資治通鑑晉紀十 孝愍皇帝上 建興 元年 313年

春正月 懷帝の受難

  • 丁丑朔、劉聰は光極殿で群臣を宴し、懷帝に青衣を着せて酒を注がせた。
  • 庾珉・王雋ら旧晋臣は悲憤に堪えず泣き叫んだため、劉聰に憎まれた。
  • 彼らが平陽を劉琨に内応させようと謀ったという告発があり、二月丁未、劉聰は庾珉・王雋ら十余人を殺した。
  • 懷帝もこのとき殺害された。年三十であった。
  • 劉聰は大赦を行い、会稽劉夫人を再び貴人にした。
  • 荀崧は、懷帝は資質そのものは明敏で、太平の世であれば守成の君となれたはずだが、恵帝後の大乱と東海王越の専政の中に立ったため、暴虐の君ではなかったのに流亡の禍を受けたと評した。

張太后・張后・王彰の死

  • 乙亥、漢の張太后が死去し、「光献」と諡された。
  • 張皇后はその死を悲しみすぎて、丁丑に後を追うように死去し、「武孝」と諡された。
  • 己卯には定襄忠穆公王彰も死去した。

三月 劉聰の新皇后と陳元達の諫争

  • 劉聰は貴嬪劉娥を皇后に立て、そのために䳨儀殿を造営しようとした。
  • 廷尉陳元達は強く諫め、民の命を君主一人の欲望のために費やしてはならないこと、光文帝劉淵が粗衣粗食で民を愛したこと、今なお関中・江南・巴蜀・幽并に敵があり、石勒・曹嶷も完全には服していないのに、宮殿造営を急ぐのは誤りだと説いた。
  • 劉聰は激怒して陳元達を引き出し、妻子もろとも東市で梟首にしようとした。
  • 陳元達は殿前の木に自らの腰鎖をかけて動かず、朱雲が龍逢・比干に比肩した故事を引いて、社稷のために死ぬのは本望だと叫んだ。
  • 任顗・朱紀・范隆・河間王易らも、元達は先帝以来の忠臣であり、これを斬れば後世に何を示すのかと、額を地に打ちつけて諫めた。
  • 劉后も密かに上書して、宮室はすでに足りていること、今後さらに造営して諫臣を殺せば、天下の怨みはすべて自分に帰することになると訴えた。
  • 劉聰はようやく色を改め、自分は近年やや中風気味で、喜怒が常軌を失いがちだと認め、陳元達らを赦した。
  • 逍遥園を「納賢園」に、李中堂を「愧賢堂」に改め、陳元達に「卿は朕を畏れるべきなのに、反対に朕が卿を畏れている」と語った。

西方情勢の悪化

  • 西夷校尉向沈が死去し、衆は蘭維を推して後任とした。
  • 蘭維は吏民を率いて北へ出て巴東から晋へ帰ろうとしたが、成の李恭・費黒に阻まれて捕らえられた。
  • 四月、懷帝の訃報が長安に届いた。皇太子司馬業は喪礼を行い、元服を加えたのち、壬申に皇帝位に即いた。
  • 大赦を行い、年号を建興と改めた。
  • 梁芬を司徒、麴允を尚書左僕射・録尚書事、索綝を尚書右僕射・領吏部京兆尹とした。
  • このころ長安城内は戸数百戸にも満たず、蒿と棘が林のように生い茂り、公私の車はわずか四乗、百官には章服も印綬もなく、桑の板に官号を書いただけの状態だった。
  • まもなく索綝は衛将軍・領太尉となり、軍国の事はほぼ彼に委ねられた。

長安周辺の戦いと石勒の拡張

  • 漢の劉曜・喬智明が長安を侵し、趙染も兵を率いて加わった。詔により麴允が黄白城に屯して防いだ。
  • 石勒は石虎に鄴を攻めさせ、鄴は陥落した。劉演は廩丘へ逃れ、三台の流民もみな石勒に降った。
  • 石勒は桃豹を魏郡太守としたが、のちに石虎を鄴の鎮守とした。
  • 兗州では焦求・李述・劉演・郗鑒の三者がそれぞれ別の拠点に屯し、吏民は誰に従うべきか分からない状態となった。

華譚・陳頵の直言

  • 琅邪王睿は華譚を軍諮祭酒に用い、周馥がなぜ叛いたのかを問うた。
  • 華譚は、周馥は国難を避けるための遷都を唱えたのであり、叛逆と決めつけるのは冤罪だと答えた。洛陽がほどなく陥落したことが、その判断を裏づけるとも論じた。
  • 睿は、周馥は征鎮の重任にありながら、危急に応じて入朝せず、危うい政局を支えなかった罪人でもあると応じた。
  • 録事参軍陳頵は、洛中の承平以来、士人の間で小心恭恪が凡俗視され、偃蹇倨傲が雅とされる風潮が国を敗ったとし、いま江東の僚属もその弊を引き継いでいると批判した。
  • また、趙王倫討伐時の「己亥格」を今なお流用して功賞を濫発し、名器を軽んじていると諫めたが、寒微の出自で正論を重ねたため嫌われ、譙郡太守へ左遷された。

