春正月 山濤死去と斉王攸問題の再燃
- 甲申、尚書右僕射の魏舒を左僕射、下邳王晃を右僕射とした。
- 戊午、新沓康伯の山濤が死んだ。
博士ら、斉王攸の外任に反対
- 帝は斉王攸に与える加礼の物を太常に議させた。
- 博士の庾旉・太叔広・劉暾・繆蔚・郭頤・秦秀・傅珍は上表し、周代には周公・康叔・耼季のような王室の重臣が朝廷にあって三公を務めたのであり、守地よりも股肱として近侍する任のほうが重いと論じた。
- 漢の諸侯王でも朝政参与には兼官があり、外任の際に三公の虚名を加えるようなことはなかったとして、今の措置は古制にもかなわず、斉王を遠ざけるのは失策だと述べた。
- 庾旉は草案を父の庾純に見せ、庾純は止めなかった。
- 太常の鄭黙、博士祭酒の曹志もこれに同調し、曹志は、同姓・異姓の名臣を朝廷に置いてこそ王室は長く保てるのであり、博士らの議のとおりにすべきだと上奏した。
帝、激怒して処罰
- 帝は曹志の奏を見て激怒し、「曹志ですら自分の心を理解しないのだから、まして天下はどうか」と言った。
- また、博士らは問われた加礼の細目に答えず、王の外任是非という問われていないことを論じたと非難した。
- 有司に命じて鄭黙を策免し、曹志を公の位から退かせ、そのほかの博士らも廷尉に付して罪を論じようとした。
- 庾純が廷尉に出頭して、庾旉の草案を見て軽率に許したと自首したので、庾純は免罪された。
- 廷尉の劉頌は庾旉らを大不敬で棄市に当たると上奏し、尚書も裁可を請うた。
- しかし尚書の夏侯駿、左僕射の下邳王晃は反対し、帝も七日留め置いたのち、庾旉を主犯として本来は極刑だが、家人の自首を考慮して、庾旉ら七人を死一等減じ、除名とした。
二月 斉王攸、正式に青州へ
- 詔して済南郡を斉国に加えた。
- 己丑、斉王攸の子・司馬寔を北海王に立てた。
- また斉王攸に対し、諸侯としては破格の車服・典策を備えさせ、軒県の楽、六佾の舞、黄鉞、朝車、乗輿の副車まで従わせた。
三月 日食と斉王攸の死
- 辛丑朔、日食があった。
- 斉王攸は憤りで病を発し、先后の陵を守らせてほしいと願ったが、帝は許さなかった。
- 御医を遣わして診察させたが、医者たちは帝の意をおもんぱかり、皆「病ではない」と言った。
- 河南尹の向雄は、帝の子弟は多いが徳望ある者は少なく、斉王が京師にいる利益は大きいのだから、よく考えるべきだと諫めたが、帝は聞かなかった。向雄は憤って死んだ。
- 攸の病は重くなったが、帝はなお出発を急がせた。
- 攸は無理をおして入朝し辞去した。もとより容儀を正す人だったので、病みながらも姿勢や挙措を整え、帝はいよいよ仮病を疑った。
- 辞去後まもなく、攸は吐血して死んだ。
- 帝は弔問に赴いた。攸の子・司馬冏は号泣し、父の病を医師が偽って軽く報告したと訴えたので、帝は医師を誅した。
- 冏を嗣子とした。
- 帝はもともと攸を深く愛していたが、荀朂・馮紞らに動かされ、身後の備えとして外へ出したのであった。攸が死ぬと深く哀しんだが、馮紞は「名が実を過ぎ、天下の望みが集まっていた人物が死んだのは社稷の福だ」と言い、帝は涙を収めた。
- 攸の葬礼は安平献王の故事によることとした。
- 攸は礼をもって身を律し、目立つ失態はほとんどなかった。帝でさえ敬い畏れ、同席するときは言葉を選んだという。
夏五月 琅邪王伷死去
冬十一月 魏舒を司徒に
各地の水害
孫皓死去・慕容部の内紛
- 帰命侯の孫皓が死んだ。
- この年、鮮卑の慕容渉帰が死に、弟の刪が位を奪って立った。
- 刪は渉帰の子の慕容廆を殺そうとしたが、廆は逃れて遼東の徐郁の家に匿われた。