資治通鑑晉紀四 孝惠皇帝上之上 元康 元年 291年
改元と賈后の旧悪
- 春正月、乙酉朔に改元して永平としたが、これは楊駿政権下で行われたもので、のちに楊駿誅殺後、元康へ改められる。
- 賈后は太子妃であったころから嫉妬深く、手にかけた人もおり、戟を妊娠中の側室に投げつけて胎児を流させたこともあった。武帝は激怒して金墉城を修し、廃そうとしたが、荀朂・馮紞・楊珧・趙粲らが擁護し、さらに楊皇后も賈充の功を理由に助けたため、廃立は見送られた。
- 楊皇后はたびたび賈妃を戒めたが、賈妃は恩を知らず、かえって皇后が自分を武帝に讒言したのだと逆恨みしていた。
賈后、楊駿誅滅を計る
- 惠帝即位後、賈后は太后に婦礼を尽くさず、政事にも干渉しようとしたが、太傅楊駿に抑えられていた。
- 殿中中郎の孟観・李肇も楊駿に礼遇されておらず、ひそかに楊駿が社稷を危うくするとの世論を作った。黄門董猛はもと東宮に仕える宦官で、賈后は彼を通じて孟観・李肇と楊駿誅殺と太后廃黜を密議した。
- 李肇は汝南王亮に兵を挙げて楊駿を討つよう働きかけたが、亮は応じなかった。楚王瑋は喜んでこれに応じ、入朝を求めたので、楊駿もその勇を憚りつつ許した。二月、瑋と淮南王允が入朝した。
三月、楊駿の滅亡
- 三月辛卯、孟観・李肇が夜に帝に奏し、楊駿に謀反の罪を着せる詔を作らせた。中外に戒厳を敷き、使者が詔をもって楊駿を侯爵のまま罷免し、東安公繇に殿中兵四百を率いさせて討たせた。楚王瑋は司馬門に屯した。
- 段広は帝の前にひざまずき、楊駿は孤立した外戚で子もなく、反逆する理由がないと弁じたが、帝は答えなかった。
- 楊駿は異変を聞いて官人を集めた。主簿朱振は、賈后に与した宦官の策だろう、雲龍門を焼いて脅し、皇太子を奉じて宮中に入り、首謀者を差し出させるべきだと勧めたが、楊駿は臆病で決断できず、雲龍門は魏明帝の造営した大工事だから焼けないなどと言った。
- 傅祗は尚書武茂とともに宮中の情勢を見ようとし、宮中を空にすべきでないと言って群僚を促したが、人々は逃げ散った。
- 左軍将軍劉豫は門に兵を並べていたが、裴頠が太傅はすでに西から出たとだまして廷尉へ行かせ、兵を放棄させた。ほどなく裴頠が左軍を代領して万春門を守った。
- 皇太后は帛に自ら書をしたためて城外へ射出し、太傅を救う者には賞を与えると告げた。賈后はこれを利用して、太后も楊駿と同じく謀反に加わったと言いふらした。
- 殿中兵は楊駿の府第に放火し、楼上の弩兵が射撃して兵を出させず、楊駿は馬厩に逃げ込んで殺された。
- 孟観らは、楊珧・楊済・張劭・李斌・段広・劉豫・武茂・楊邈・蔣俊・文鴦らを捕らえ、一族もろとも誅した。死者は数千人に及んだ。
- 楊珧は処刑前、石函の表文のことを東安公繇に告げて張華に問うよう求めた。人々は鍾毓の先例に照らして情状酌量があるべきだと見たが、繇は聞かず、賈氏の一党も処刑を急がせた。珧が泣き叫ぶと、刑吏は刀でその頭を裂いた。
- 東安公繇は諸葛誕の外孫で、文鴦を楊駿党とみなして誅したが、胡注は私怨を含んでいたとみる。
- この夜の誅賞はすべて繇の手から出て、その威権は内外を震わせた。王戎が権勢から距離を置くよう忠告したが、繇は従わなかった。
太后廃黜
- 壬辰、天下を赦し、改元して元康とした。
- 賈后は偽詔を出し、荀悝に皇太后を永寧宮へ移送させた。太后の母の龐氏だけは特別に命を助け、太后のそばに居ることを許した。