周玘の怨望

  • 呉興太守周玘は宗族勢力が強く、琅邪王睿はこれをやや警戒していた。
  • 睿の側近には中州から逃れてきた亡官失守の士が多く、江東の人々を支配したため、呉人の不満が高まっていた。
  • 周玘は自らの失職もあり、刁協に軽んじられたことを深く恥じて、南人を用いて執政者を除こうと陰謀したが、露見して憂憤のうちに死んだ。
  • 臨終に際して、わが身を殺したのは北方から来た「傖子」どもだ、その仇を討つ者こそ我が子だと語った。

王浚の衰えと慕容廆の伸長

  • 石勒は上白で李惲を破って斬った。
  • 王浚は薄盛を青州刺史とし、棗嵩を易水に屯させ、段疾陸眷とともに石勒を撃とうとしたが、段氏は石勒との和好のため応じなかった。
  • 王浚は怒って拓跋猗盧に厚賂を贈り、さらに慕容廆らにも檄を飛ばして段疾陸眷討伐を求めた。
  • 猗盧は六修を派遣したが段氏に敗れ、慕容廆は慕容翰に段氏を攻めさせ、徒河・新城を取り陽楽に至ったが、六修敗北を聞いて引き返し、翰を青山に留めて守らせた。
  • 当時、中国の士民は乱を避けて北方へ流れ、しばしば王浚を頼ったが、王浚は保護も統治も十分に行えなかった。段氏兄弟も武勇ばかりで士大夫を礼せず、これに対して慕容廆は政事が整い、人材を愛重したため、流民は多く廆に帰した。
  • 裴嶷・陽躭・黄泓・魯昌・游邃・逢羡・宋奭・封抽・裴開・宋該・皇甫岌・皇甫真・繆愷・劉斌・封奕・封裕ら多くの人物が廆のもとで用いられた。
  • 裴嶷は、段氏は遠略に乏しく国士を遇する器ではない、慕容公には霸王の志があるとして、遼西で道が絶えても南帰せず廆に身を寄せるよう一族に説いた。
  • 皇甫岌は崔毖が長史として招いても応じず、慕容廆が招くとすぐ弟とともに赴いた。
  • 遼東の張統は高句麗と戦い続けていたが、楽浪王遵に勧められて民千余家を率い慕容廆に帰し、廆は楽浪郡を置いて張統を太守とした。

梁州の失策

  • 王如の余党である李運・王建らが襄陽から三千余家を率いて漢中へ入った。
  • 梁州刺史張光は参軍晋邈にこれを防がせたが、晋邈は賂を受けて受け入れを勧めたので、張光は成固に住まわせた。
  • その後、晋邈は彼らが多くの財宝を持つのを見て、農事をせず兵器ばかり整えていて危険だと讒言し、全員を襲って殺すよう再び張光に勧めた。
  • 張光はまたも従い、五月、晋邈に李運・王建を討たせて殺した。
  • 王建の婿の楊虎は遺衆を集めて張光を攻め、厄水に屯した。張光が子の張孟萇を派遣しても勝てなかった。
  • この一連の失策が、のちの梁州大乱の原因となった。

五月 東西丞相の設置

  • 壬辰、朝廷は琅邪王睿を左丞相・大都督として陝東諸軍を、南陽王保を右丞相・大都督として陝西諸軍を統べさせた。
  • 詔は、幽并の三十万で平陽を直撃し、秦・涼・梁・雍の三十万で長安へ進み、左丞相は精兵二十万で洛陽に進出して、ともに中原回復と梓宮奉迎を図れと命じた。
  • しかし実際には、この大計を動かすだけの統一行動は成立しなかった。

石勒のさらなる進撃

  • 劉曜は蒲坂に屯し、石勒は孔萇を遣わして定陵を攻め、田徽を殺した。
  • 薄盛も配下を率いて石勒に降り、山東の郡県は次々に石勒の支配下に入った。
  • 劉聰は石勒を侍中・征東大将軍に任じた。
  • 烏桓も王浚に叛き、ひそかに石勒へ通じるようになった。

