資治通鑑晉紀十三 中宗元皇帝 大興 三年 320年

春正月 劉曜が関中の晋王保勢力を撃つ

  • 正月、劉曜は陳倉を攻め、王連を戦死させ、楊曼を南氐へ走らせた。続いて草壁を抜き、路松多を隴城へ敗走させ、さらに陰密も奪った。
  • 晋王司馬保は恐れて桑城へ移った。劉曜は長安へ還り、劉雅を大司徒とした。
  • 張春は司馬保を奉じて涼州へ奔ろうと企てたが、張寔は将の陰監を遣わして表向きは護衛、実際には入境を拒ませた。

段末柸・段匹磾・邵続の抗戦

  • 段末柸が段匹磾を攻めて破った。段匹磾は邵続に対し、自分は夷狄ながら義に慕って家を破ってまで晋に尽くしたのだから、旧約を忘れず共に末柸を撃ってほしいと訴えた。
  • 邵続はこれに応じ、両者はともに追撃して段末柸を大破した。
  • 段匹磾と弟の段文鴦は薊を攻めた。

石虎の厭次攻略と邵続の最期

  • 後趙王石勒は邵続の孤立を見て、石虎に兵を授けて厭次を包囲させ、孔萇にはその別営を攻めさせた。十一営はいずれも陥落した。
  • 二月、邵続が自ら出撃すると、石虎は伏兵でその退路を断ち、邵続を捕えた。石虎は邵続に城を降させようとしたが、邵続は兄の子らに対し、自分は国恩に報いる志を貫いた、今後は段匹磾を主として二心を持つなと命じた。
  • 段匹磾は薊から帰る途中で邵続敗没を聞き、軍は恐れて散った。再び石虎に遮られたが、段文鴦は親兵数百で奮戦し、ようやく城に入って邵続の子緝や一族とともに守りを固めた。
  • 邵続は襄国へ送られた。石勒はその忠義を惜しみ、罪を赦して礼遇し、従事中郎に任じた。そして今後、敵地で士人を捕えた場合には、むやみに殺さず生け捕りにして献じるよう命じた。

洛陽周辺の離反と李矩の伸長

  • 吏部郎劉胤は、北方の藩鎮はほとんど失われ、邵続だけが残っているのだから、ここで救援しなければ義士の心を失い、中原回復の道も塞がると訴えた。しかし元帝は兵を出せなかった。
  • 邵続がすでに敗れたと聞くと、その官位と任務を子の邵緝に授ける詔を出した。
  • 趙の将尹安・宋始・宋恕・趙慎ら四軍が洛陽に屯していたが、後趙へ降った。後趙の石生が援軍として向かうと、尹安らはまた司州刺史李矩に降った。
  • 李矩は潁川太守郭黙に命じて洛陽へ入らせた。石生は宋始の一軍をさらって北渡したため、河南の民はこぞって李矩に帰し、洛陽は空になった。

三月 裴嶷来朝と慕容廆への正式冊封

  • 三月、裴嶷が建康に着き、慕容廆の威徳を盛んに称え、そのもとに賢才が集まっていると語った。これによって朝廷は初めて慕容廆を重く見るようになった。
  • 元帝は裴嶷に、君は中朝の名臣だから江東に留まるべきであり、別に詔して慕容廆に家族を送らせようと言った。しかし裴嶷は、旧都は滅び山陵も荒らされる中、忠義を尽くして凶逆を除こうとしているのは慕容廆だけだとし、自分が帰らなければ朝廷が辺境ゆえに慕容廆を見捨てたと思わせ、その向義の心を怠らせてしまうと論じた。
  • 元帝はこれを是とし、使者を裴嶷に同行させ、慕容廆を安北将軍・平州刺史に任じた。

閏月 周顗の昇進

  • 閏月、周顗を尚書左僕射に任じた。

五月 司馬保が張春らに殺される

  • 晋王司馬保の将張春・楊次は別将楊韜と不和で、司馬保に楊韜誅殺と陳安攻撃を勧めたが、司馬保はいずれも聞き入れなかった。
  • 夏五月、張春と楊次は司馬保を幽閉して殺した。司馬保は体が肥大し、読書を好む一方で、眠ることを好み、暗弱で決断力に欠けていたため、この禍を招いた。
  • 司馬保に子がなかったため、張春は宗室の子司馬瞻を世子に立てて大将軍を称させたが、部衆は散じ、涼州へ奔る者が一万余にのぼった。
  • 陳安は劉曜に表を送り、司馬瞻らを討つことを願った。劉曜は陳安を大将軍として討伐させ、司馬瞻を殺した。張春は枹罕へ逃れた。
  • 陳安は楊次を司馬保の柩前で斬り、その霊に祭った。さらに司馬保を天子の礼で上邽に葬り、元王と諡した。

