正月 漢の冊立と石勒・王弥の進軍
- 正月朔、晋では大赦。漢では劉淵が単徴の娘を皇后に立て、梁王劉和を皇太子とし、大赦を行った。さらに子の義を北海王、長楽王洋を大司馬とした。
- 石勒は黄河を渡って白馬を落とし、王弥が三万の兵でこれに合流し、徐・豫・兗三州へ侵攻した。
二月 石勒の連勝
- 石勒は鄄城を急襲して兗州刺史袁孚を殺し、さらに倉垣を落として王堪を殺した。
- その後再び北へ渡河して冀州諸郡を攻め、民九万余口が従った。
巴西・江南の動乱
- 成の太尉李国が巴西に駐屯していたが、部下の文石に殺され、巴西は羅尚へ降った。
- 司馬越は呉興の銭璯と揚州刺史王敦を召したが、銭璯は王敦を殺して反乱を起こそうとした。王敦は建業に逃げて琅邪王司馬睿に告げた。
- 銭璯は陽羨へ進出したが、司馬睿は郭逸らを派遣し、周玘も郷里の兵をまとめて討伐に協力した。銭璯は斬られ、周玘は「三たび江南を安定させた」功で呉興太守となり、その郷里に義興郡が新設された。
曹嶷の青州攻略
- 曹嶷は大梁から東へ進み、進路上の地はほぼ降服した。東平を取ると、さらに琅邪を攻めた。
四月 祁弘の勝利と梓潼奪回
- 王浚の将祁弘は広宗で漢の冀州刺史劉霊を破って殺した。
- 成の李雄は張宝に「梓潼を取れば李離の官位を与える」と言った。張宝は人を殺して逃れ、梓潼へ走ると訇琦らに信用されて腹心となった。
- 羅尚の使者が梓潼に来た折、張宝は隙を見て門を閉じ、訇琦らを追い出し、梓潼を李雄へ奪回した。李雄は張宝を太尉にした。
各地の天災
- 幽・并・司・冀・秦・雍の六州に大蝗が発生し、草木ばかりか牛馬の毛まで食い尽くされたとされた。
七月 河内陥落と劉淵の病
- 劉聡・劉曜・石勒・趙固が河内太守裴整を懐で包囲した。朝廷は宋抽に救援を命じたが、石勒が迎撃して討ち、河内の人々は裴整を捕えて漢に降った。
- 劉淵は裴整を尚書左丞に任じた。裴整配下の郭黙は残兵を集めて塢堡の主となり、劉琨はこれを河内太守に任じた。
- 巴郡で羅尚が死に、朝廷は皮素を後任に任じた。
- 劉淵は病床に伏し、歓楽・洋・延年・劉聡らに高位を授け、単于台を平陽西に置き、劉裕・劉隆・劉義・劉曜・喬智明・劉殷・王育・任顗らにも要職を配した。
- 安昌王盛は若い頃から孝経・論語だけを読み、「実行できれば十分だ」と語った人物で、李熹はその器量を高く評価していた。劉淵が臨終にあたり盛を重用したのも、その忠実さを買ったためである。
七月‐八月 劉淵の死と劉和の失政
- 丁丑、劉淵は歓楽らを禁中に召して遺詔を授け、己卯に死去した。太子の劉和が即位した。
- 劉和は猜疑心が強く恩に乏しかった。宗正の呼延攸、侍中の劉乗、衛尉の西昌王劉鋭らは、楚王劉聡ら諸王が強兵を握ることを危険視し、先手を打って排除すべきだと説いた。
- 劉和は呼延攸の甥であり、これを深く信じた。安昌王盛は「先帝の喪中に兄弟で殺し合えば天下はどう見るか」と諫めたが、呼延攸らは怒って盛を斬らせた。
- 劉和は続いて劉欽らを脅して従わせ、劉鋭に劉聡攻撃を、呼延攸に劉裕攻撃を、劉乗に劉隆攻撃を命じた。
- しかし田密・劉璿は北海王劉義を連れて劉聡のもとへ走り、劉聡は武装して待ち受けた。劉鋭らはまず劉裕と劉隆を殺したが、劉聡が西明門を破って平陽へ突入すると、敗れて南宮に逃げ込み、ついに劉和は光極西室で殺された。
- 劉聡は呼延攸・劉鋭・劉乗らの首をさらし、群臣の推戴を受けたが、まず単皇后の子である劉義に皇位を譲ろうとした。劉義が固辞したため、劉聡が即位し、元号を「光興」と改めた。
