵を成都へ送らず、前趙軍が退くと武都へ帰してしまった。楊難敵はそのまま険阻を頼って服属しなかったため、李稚は大いに悔い、しきりに討伐を求めた。
- 李雄は李琀・李稚を白水から、李寿・李玝を陰平から出して楊難敵を攻めさせた。諫める者もいたが聞かなかった。楊難敵は帰路を断って四方から攻め、李琀・李稚は下弁まで深入りしたため全滅し、数千人が死んだ。
- 李琀は李蕩の長子で才望があり、李雄は後継にしようとしていたため、その死を聞くと数日食を断って悲しんだ。
劉曜の後継問題
- 劉曜の子には、長子の劉儉、次子の劉胤がいた。劉胤は十歳で非常に大柄で、かつて漢主劉聡が、世子はこの子にすべきだと劉曜に語ったことがあった。劉曜は当時、長幼の順を乱すことを恐れて応じなかった。
- その後、靳準の乱の際に行方不明となっていた劉胤が、黒匿郁鞠部に保護されていたことが判明し、帰還した。劉曜は大いに喜び、今の太子劉熙は若く穏やかすぎて多難の時勢に堪えないかもしれず、もとの世子である劉胤を立てて国家を固め、劉熙を安んじたいと群臣に諮った。
- 呼延宴らは賛成したが、卜泰と韓広は、すでに立てた太子を軽々しく廃すべきではなく、光武帝の例も法とすべきでないと反対した。
- 劉胤自身も、父が子を愛するのは等しくあるべきで、自分は劉熙を補佐してこそよく、もし自分をもって劉熙に代えるというなら、ここで死んで命を受けないと泣いて辞退した。
- 劉曜は、劉熙が羊皇后の子であることもあって廃するに忍びず、前妃の卜氏を元悼皇后と追諡し、卜泰を重んじて上光禄大夫・儀同三司・領太子太傅とし、劉胤を永安王・侍中・衛大将軍・録尚書事とした。さらに劉熙には劉胤に対して家人の礼を尽くさせた。
張茂の築城と諫言
- 張茂は姑臧の城を大きく修築し、霊鈞台も再建した。
- 別駕の呉紹は、城と台を修めるのは過去の災いを戒めるためだろうが、もし恩が人心に届いていなければ、高台にいても何の益もなく、かえって臣下に不信を抱いていると見られ、民心の帰属を失い、近隣に弱さを示すだけだと諫めた。今は工事をやめて民の労費を休めるべきだとも言った。
- 張茂は、兄が思わぬ変で倒れたときも忠義の士がいなかったわけではないが、災いが突然で智勇を施せなかったのだ、国が未だ安んじない今、太平の理屈で人を責めるべきではないとして、工事を続けた。
王允之の密告
- 王敦の従子・王允之はまだ少年だったが、聡明さを愛され常に側に置かれていた。ある夜、王敦が酒席で銭鳳と謀反計画を話し合うのを王允之はすべて聞いた。
- 王允之はその場で寝所から大いに吐いて衣服も顔も汚し、酔いつぶれて何も聞いていないように見せた。銭鳳が去った後、王敦が灯火で確かめたが、吐瀉物の中に寝ているのを見て疑わなかった。
- ちょうど父の王舒が廷尉に任ぜられたので、王允之は帰省を願い出て許され、帰ると王敦と銭鳳の謀計をすべて王舒に告げた。王舒は王導とともに帝へ奏聞し、朝廷はひそかに備えを進めた。
十一月 王氏の配置換え
- 王敦は一族を強くして帝室を圧しようとし、冬十一月、王含を征東将軍・都督揚州江西諸軍事、王舒を荊州刺史・監荊州沔南諸軍事、王彬を江州刺史へ移した。
樊坦の逸話
- 後趙の石勒は参軍の樊坦を章武内史にした。樊坦の衣冠が破れているのを見て理由を問うと、樊坦は率直に、羯賊に略奪されて財産を失ったからだと答えた。
- 石勒は笑って、羯賊はそこまで無道だったのか、では償ってやろうと言い、車馬・衣服と三百万の装銭を与えて送り出した。
年末の諸事
- この年、越嶲の斯叟が成漢の将・任回を攻めた。李雄は征南将軍の費黒を派遣して討たせた。
- 会稽内史の周札は一門から五侯を出し、宗族は非常に強盛で、江東の士族の中で比肩する者がなかった。王敦はこれを忌んだ。
- 王敦は病にかかると、銭鳳は早く周氏を除くべきだと勧めた。王敦もこれをもっともだと考えた。
- 周嵩は兄の周顗が殺されたことを常に憤っていた。王敦には実子がなく、王含の子の王応を養子として嗣としたが、周嵩はかねて衆中で、王応は兵を統べるに適さないと言っており、王敦はこれを憎んでいた。
- 周嵩と周札の兄の子・周筵はいずれも王敦の従事中郎であった。
- このころ道士の李脱が妖術で人々を惑わし、士民の中にこれを信じて奉ずる者がかなりいた。