- まもなく群公百官に示唆して、皇太后は長く姦謀を育て、飛箭に書を結びつけて兵を募り、社稷を危うくしたと上奏させた。帝は重大事なので再考せよと返したが、有司はさらに、太后を峻陽庶人とすべきだと奏した。
- 張華は、太后は先帝に対する罪人ではなく、自らの親族に党したために当代の母たりえなくなったのだから、漢の趙太后の例にならい、皇太后号を奪って武皇后と称し、別宮に居らせて始終の恩を全うすべきだと主張した。
- これに対し荀愷・下邳王晃らは、太后は社稷を危うくした以上、もはや先帝に配すべきでなく、尊号を奪って金墉城に廃すべきだと論じた。結局この議が採用され、太后は庶人として金墉城に移された。
- また楊駿家属は誅すべしと奏され、いったん龐氏だけは太后慰撫のため助命されたが、太后廃後に再び処刑が求められた。帝は許さなかったが、有司が固く請い、ついに許可された。龐氏が刑に処される際、太后は抱きついて泣き叫び、髪を切り額を地につけて賈后に助命を願ったが、省みられなかった。
- 隠者董養は太学に現れ、父母殺害は大赦でも許されぬ大罪なのに、公卿が礼典を飾り立てて母を廃する議をしたのは、天理人倫の滅亡であり大乱の前兆だと嘆いた。
- 楊駿の官属も一括誅殺されそうになったが、傅祗が魯芝の先例を引いて不可とし、詔により赦された。
新体制と賞罰の濫用
- 壬寅、汝南王亮を太宰、衛瓘を太保として、ともに録尚書事とし輔政にあたらせた。秦王柬を大将軍、東平王楙を撫軍大将軍、楚王瑋を衛将軍兼北軍中候、下邳王晃を尚書令、東安公繇を尚書左僕射とし、繇には王爵を加えた。
- 董猛は武安侯に封じられ、兄三人も亭侯とされた。
- 汝南王亮は人心を得ようとして、楊駿誅殺の功臣を広く論功行賞し、督将・侯に封ぜられた者は千八十一人にのぼった。傅咸は、無功で賞を得れば人々は国家に災いの起こることを喜ぶようになり、禍の源は尽きないと書き送った。
- さらに傅咸は、亮がしだいに権勢を専らにし、門前には車馬があふれ、夏侯駿のような無功の姻戚まで少府に抜擢していると諫めたが、亮は従わなかった。
賈氏・楚王瑋・東安王繇の角逐
- 賈后の一族では、族兄の賈模、従舅の郭彰、外甥の賈謐らが楚王瑋・東安王繇とともに国政にあずかった。賈后は日に日に暴戻となり、繇は密かに賈后廃立を図った。
- 繇の兄の東武公澹は繇を憎み、しばしば太宰亮に、繇が賞罰を専断して朝政を擅にしようとしていると讒言した。庚戌、繇は免官され、悖言ありとして帯方へ流された。
- これ以後、賈謐・郭彰の権勢はいよいよ盛んになり、門下には賓客が満ちた。賈謐は驕奢ではあったが学問を好み、士大夫を招いたため、石崇・陸機・潘岳・左思・劉琨ら多くの名士が集まり、「二十四友」と呼ばれた。
- とくに石崇と潘岳は賈謐に媚びへつらい、賈謐やその母広城君郭槐が出ると、道の左で車を下り、塵を望んで拝した。
亮・瓘と楚王瑋の対立、そして二公誅殺
- 太宰亮と太保瓘は、楚王瑋が剛愎で殺戮を好むのを憎み、兵権を奪って裴楷に北軍中候を代わらせようとした。瑋は怒り、楷も恐れて拝受しなかった。
- 亮と瓘はさらに瑋を諸王の国へ出そうとしたため、瑋はますます怨んだ。
- 瑋の長史公孫宏と舎人岐盛は賈后と結ぶよう勧め、賈后は瑋を留めて太子少傅とした。岐盛は以前楊駿に親しかったため衛瓘に嫌われ、収捕されそうになったので、公孫宏や積弩将軍李肇とともに、亮と瓘が廃立を企んでいると賈后に讒言した。