六月・七月 劉琨と猗盧の再挙兵

  • 六月、劉琨は代公猗盧と陘北で会し、漢を撃つ計画を立てた。
  • 七月、劉琨は藍谷へ進み、猗盧は拓跋普根を北屈に屯させた。劉琨は韓拠に西河から南下させ、西平攻略を図った。
  • 劉聰は劉粲らに劉琨を、劉易らに普根を、蘭陽らに西平守備を命じた。
  • 劉琨らはこれを聞いて撤退し、劉聰は諸軍をそのまま各地に駐屯させて、次の進取をはからせた。

八月 司馬睿の体制整備

  • 朝廷は殿中都尉劉蜀を建康へ派遣し、左丞相睿に北伐の進軍を促した。
  • しかし癸亥、劉蜀が到着すると、睿は江東平定がまだ終わっていないとして北伐を辞した。
  • その代わりに、刁協を左長史、劉隗を司直、戴邈を軍諮祭酒、張闓を従事中郎、鍾雅を記室参軍、桓宣を舎人、熊遠を主簿、孔愉を掾とし、丞相府の体制を整えた。
  • 劉隗は文史に明るく、睿の意向を察することに長けていたため、とくに親任された。
  • 熊遠は、近年の軍事政権では律令を使わず、思いつきでその場その場の制度を作るため、朝に定めて夕に改めるありさまだと批判した。駁議する際は律令・経伝を根拠にすべきで、便宜的な開閉の権道は本来人君だけが用いるべきだと諫めたが、睿は多事を理由に採用しなかった。

祖逖の北伐志願

  • 范陽の祖逖は若いころから大志があり、かつて劉琨と同宿して夜半の鶏鳴を聞き、ともに起きて剣舞したことで知られていた。
  • 渡江後、祖逖は軍諮祭酒となって京口におり、司馬睿に対して、晋の乱は天子の無道ではなく宗室の争いが原因であり、中原の遺民はみな奮起を望んでいる、もし自分のような者に兵を与えれば必ず豪傑が風を望んで応じると述べた。
  • 睿はもとより北伐に積極的ではなく、祖逖を奮威将軍・豫州刺史としたものの、千人分の食糧と布三千匹を与えただけで、鎧仗は支給せず、自ら兵を募らせた。
  • 祖逖は部曲百余家を率いて江を渡り、中流で櫂を打って、中原を清めずに再び江を渡ることはしないと誓った。
  • 淮陰に屯して兵器を鋳造し、二千余人を募ってから北進した。

荊州の再乱

  • 胡亢は猜疑心が強く、驍将数人を殺したため、杜曽は恐れて密かに王沖の兵を引き込み、胡亢を攻めさせた。
  • 胡亢が精兵を率いてこれに当たると、竟陵城内は手薄となり、杜曽はその隙に胡亢を殺してその衆を併せた。
  • 周顗は潯水城に屯していたが、杜弢に包囲された。陶侃は朱伺を派遣して救わせ、杜弢は泠口に退いた。
  • 陶侃は、杜弢は必ず陸路から武昌へ向かうと読んで捷路から郡へ帰り待ち受け、朱伺に迎撃させて大破した。杜弢は長沙へ逃れた。
  • 周顗は潯水から出て王敦のいる豫章へ投じ、王敦はこれを留めた。
  • 陶侃は参軍王貢を遣わして戦勝を報告し、王敦は「陶侯がいなければ荊州を失っていた」と述べて、陶侃を荊州刺史に推挙し、沔江に屯させた。
  • 琅邪王睿は周顗を再び召して軍諮祭酒に任じた。

梁州刺史張光の最期

  • 氐王楊茂搜の子・楊難敵は、養子が梁州で人身売買をしていた件で張光に鞭殺され、これを恨んでいた。
  • 張光と楊虎が争うと、双方とも茂搜に援兵を求めた。茂搜は難敵に張光を助けさせたが、難敵は張光に賄賂を求めて拒まれた一方、楊虎から厚く賂を受け、しかも流民の財宝はみな張光のもとにあると聞いて喜んだ。
  • 張光が楊虎と戦う際、前に張孟萇、後ろに楊難敵という布陣にしたところ、難敵は楊虎と挟撃して張孟萇を大破し、張孟萇兄弟を殺した。
  • 九月、張光は怒りと憤激から病となり、部下は魏興への退却を勧めたが、張光は国家の重任を受けて賊を討てずに退くことはできない、死ぬならむしろ仙に登るようなものだと言い、言い終わらぬうちに絶命した。
  • 州人は少子の張邁を推して州事を領させたが、これも氐との戦いで戦死し、始平太守胡子序が梁州を領した。