劉聡の即位後の措置
- 劉聡は単氏を皇太后、生母の張氏を帝太后とし、劉義を皇太弟・大単于・大司徒とした。
- 妻の呼延氏を皇后とし、子の劉粲・劉易・劉翼・劉悝を王に封じ、劉粲には中外諸軍を総督させた。
- 石勒は并州刺史にされ、汲郡公に封じられた。
- 略陽臨渭の氐の有力者・蒲洪は勇敢で権略があり、諸氐が畏服していた。劉聡は彼を平遠将軍に任じようとしたが、蒲洪は受けず、自ら護氐校尉・秦州刺史・略陽公を称した。
九月 葬礼と関中流民の蜂起
- 九月、劉淵は永光陵に葬られ、諡を光文皇帝、廟号を高祖とした。
- 雍州の流民の多くが南陽にいたため、朝廷は帰郷を命じたが、関中の荒廃を知る彼らは帰りたがらなかった。
- 山簡・杜蕤が兵を出して強制送還を進めると、京兆の王如が壮士を集めて夜襲し、両軍を破った。
- これに呼応して馮翊の厳嶷、京兆の侯脱らも起ち、城鎮を攻めて長吏を殺し、たちまち四、五万の勢力となった。王如は大将軍・司雍二州牧を称し、漢に藩属した。
冬十月 再び洛陽方面へ
- 劉粲・劉曜・王弥が四万を率いて洛陽へ向かい、石勒が騎兵二万で大陽に会した。石勒は澠池で監軍裴邈を破り、洛川に進入した。
- 劉粲は轘轅から梁・陳・汝・潁の間を掠め、石勒は成皋関を出て倉垣の王讚を包囲したが、敗れて文石津に退いた。
劉琨と拓跋猗盧
- 劉琨は劉虎・白部討伐のため、拓跋猗盧に厚礼低姿勢で援軍を求めた。猗盧は甥の鬱律に騎兵二万を率いさせて助け、劉虎・白部を破ってその営を焼いた。
- 劉琨は猗盧と兄弟の契りを結び、大単于・代公に推した。しかし代郡は幽州に属していたため王浚はこれを認めず、兵を出して猗盧を討ったが返り討ちにあった。
- 猗盧は封地が本拠から遠すぎて不便だとして、雲中から雁門へ部落一万余家を移し、陘北の地を求めた。劉琨はこれを抑えられず、楼煩・馬邑・陰館・繁畤・崞の五県の民を陘南へ移し、その土地を猗盧に与えた。
- 胡注は、この一連の時期について晋書・宋書・後魏序紀・劉琨集などを比較し、封代・移民・王浚との争いの順序を詳しく考証している。
司馬越、劉琨の提案を退ける
- 劉琨は司馬越に対し、猗盧と協力して劉聡・石勒を討つよう進言した。
- しかし司馬越は、荀晞や豫州刺史馮嵩が後ろで問題を起こすことを恐れ、これを許さなかった。
- 劉琨はやむなく猗盧の兵を謝して帰国させた。胡注によれば、後魏序紀は「洛陽救援のため」とするが、劉琨の書簡から見て実際は対賊作戦の提案であったという。
- 劉虎は敗残兵を率いて西に黄河を渡り、朔方の肆盧川に住み、漢の宗室として楼煩公に封じられた。
朝廷の窮迫
- 王浚は司空に、段務勿塵は大単于に進められた。
- 洛陽は飢えが極まり、司馬越は羽檄を飛ばして全国に援兵を求めた。懐帝は使者に「今ならまだ救える。後では間に合わない」と伝えさせたが、ついに誰も到着しなかった。
- 山簡は王万を救援に送ったが、涅陽で王如に破られた。王如は沔・漢一帯を掠め、襄陽へ迫り、山簡は城に籠った。
- 荊州刺史王澄も自ら救援に向かったが、沶口で山簡敗北を聞いて兵が散り、引き返した。
- 遷都論も起こったが、王衍は車や牛を売ってまで「都を捨てない姿勢」を示し、人心をつなぐべきだと主張した。
- 山簡はさらに厳嶷に圧迫され、襄陽を捨てて夏口に移った。
石勒の南進と南陽流民勢力の崩壊
- 石勒は黄河を渡って南陽へ向かい、王如・侯脱・厳嶷らは襄城に一万を置いて防いだが、石勒はこれを全て捕らえた。
