正月 漢の遷都と改元
- 正月朔、火星が紫微に入り、不吉とされた。漢の太史令・宣于修之は劉淵に対し、「三年以内に洛陽を取れるが、蒲子は地勢が悪く長く都にできない。平陽へ移るべきだ」と進言した。
- 劉淵はこれに従って遷都し、大赦を行い、汾水で玉璽が得られたことにちなみ、元号を「河瑞」と改めた。
三月 山簡の任命と荊州の動揺
- 高密孝王司馬略が死去し、山簡が征南将軍・都督荊湘交広四州諸軍事として襄陽に鎮した。
- しかし山簡は酒を好み政務を顧みず、順陽内史の劉璠が民心を集めていることを恐れて朝廷に召還させたため、南方ではかえって動揺が広がった。人々は旧刺史の劉宏をしのんだ。
太傅司馬越の入京と政敵粛清
- 司馬越が滎陽から洛陽へ入り、朝政を握った。王敦は、司馬越が旧来の制度で自らの権限を抑える朝臣を排除しに来たのだろうと見た。
- 懐帝は即位前から親しかった繆播・繆胤兄弟、母方の王延、何綏、高堂冲らを側近としていたが、司馬越は朝廷が自分に二心を抱くのを疑った。
- 劉輿・潘滔の勧めで、司馬越は繆播らが乱を起こそうとしていると讒言し、王秉に兵三千を率いさせて宮中で繆播ら十余人を捕え、廷尉に渡して殺した。懐帝はただ嘆き涙を流すばかりであった。
- 何綏の死に関連して、何曾がかつて武帝の将来を悲観しつつも、自身は奢侈を改めず、その結果一族が滅んだことが回顧される。司馬光は、君主の過失を家で私語するだけで諫めなかった点も忠臣ではないと論評している。
朝政人事の変更
- 司馬越は王敦を揚州刺史に任じた。
- 老齢の劉寔が長く引退を願い出ていたが許されず、劉坦が「高齢者を優遇するとは職務から外して休ませることだ」と上奏したため、朝廷は劉寔に侯として第に就くことを許した。
- 王衍が太尉となり、司馬越は兗州牧を解いて司徒を兼ねた。
宮中宿衛の刷新
- 司馬越は、これまで政変の多くが殿中・省中の人間から起こったと考え、宿衛にあたる侯爵持ちの者を全て罷免するよう奏請した。多くの武官が宮中から去り、涙ながらに退出した。
- かわって何倫・王秉が東海国兵数百人を率いて宿衛を担当し、以後、皇帝の身辺はほぼ司馬越の私兵で固められた。
漢軍の河北侵攻
- 左積弩将軍の朱誕が漢へ奔り、洛陽は孤立して弱いと詳報し、攻略を勧めた。
- 劉淵は劉景を大都督として黎陽を攻めさせ、これを落とした。さらに王堪を延沢で破り、男女三万余人を黄河に沈めたため、劉淵は「自分が除きたいのは司馬氏であって、民ではない」と怒り、劉景を降格した。
旱魃と石勒の台頭
- この年は大旱となり、江・漢・河・洛の水が枯れて徒歩で渡れるほどで、亡国の兆しと見られた。
- 石勒は鉅鹿・常山を侵し、十余万の衆を集めた。儒雅な人物を別営に集めて「君子営」とし、趙郡の張賓を謀主、刁膺を腹心、夔安・孔萇・支雄・桃豹・逯明らを爪牙とした。
- 張賓は読書家で大志を抱き、自らを張良になぞらえていた。諸将の中で石勒だけが大事を成せると見て参じ、進言が次々と当たったため、石勒は彼を軍功曹に抜擢して用いた。
壺関方面の戦い
- 劉淵は王弥を侍中・征東大将軍・青州牧に任じ、楚王劉聡とともに壺関を攻めさせ、石勒を前鋒とした。
- 劉琨は黄粛・韓述を救援に送ったが、韓述は西澗で、黄粛は封田で敗れて殺された。
- 司馬越は王曠・施融・曹超らを差し向けた。施融は「敵は険阻を頼んで出没し、こちらは単独の軍勢にすぎない。河を背に固めてから形勢を見るべきだ」と諫めたが、王曠は聞き入れなかった。