羊鑒の逡巡と蔡豹への交代

  • 羊鑒は徐龕討伐に出ながら、下邳に駐して進軍できなかった。
  • 蔡豹は檀丘で徐龕を破った。徐龕は後趙に救援を求め、石勒は王伏都を派遣し、さらに張敬にも後続させた。ところが王伏都は兵を借りる見返りに過大な要求を重ね、また淫暴でもあったため、徐龕はこれを憂えた。
  • 張敬が東平に来ると、徐龕は自分を襲うのではないかと疑い、王伏都ら三百余人を斬ったうえで、ふたたび晋に降伏を願い出た。
  • 石勒は大いに怒り、張敬に険阻を拠って持久戦に持ち込むよう命じた。元帝も徐龕の反覆を憎んで降伏を受けず、羊鑈・蔡豹に時機を見て討つよう命じた。
  • しかし羊鑈はなお疑い恐れて進まず、尚書令刁協が弾劾して死一等を減じ、官を除いた。蔡豹がその兵を代領した。王導は自分の推挙が人を誤ったとして降格を願ったが、帝は許さなかった。

六月 段文鴦の奮戦、張寔暗殺、劉曜の刑政転換

  • 六月、後趙の孔萇が段匹磾を攻めたが、勝ちに乗じて備えが薄かったところを段文鴦に襲われ、大敗した。
  • 京兆の人劉弘は涼州に客居し、天梯山で妖術を用いて衆を惑わし、門徒千余を集めた。張寔の側近閻渉・趙卬らは彼を信じ、張寔を殺して劉弘を主に立てようと謀った。張寔の弟張茂は先に誅すべきだと勧めたが、張寔が史初に命じて捕えさせようとしたときには手遅れで、閻渉らは刃を懐にして入り、張寔を外寝で殺した。
  • 劉弘は史初に対し、使君はもう死んだのだから自分を殺して何になると言ったが、史初は怒ってその舌を切り、姑臧の市で車裂に処した。党与数百人も誅された。
  • 左司馬陰元らは、張寔の子張駿がまだ幼いため、張茂を涼州刺史・西平公に推し、境内に大赦を行い、張駿を撫軍将軍とした。
  • 丙辰、劉曜のもとでは解虎・尹車が巴酋句徐・厙彭らと結んで反乱を企てたが、露見して誅された。劉曜は徐彭ら五十余人を阿房に囚え、皆殺しにした。これに対し光禄大夫游子遠は、元悪だけを誅して濫殺すべきではないと諫め、投獄された。
  • 巴人はこれを見てみな叛き、句渠知を主に推して大秦を称し、平趙と改元した。四山の氐・羌・巴・羯で呼応する者は三十余万に達し、関中は大いに乱れた。
  • 游子遠は獄中からも諫言を続け、中山王劉雅・郭汜・朱紀・呼延晏らもまた、子遠の忠を殺しては天下が離れると諫めたため、劉曜はついに子遠を赦した。
  • 子遠はさらに、反乱者たちは大望があるのではなく、ただ重罰を恐れているだけだから、大赦して家族を解放し、旧業への復帰を許せば自然に降るだろうと献策した。劉曜は喜び、即日大赦し、子遠を車騎大将軍・開府儀同三司・都督雍秦征討諸軍事に任じた。
  • 子遠が雍城に屯すると降者は十余万に達し、安定へ進むと、句氏一族五千余家が陰密に保った以外はみな降った。これも滅ぼした。
  • さらに隴右を巡ると、十余万落の氐羌が険阻に拠って服さず、酋長虚除権渠が秦王を称していた。子遠は五度戦って勝ち、伊余が五万の精兵を率いて朝に営門へ迫っても、鋒鋭を避けて守り、風塵に乗じて襲い、生け捕りにした。権渠は被髪・剺面して降り、劉曜はこれを征西将軍・西戎公とした。伊余兄弟と部落二十余万口は長安へ移された。
  • 劉曜は子遠を大司徒・録尚書事に任じた。