- 当時、侯脱は宛、王如は穰に拠っており、両者は不仲だった。王如は石勒に厚い賄賂を送り兄弟の契りを結び、侯脱を攻めるよう説いた。
- 石勒は宛を破り、救援に来た厳嶷を降したうえで侯脱を斬り、その軍を併呑した。さらに襄陽へ南進し、江の西の砦三十余か所を落とした。
- 王如は弟の王璃に石勒を襲わせたが滅ぼされ、石勒は再び江の西に駐屯した。
十一月 司馬越の出征と洛陽の空洞化
- 王延らを殺して以来、司馬越は人望を大いに失い、胡族の侵攻も激しくなったため、みずから鎧を着て懐帝に拝謁し、「石勒を討ち、兗・豫を鎮めたい」と願い出た。
- 懐帝は、都の近辺がすでに危機で朝廷は司馬越に頼るほかないと引き留めたが、司馬越は「座して窮乏を待つよりは、出て国威を立てる方がよい」と答えた。
- 十一月、司馬越は甲士四万を率いて許昌へ向かった。洛陽には妃の裴氏、世子の司馬毗、李惲、何倫を残し、潘滔に留守を総括させた。
- 自らは行台を設け、王衍を軍司とし、名望ある朝臣や精兵をことごとく自軍に引き抜いた。そのため宮中も官府も守りが手薄となり、飢饉はいよいよ深刻化し、死体が宮中にも横たわり、役所は濠を掘って自衛する有様となった。
- 司馬越は項に駐屯し、馮嵩を左司馬、自ら豫州牧を兼ねた。
- 竟陵王司馬楙は帝に訴えて何倫を襲わせたが失敗し、罪を着せられて逃亡した。
周馥の遷都論と対立
- 揚州都督周馥は洛陽の危うさを見て、寿春への遷都を上書した。
- 司馬越は自分を通さずに上表したことに怒り、周馥と淮南太守裴頠を召した。周馥は応じず、裴頠に先に兵を率いて来させたが、裴頠は司馬越の密命だと偽って周馥を襲い、逆に敗れて東城へ退いた。
涼州からの援助、蜀での内紛
- 朝廷は張軌を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に進めた。
- 傅祗・摯虞が洛陽の窮乏を伝えると、張軌は杜勲を送って馬五百匹と氈布三万匹を献じた。
- 成の李驤は涪城の譙登を攻め続けたが、羅尚の子の羅宇や部下たちは譙登を憎み、糧を送らなかった。皮素はこれを咎めようとした。
- 十二月、皮素が巴郡へ入ると、羅宇は夜に人を使って皮素を殺した。建平都尉暴重は羅宇を殺し、巴郡は大いに乱れた。
- 李驤は譙登の食糧が尽き援軍もないと知り、ますます攻勢を強めた。城中では鼠を燻して食い、餓死者が多く出たが、離反する者はいなかった。
- 譙登は人質となっていた李驤の子李寿を返した。
- 三府の属官たちは韓松を益州刺史に推し、巴東を治所とした。
年末 青州・寧州
- かねて帝は茍晞に王弥・石勒討伐を命じていたが、曹嶷が琅邪を破って北の斉地を収め勢いを増したため、茍晞は青州へ戻ってこれを討ち、連戦して破った。
- 寧州では王遜が着任し、李釗を朱提太守に任じた。外に成の圧力、内に夷の乱を抱えつつも、王遜は質素な生活で離散民を招き、豪族の非法を処断し、かつての乱の首謀だった五苓夷を滅ぼして州境を安定させた。
漢宮廷の不穏
- 劉聡は、自分が本来の嫡兄を越えて即位したことを気に病み、その兄の劉恭を寝所の壁に穴をあけさせて刺客に殺させた。
- 単太后が死去すると、劉聡は生母張氏を皇太后に尊んだ。単氏は若く美しく、劉聡がこれに淫したことを、皇太弟劉義がたびたび諫めた。単氏は恥じ憤って死に、以後劉義の寵遇はやや衰えた。
- ただし単氏との縁から直ちには廃されなかった。呼延皇后は、劉義を排し劉粲を後継にするよう劉聡に迫り、劉聡も心中ではその気になっていった。この先の廃立の伏線となる。