- 両軍は太行山中、長平付近で戦い、晋軍は大敗した。施融・曹超は戦死し、劉聡は屯留・長子を破り、上党太守の龐淳は壺関を挙げて漢に降った。
- 劉琨は張倚を上党太守代理として襄垣に拠らせた。
劉虎・白部と劉琨
- 匈奴系の劉虎が新興に拠り、鉄弗氏を称した。白部鮮卑もあわせて漢に附いた。
- 劉琨は自ら劉虎を討ったが、時期関係について胡注は諸史と劉琨集を突き合わせ、壺関方面の戦いより前後の順序を考証している。
- 劉聡は晋陽を奇襲したが落とせなかった。
八月‐九月 洛陽への接近と撃退
- 八月、劉淵は子の裕を斉王、隆を魯王に封じた。
- 同月、劉淵は劉聡らに洛陽進攻を命じ、晋は曹武らに迎撃させたが敗れた。
- 劉聡は宜陽まで進んだが、連勝におごって備えを怠った。九月、弘農太守の垣延が偽降して夜襲し、劉聡軍を大破させた。
王浚軍と石勒
- 王浚は祁弘と鮮卑の段務勿塵を出して石勒を飛龍山で撃たせ、大破した。石勒は黎陽へ退いた。
冬十月 漢軍再来と洛陽包囲
- 劉淵はふたたび劉聡・王弥・劉曜・劉景らに精騎五万を与えて洛陽へ向かわせ、呼延翼が歩兵で後続した。
- 劉聡らが宜陽に至ると、朝廷は敵が再び来るとは思っておらず大いに驚いた。
- 劉聡は西明門に、ついで洛水南岸に布陣した。北宮純は夜襲して呼延顥を斬り、呼延翼は部下に殺され、その軍は大陽から潰走した。
- 劉淵はこのため撤兵を命じたが、劉聡は「晋軍は弱いから続攻すべきだ」と奏し、劉淵も許した。
- 司馬越は城に籠った。劉聡が嵩山に祈祷へ出た隙に、孫詢の進言で晋軍が出撃し、留守を守る劉厲・呼延朗を討ち破った。劉厲は水に飛び込んで死んだ。
- 王弥は兵糧の不足と輸送路の危険を理由に撤退を勧めたが、劉聡は自ら請戦していたため帰りづらかった。
- ここで宣于修之が劉淵に対し、「洛陽を得るのは辛未の年であって、今は晋の気運がまだ尽きていない」と述べたため、劉淵はようやく劉聡らを呼び戻した。
巴蜀の争乱
- 天水の訇琦らが成の太尉李離と尚書令閻式を殺し、梓潼を羅尚に降した。
- 成の李雄は李驤・李雲・李璜に討たせたが勝てず、李雲・李璜は戦死した。
- かつて巴西太守馬脱に父を殺された譙登は、劉宏に願って兵を得て復讐の軍を起こし、宕渠で馬脱を斬ってその肝を食った。
- 梓潼が成から離反すると、譙登は涪城を占めた。李雄が自ら攻めたが、かえって譙登に敗れた。
十一月‐十二月 各地の群雄
- 十一月、劉聡・劉曜は平陽へ帰還したが、王弥は轘轅を出て南方に向かい、潁川・襄城・汝南・南陽・河南の流民数万家がこれに呼応して城邑を焼き、長吏を殺した。
- 石勒は信都を攻めて冀州刺史王斌を殺し、王浚は自ら冀州を兼ねた。王堪・裴憲が討伐に出たが、魏郡太守劉矩が石勒に降り、裴憲は軍を棄てて逃げ、王堪は倉垣に退いた。
- 十二月、劉淵は歓楽を太傅、劉聡を大司徒、延年を大司空とした。曲陽王劉賢・劉霊・趙固・王桑らを内黄に進駐させた。
- 王弥は曹嶷を青州方面へ出して家族を迎えさせた。これが後の青州割拠の端緒となる。
遼東・幽州の事件
- 東夷校尉の李臻は王浚と晋室を助ける約束をしていたが、王浚の異志を恨んでいた。王誕に勧められ、子の李成に兵を率いさせて王浚を討たせた。
- しかし遼東太守龐本がその隙を突いて李臻を襲殺し、さらに李成も無慮で殺した。
- 王誕は慕容廆のもとへ逃れ、朝廷は封釈を東夷校尉に任じたが、龐本はさらに封釈も殺そうとした。
- 封釈は子の悛の進言で伏兵を置き、龐本を斬ってその家を誅滅した。