劉曜の学校・土木と諫争

  • 劉曜は太学を立て、民のうち才知があり教えうる者千五百人を選び、儒臣に教育させた。
  • あわせて酆明観・西宮・陵霄台・寿陵などの造営を進めた。
  • これに対し侍中喬豫・和苞は、乱後の国が先に民力を休ませるべきこと、酆明観ひとつの労費で涼州平定も可能だという民間の批判、さらに秦始皇陵の例を挙げて、奢侈な寿陵は亡国の道だと諫めた。
  • 劉曜はこれを聞き入れ、二人を社稷の臣と称え、宮室の諸役をすべて罷め、寿陵も漢の覇陵に準じた簡素な制度へ改めた。二人には子爵を与え、諫議大夫を兼ねさせ、天下に布告して自分の朝廷は過失を聞きたいと示した。また酆水の苑囿を省いて貧民に与えた。

祖逖が陳留方面で優勢を回復する

  • 祖逖の将韓潜は、後趙の桃豹と陳川旧城を東西に分かれて守り合っていた。祖逖は布袋に土を入れて米のように見せ、千余人で台上へ運ばせたうえ、別に少人数へ本物の米を担わせ、桃豹の兵に奪わせた。桃豹の兵は久しく飢えていたため、晋軍はなお豊かだと思いこんで恐れた。
  • 後趙の将劉夜堂が驢馬千頭で兵糧を桃豹に運ぶと、祖逖は韓潜・馮鉄に命じて汴水で邀撃させ、ことごとく奪った。桃豹は夜のうちに東燕城へ退いた。
  • 韓潜はさらに封丘へ進んでこれを圧迫し、馮鉄は二台を守り、祖逖自身は雍丘に鎮した。しばしば後趙軍を邀撃し、後趙の守兵や戍兵には祖逖へ帰する者が多く、後趙の領土は次第に縮んだ。
  • 以前は趙固・上官巳・李矩・郭黙が互いに攻撃しあっていたが、祖逖は使者を走らせて利害を説き、和解させてみな自己の節度に服させた。

秋七月 祖逖の経略と石勒の懐柔策

  • 七月、祖逖は鎮西将軍を加えられた。
  • 祖逖は軍中で将士と苦楽を共にし、自らを節して施し、農桑を勧め、新たに附いた者を手厚く受け入れた。河上の諸塢で、家族を後趙に人質として置いている者には両属を認め、時には偽って掠奪する姿勢を見せて、まだ晋に完全帰属していないよう装い、塢主たちを安心させた。彼らはその恩に感じ、後趙に異変があれば密かに知らせたため、祖逖は多くの戦果を挙げた。
  • 黄河以南では後趙を背いて晋へ帰する者が多くなり、祖逖は兵を練り糧を積み、河北攻略を図った。
  • 石勒はこれを患い、幽州にある祖逖の祖父母の墓を修築し、守墓二家を置いたうえで、使者往来と互市を願う書を送った。祖逖は返書こそ出さなかったが、互市そのものは許し、その利益を十倍にもして得た。
  • 祖逖の牙門童建が新蔡内史周密を殺して後趙へ降ると、石勒は童建を斬り、その首を祖逖へ送って、反臣・逃亡吏は自分の深い仇であり、将軍の憎む者は自分も憎むと告げた。祖逖はこれに深く感じ入り、その後、後趙から帰降する者を受け入れず、部将にも後趙の民を侵さぬよう禁じたため、国境地帯はしだいに安定した。

八月 周訪死去

  • 八月辛未、梁州刺史周訪が死んだ。周訪は兵を撫するのに巧みで、将士はみな彼のために死力を尽くした。
  • 周訪は王敦に不臣の心があることを察し、ひそかに強く憎んでいたため、王敦も周訪の生前はついに挙兵できなかった。
  • 王敦は郭舒を襄陽軍の監として派遣し、元帝は湘州刺史甘卓を梁州刺史・督沔北諸軍事として襄陽へ鎮めた。郭舒が帰ると、帝はこれを右丞に徴そうとしたが、王敦は留めて遣わなかった。