九月以後 関中の攻防

  • 荀藩が開封で死去した。
  • 劉曜・趙染が黄白城の麴允を攻め、麴允は連戦連敗した。詔により索綝が征東大将軍として援軍を率いた。
  • 王貢は王敦のもとから帰る途中、竟陵で陶侃の命を偽り、杜曽を前鋒大都督に任じて王沖を討たせ、これを斬ってその衆を降した。
  • しかし陶侃が杜曽を召しても応じず、王貢は偽命の罪を恐れて杜曽とともに叛き、陶侃を撃って大敗させた。
  • 冬十月、陶侃は身一つで逃れたが、王敦は白衣のまま職務を行わせ、陶侃は周訪らと再度進撃して杜弢を大破した。王敦もそこで正式に官職回復を奏請した。
  • 趙染は、麴允が大軍を率いて城外にいるいま、長安は空虚だから奇襲すべきだと劉曜に進言した。劉曜はこれを採用して趙染に精騎五千を与えた。
  • 庚寅夜、趙染は長安外城に侵入し、帝は射鴈楼へ逃れた。趙染は龍尾道や諸営を焼き、千余人を殺掠した。
  • 辛卯朝、趙染は逍遥園に退き、壬辰には麴鑒が阿城から五千を率いて長安救援に来た。
  • 癸巳、趙染は退いたが、追撃した麴鑒は零武で劉曜と遭遇して大敗した。

十一月 梁州喪失と王浚の自立志向

  • 楊虎と楊難敵は梁州を急攻し、胡子序は城を捨てて逃れた。難敵は自ら梁州刺史を称した。
  • 劉曜は勝利に乗じて備えを怠ったが、十一月、麴允が兵を率いて襲撃し、漢軍を大破して冠軍将軍喬智明を殺した。劉曜は平陽へ退いた。
  • 王浚は、父の字が「処道」であることを根拠に、自分こそが「当塗高」の讖に当たるとして、帝位をうかがうようになった。
  • 劉亮・王摶・高柔がこれを強く諫めたが、王浚は彼らをみな殺した。
  • 燕国の霍原もこれに答えなかったため、群盗と通じたと誣告されて殺され、首を梟された。
  • こうして士民は恐れ怨み、王浚はますます驕慢となり、政務に親しまず、棗嵩・朱碩ら苛刻な小人を重用した。
  • 北州では「朱丘伯と棗郎が袋を満たす」とうたう民謡が流れ、重税と徴発に耐えられない人々の多くが鮮卑へ逃れた。
  • 韓咸は柳城監護として慕容廆の善政と士民収容を称えて王浚を諷したが、王浚は怒ってこれを殺した。
  • 王浚はもともと鮮卑・烏桓の力に依存していたが、その双方が離反し、さらに蝗害と旱魃が重なって軍勢は著しく衰えた。

十二月 石勒の対王浚工作

  • 石勒は王浚を襲うにあたり、その虚実を知るため使者を出そうとした。
  • 参佐たちは羊祜・陸抗の故事にならって、敵国間の対等な礼で書状を送るよう勧めたが、張賓はこれに反対した。
  • 張賓は、王浚は名目上は晋臣でも実際は自立を望んでおり、しかも天下の豪傑が従わないことを恐れているだけだ、石勒がへりくだって帝位を勧めれば、項羽が韓信を欲したように、必ずその気にさせられると説いた。
  • 石勒はこれに従い、王子春・董肇に珍宝を持たせて王浚へ上表した。自らを「小胡」と卑下し、晋祚はすでに傾き、中原に主がない以上、州里の名望である王浚こそ帝王にふさわしい、自分はそのために暴乱を除いてきたのだと述べた。
  • また棗嵩にも厚く賂を贈った。
  • 王浚は、段氏が新たに背き、士民も多く離れていた時だったので、石勒が帰附を望むと聞いて大いに喜んだ。
  • 王子春は、石勒ほどの強者でも、胡人が帝王となった先例はなく、帝王には天命の歴数があるからこそ王浚に譲るのだと持ち上げた。項羽と漢、陰精と太陽の比喩まで用いて称揚したため、王浚は大いに悦び、二人を列侯に封じて返報し、厚く報いた。
  • 游綸の兄・游統は范陽にいてひそかに石勒へ通じたが、石勒はその使者を斬って王浚に送った。王浚はかえって石勒の忠誠を深く信じ、完全に疑いを解いた。

年末の各地

  • 左丞相睿は世子司馬紹を広陵に鎮させ、蔡謨を参軍とした。
  • 劉曜は河南尹魏浚を石梁に囲み、劉演・郭黙が救援を送ったが、黄河の北で敗れた。魏浚は夜のうちに逃げたが捕えられて殺された。
  • 代公猗盧は盛楽を築いて北都とし、旧平城を南都とした。さらに灅水の北に新平城を築き、右賢王六修に南部を統べさせた。