春三月 皇太孫尚の死
夏五月 梁王肜の死と蜀方面の戦況
- 五月己酉、梁王肜が薨じた。
- 右光禄大夫劉寔が太傅となったが、ほどなく老病を理由に退いた。
- 河間王顒は督護の衙博を梓潼に駐屯させて李特討伐に向かわせ、朝廷も張微を広漢太守として徳陽に進めた。羅尚は張亀を繁城に置いた。
李特の攻勢
- 李特は子の李蕩らに衙博を襲わせ、自らは張亀を攻撃して破った。李蕩は陽沔で衙博軍を破り、梓潼太守張演は城を棄てて逃走した。
- 巴西丞毛植は郡を挙げて降伏し、李蕩はさらに葭萌で衙博を攻め、衙博は敗走した。配下の兵はことごとく降った。
- 河間王顒は改めて許雄を梁州刺史とした。
- 李特は勢いに乗じて、自ら大将軍・益州牧・都督梁益二州諸軍事と称した。
皇太子覃の擁立
- 大司馬齊王冏は長く大政を独占しようと考え、帝の子孫が尽きていることから、清河王覃を立てて自ら後見しようとした。
- 清河王覃は司馬遐の子で、まだ八歳であった。
- 癸卯、覃が皇太子に立てられ、齊王冏は太子太師となった。東海王越は司空・領中書監となった。
秋八月 張微の敗死
- 李特は張微を攻めたが、いったんは張微に破られた。
- その後、張微が李特の営へ進攻すると、李蕩が山道の険しさをものともせず前進して救援し、張微軍を打ち破った。
- 李特は涪へ戻ろうとしたが、李蕩と司馬王幸が、張微軍はすでに知勇ともに尽きているから、この勢いで捕えるべきだと諫めた。
- 李特は再進し、張微を殺し、その子張存を生け捕りにした。ただし張微の喪は返した。
- 李特は寋碩を徳陽に置き、李驤を毗橋に駐屯させた。羅尚はこれを討たせたが、たびたび敗れた。
成都包囲と羅尚軍の敗北
- 李驤はついに成都を攻め、その城門を焼いた。李流は成都北方に軍した。
- 羅尚が精兵一万を出して李驤を攻めると、李驤は李流と合流してこれを大破し、生還者は十人に一、二人ほどであった。
- 許雄もたびたび李特を攻めたが勝てず、李特の勢力はますます盛んになった。
南中の呼応
- 建寧の豪族李叡・毛詵は太守許俊を逐って李特に呼応し、朱提の豪族李猛も太守雍約を追って呼応した。各々数万の衆を擁した。
- 南夷校尉李毅はこれを討ち、毛詵を斬った。李猛は書を送って降伏したが、その文意が不遜であったため、李毅は誘い出して殺した。
- 冬十一月丙戌、寧州が再び置かれ、李毅が刺史となった。
齊王冏の驕奢と専横
- 齊王冏は功を立てて以後、しだいに驕奢となり、専権を振るった。
- 大規模に邸宅を造営し、公私の家屋を多数取り壊して、その規模を西宮に等しいものとしたため、内外の失望を招いた。
- 侍中嵇紹は、帝も金墉の屈辱を忘れず、大司馬も潁上の危機を、大将軍も黄橋の敗北を忘れなければ、禍乱の芽は生じないと諫めた。さらに、唐虞の簡素や夏禹の卑宮を引き、今は邸第造営や三王のための邸宅建設に力を入れる時ではないと書を送ったが、冏は言葉の上で謝しただけで従わなかった。
- 冏は宴楽にふけって朝見を怠り、百官の拝礼を座したまま受けた。三台へは不公平な人事を命じ、寵臣を重用した。
- 殿中御史桓豹は、冏府を経ずに奏事したために糾問された。
諫言の続出
- 南陽の処士鄭方は、冏に五つの失策を挙げて諫めた。すなわち、安楽にふけって危機を忘れたこと、宗室骨肉と和していないこと、蛮夷の未平定を軽視したこと、兵乱後の民の窮乏を救っていないこと、義兵の功臣への恩賞が遅れていること、である。
- 冏は「あなたのおかげで過ちを知った」と礼を述べた。
- 孫恵もまた、天下には五つの難事と四つの長く保てぬものがあり、冏は難事を成し遂げたが、名・功・権・威は長く手に握るべきでないとして、長沙王・成都王に重きを譲って藩国へ帰るべきだと説いた。
- 曹攄も、盛大さは忌むべきであり、高位にあって危うさを思い、身を引くのが最上だと答えた。
- しかし冏は聞き入れなかった。孫恵は病を称して去った。
張翰・顧栄・庾衮らの去就
- 張翰と顧栄は禍の到来を恐れた。張翰は秋風が立つと、故郷の菰菜・蓴羹・鱸魚膾を思って、「人生は志に適うことが貴い。富貴に何の意味があるか」と言って官を辞して去った。
- 顧栄も故意に酒にふけって府務を見ず、長史葛旟の奏により中書侍郎へ移された。
- 潁川の処士庾衮は、冏が一年も朝見しないと聞いて晋室の衰えを嘆き、妻子を率いて林慮山中へ逃れた。
王豹の上書と死