秋冬 徐龕の再降伏と蔡豹の敗走

  • 後趙王石勒は石虎に歩騎四万を率いさせて徐龕を攻めさせた。徐龕は妻子を人質に出して降伏を乞い、石勒はいったんこれを許した。
  • 蔡豹は卞城に屯したが、石虎がこれを攻めようとすると、下邳へ退いて徐龕に敗れた。石虎は封丘に城を築いて撤退し、士族三百家を襄国の崇仁里へ移し、公族大夫に統轄させた。

石勒の法と選挙

  • 石勒は法を厳格に運用し、とくに「胡」の語を口にすることを忌んだ。宮殿が完成したころ、ある胡人が酒に酔って馬で止車門に突入した。石勒が宮門の小執法馮翥を責めると、翥は恐れて禁忌を忘れ、「酔った胡人が入り、いくら叱っても言うことを聞かなかった」と答えた。石勒は笑って、胡人とはたしかに扱いにくいものだと許した。
  • 石勒は張賓に選挙を掌らせ、はじめ五品、のち九品を定め、公卿・州郡に毎年、秀才・孝廉・清賢良直言・武勇の士を各一人挙げさせた。

冬十月 蔡豹誅殺と王敦・王導の対立表面化

  • 西平公張茂は兄の子張駿を世子に立てた。
  • 蔡豹は敗戦後、建康へ出て罪を受けようとしたが、北中郎将王舒がこれを止めた。元帝は蔡豹が退いたと聞いて捕縛を命じ、王舒が夜中に兵で囲むと、蔡豹は敵襲と誤認して麾下を率いて応戦した。詔による逮捕だと分かってようやく止み、建康へ送られた。
  • 冬十月丙辰、蔡豹は斬られた。
  • 同じころ、王敦は武陵内史向碩も殺した。
  • 元帝が江東に入った当初、王敦と王導は協力して帝を支え、王敦は征討を、王導は機密政務を主導していたため、「王氏と司馬氏とが天下を共にしている」と言われた。
  • しかし王敦は功を恃み、宗族の強盛もあってしだいに驕恣となり、元帝はこれを恐れ憎んだ。そこで劉隗・刁協らを腹心として王氏の権勢を抑え、王導も次第に疎外された。
  • 中書郎孔愉は、王導は忠賢で佐命の勲があるから委任すべきだと訴えたが、帝はかえって孔愉を司徒左長史へ出した。
  • 王導は私心なく分を守ったため、識者はその処し方を称えたが、王敦はいっそう不満を深めた。

王敦が反意を募らせ、湘州に譙王氶を出す

  • 王敦はかつて呉興の沈充を参軍とし、沈充は同郡の銭鳳を推薦した。二人は巧言令色で凶狡な人物であり、王敦の異志を知ってひそかに助け、策をめぐらしたため、王敦の権勢は朝内外を傾けた。
  • 王敦は王導の不遇を訴える上疏を出したが、その言辞には怨望がこもっていた。王導はそれを封じて王敦へ返したが、王敦は再び上奏した。
  • 左将軍譙王氶は忠厚で志操ある人物で、元帝は親しく信任していた。帝は夜に氶を召し、王敦の上疏を見せて、王敦はもはや足るを知らない、この先どうすべきかと問うた。氶は、もっと早く処置していればよかったが、今や王敦は必ず患いになると答えた。
  • 劉隗は帝に、腹心を方面へ出して備えるべきだと進言した。ちょうど王敦が沈充を湘州刺史に推したため、帝は譙王氶に対し、湘州は上流の要地であり、ここにいてくれないかと打診した。氶は、力の及ぶかぎり奉命すると答えたが、湘州は杜弢の乱後で疲弊しており、三年ほど整えねば兵を用いるには足りないとも述べた。
  • 十二月、譙王氶を湘州刺史に任じる詔が出た。長沙の鄧騫は、湘州の禍はここから始まると歎いた。
  • 氶が武昌に至ると、王敦は宴を開いて、殿下は平素立派な人物だが、将帥の才はないだろうと言った。氶は、まだ自分を知らないだけであり、鈍い刃にもひとたびは役立つと答えた。王敦は銭鳳に対し、あれは恐れもせず強がりを学んでいるだけで、武略はないと評し、そのまま赴任を許した。
  • 湘州は荒廃していたが、譙王氶は自ら倹約し、心を尽くして撫育したため、能吏の名声を得た。