- 賈后はもともと衛瓘を恨み、また二公が政権を握るため自分が専断できないのを患っていた。夏六月、賈后は帝に手詔を書かせ、太宰・太保は伊尹・霍光のように振る舞おうとしているので、瑋は詔を宣布し、淮南・長沙・成都の諸王を諸宮門に屯させ、亮と瓘を免官せよと命じた。
- 夜、黄門が密かに詔を瑋へ届けた。瑋は正式に奏上しようとしたが、黄門は漏洩を恐れてそれを止めた。瑋も私怨を晴らしたい思いがあり、自軍と三十六軍を動員し、二公が不軌を図ると告げて外営兵を招集した。また亮・瓘の官属には何の罪も問わぬと称して解散を命じ、従わねば軍法で処すると脅した。
- 公孫宏・李肇は兵で亮の府を囲み、侍中の清河王遐が衛瓘を収捕した。亮配下の李龍や長史劉準は抗戦を勧めたが、亮は聞かず、ついに捕らえられ、世子矩とともに死んだ。亮は自分の赤心を天下に示してほしいと嘆いた。
- 衛瓘側でも拒戦論が出たが、瓘はこれを許さなかった。かつて司空時代に罪を得て追放された帳下督の栄晦が、このとき王遐に従って瓘を収捕し、そのまま瓘と子孫あわせて九人を殺した。王遐には止められなかった。
楚王瑋の失脚
- 岐盛は瑋に、兵勢に乗じて賈氏・郭氏まで誅し、王室を正すべきだと説いたが、瑋は決断できなかった。
- 夜が明けるころ、張華は董猛を通じて賈后に、楚王が二公を誅した以上、天下の威権はすべて彼に帰する、人主はどうして安んじていられようか、瑋の専殺を罪として誅すべきだと説いた。賈后もまた、この機に瑋を除きたいと考え、これに同意した。
- 朝廷内外は騒然として方針が定まらなかったが、張華は帝に奏し、殿中将軍王宮に騶虞幡を持たせて出し、楚王は偽詔を用いているので従うなと衆兵に命じさせた。兵は皆武器を捨てて散り、瑋の左右には一人も残らなかった。
- 瑋は窮して捕らえられ、廷尉に下され、乙丑に斬られた。懐中の青紙詔を取り出して、先帝の子としてこのような冤罪を受けるのかと泣いて劉頌に示した。公孫宏・岐盛も一族ごと誅された。
- 隴西王泰は一時瑋を助けようと兵を整えたが、祭酒丁綏が、夜の急変で事情が明らかでないうちに宰相が軽挙すべきではないと諫めたため、動かなかった。
- 衛瓘の娘は国人に書を送り、父の名誉回復がなされないのは春秋の義に反すると訴えた。これを受け、太保主簿劉繇らが黄幡を掲げて登聞鼓を打ち、当初の詔は免官のみを命じていたのに、栄晦が勝手に一族を斬ったのだとして調査を請うた。そこで栄晦は族誅され、亮の爵位は追復されて文成と諡され、衛瓘も蘭陵郡公に封じ直され、成と諡された。
賈后専朝と張華らの補佐
- こうして賈后が専朝するようになり、賈模を散騎常侍・侍中とし、賈謐とともに張華を起用することを相談した。張華は庶姓で帝に逼る恐れがなく、儒雅で籌略があり、衆望もあったため、裴頠の賛同も得て、侍中・中書監とされた。裴頠も侍中となり、裴楷は中書令・侍中、王戎は右僕射として機要を管した。
- 張華は帝室に忠を尽くし、欠漏を補った。賈后は凶険であったが張華を敬い、賈模・裴頠も同心で政務を支えたため、この数年間は暗君が上にあっても、朝野はおおむね安静を保った。
地方制度と年内の人事
- 秋七月、荊州・揚州から十郡を分けて江州を置いた。
- 八月、隴西王泰の世子越を東海王に立てた。
- 九月、秦王柬が死去した。
- 辛丑、征西大将軍の梁王彤を衛将軍・録尚書事として召した。