- 王豹は冏に書を送り、元康以来、宰相で全身を保った者はいないと述べたうえで、河間王顒は関中、成都王頴は旧魏の地、新野王歆は江漢に大封を受け、いずれも壮年で軍権を握って要地にあるのに、冏だけが京都で大権を専らにするのは危険だと説いた。
- さらに、周公・召公が天下を分けて王室を輔けた例にならい、頴を北州伯として鄴に、冏自身を南州伯として宛に置き、黄河を境に諸王を統べるよう提案した。
- 冏は丁重に返答したが、長沙王乂はこれを「骨肉を離間するもの」と怒り、王豹を銅駞街で打ち殺させた。
- 王豹は死に際し、自分の首を大司馬門に懸けて、兵が齊を攻めるさまを見させよと言い残した。
河間王顒の挙兵準備
- 齊王冏は、河間王顒がもと趙王倫に附いていたことを常に恨んでいた。
- 梁州刺史皇甫商は顒の長史李含と不仲で、李含は翊軍校尉に徴されていた。李含は冏府の趙驤とも隙があり、身の不安を抱いて単身で顒のもとへ走った。
- 李含は、密詔を受けて顒に冏誅殺を促すのだと偽り、成都王頴は至親で大功があり、しかも功を譲って帰藩して人望が厚い一方、齊王冏は近親でないのに専政して朝廷からも忌まれているから、長沙王乂に檄して齊王冏を討たせ、長沙王を立てて冏の罪として討てばよい、と説いた。
- 顒はこれに従い、表を上げて冏の罪状を列挙し、十万の兵を率いて成都王頴・新野王歆・范陽王虓とともに洛陽へ向かうと称した。
- そのうえで長沙王乂に、齊王冏を廃して私第へ帰し、代わって頴に輔政させよと求め、自らも李含を都督とし、張方らを率いて洛陽へ向かわせた。さらに使者を成都王頴にも送り、挙兵への同調を求めた。
- 頴は応じようとしたが、盧志がこれを諫めた。
十二月 長沙王乂と齊王冏の戦い
- 十二月丁卯、河間王顒の上表が洛陽に届くと、齊王冏は大いに恐れ、百官を集めて対策を議した。
- 王戎は、功は大きいが恩賞が労に及ばないから人心が離れたのだと述べ、今や二王の兵は防ぎ難いので、王位を保ったまま私第へ退き、権を譲って安全を求めるべきだと勧めた。
- これに対し葛旟は激怒し、賞の遅れは尚書台の責任であって冏府の責任ではない、偽書を受けてすぐに退くなど論外であり、王侯でいったん私第に退いて妻子を保てた例はない、と主張した。百官は震え上がり、王戎は仮病で席を外して難を免れた。
- 李含は陰盤に、張方は二万を率いて新安に屯した。
- 顒は長沙王乂へ檄を送り、齊王冏を討たせようとした。これに対し冏は董艾を送って先手を打たせた。
- 長沙王乂は側近百余人を率いて馳せて宮中に入り、諸門を閉ざして天子を奉じ、大司馬府を攻めた。
- 董艾は宮西に兵を布き、千秋門・神武門に火を放った。冏は騶虞幡を持つ使者に「長沙王乂が詔を偽った」と唱えさせ、乂もまた「大司馬が謀反した」と称した。
- 城内では三日にわたる激戦となり、矢は雨のように降り、炎は天を焦がした。帝は上東門へ避難したが、矢は御前にまで飛び、群臣の死体は折り重なった。
- やがて冏軍は大敗し、長史趙淵が何勗を殺して冏を捕え、長沙王乂に降った。
- 冏が殿前に引き出されると、帝は不憫に思って助命しようとしたが、乂は左右を叱って急ぎ引き出させ、閶闔門外で斬った。
- その首は六軍に示され、同党は三族まで誅された。死者は二千余人に及んだ。
- 冏の子の超・氷・英は金墉城に幽閉され、弟の北海王寔は廃された。
- 天下に大赦が行われ、太安と改元された。
冏死後の朝廷と北方情勢
- 李含らは冏の死を聞くと兵を引いて長安へ帰った。
- 長沙王乂は朝廷にあったが、政務の大小はなお鄴の成都王頴に諮られていた。
- 頴は孫恵を参軍、陸雲を右司馬とした。
- この年、魏の旧帝である陳留王が薨じ、諡して魏元皇帝とされた。
鮮卑慕容部と宇文部の戦い
- 鮮卑宇文単于の莫圭の部衆は強盛となり、その弟屈雲に慕容廆を攻めさせた。
- 慕容廆は別帥の素怒延を破ったが、素怒延はこれを恥じて十万の兵を集め、棘城を包囲した。
- 衆は恐れたが、慕容廆は、敵は多くても法制がなく、勝算はあると述べて自ら出撃し、大破した。百里にわたって追撃し、俘斬は万単位に達した。
- かつて宇文部に没していた遼東の孟暉は、数千家を率いて慕容廆に降り、建威将軍に任じられた。
- 慕容廆は、慕輿句に府庫を掌らせた。句は計数に長け、帳簿を逐一照合しなくても誤りがなかった。
- また慕輿河に獄訟をつかさどらせた。河は明敏で審理が正確であり、再審や取り調べも公正であった。