春正月 劉毅死去
王渾・王済父子
- 戊辰、王渾を尚書左僕射とした。
- 王渾の子・王済を侍中とした。
- 王渾の配下の主者に不適切な処置があると、王済は法に照らしてこれを正した。
- しかし従兄の王佑は以前から王済と不和で、父に対して寛容でないと帝に讒言した。
- 帝はこれによって王済を疎んじ、のちに事件に連座させて免官した。
王済と武帝の応酬
- 王済は気性が豪奢であった。
- 帝は侍中の和嶠に、「王済を叱りつけてから任官したいがどうか」と相談した。
- 和嶠は「王済は俊爽で、屈服させるのは難しい」と答えた。
- 帝が王済を呼んで厳しく責め、「恥を知ったか」と問うと、王済は「尺布斗粟の歌については陛下こそ恥ずべきです」と答えた。
- さらに、「他人は親しい者を疎遠にすることができるが、臣は親しい者を親しいままに保てなかった。そのことを陛下に対して恥じます」と言った。
- 帝は黙然とした。
旱害と日食
- 青州・梁州・幽州・冀州で旱があった。
- 秋八月丙戌朔、日食があった。
冬十二月 王濬死去
慕容廆の復位と遼西侵攻
- この年、慕容刪が部下に殺され、部衆はふたたび渉帰の子・慕容廆を迎えて立てた。
- 渉帰以来、慕容部は宇文部と不和であった。
- 廆は宇文討伐を請うたが、朝廷は許さなかった。
- 廆は怒って遼西へ侵入し、多くの人を殺掠した。
- 帝は幽州軍を遣わして討たせ、肥如で戦った。廆は大敗した。
- しかしその後も毎年辺境を犯すようになった。
- また東へ進んで扶余を攻め、扶余王の依慮は自殺し、子弟は沃沮へ逃れた。廆はその国都を破壊し、一万人余りを連れ去って帰った。