春三月 奢侈と後宮の拡大
- 詔して孫皓の宮人五千人を宮中に入れた。
- 帝は呉平定後、しだいに遊宴を好み、政務に怠りが見えはじめた。
- 後宮はほとんど一万人に達し、しばしば羊車に乗って気の向くまま宮中を回り、行き着いたところで宴や就寝をした。
- 宮人たちは帝を自分の部屋へ引こうとして、門に竹葉を挿し、地に塩汁をまいて羊を誘った。
三楊の専横と山濤の諫め
- 皇后の父楊駿、弟の楊珧・楊済が政界で力を持ち、内外の請託に通じて権勢を振るった。人々はこれを「三楊」と呼んだ。
- 旧臣の多くはしだいに疎んじられた。
- 山濤はたびたび帝を諫めたが、帝はその誤りを知りつつ改めることができなかった。
鮮卑慕容部の由来
- 鮮卑の莫護跋は、はじめ塞外から入って遼西の棘城北に住み、これが慕容部の起こりとされた。
- その後、木延、渉帰へと続き、代々中国に服属して征討に功があり、渉帰は大単于に任じられていた。
冬十月 慕容渉帰、昌黎を寇す
十一月 陳騫死去
揚州刺史の移鎮
- この年、揚州刺史の周浚は秣陵へ移って鎮した。
- 呉の民でまだ服していない者がたびたび乱を起こしたが、周浚はこれを平定した。
- また、故老を礼遇し、俊才を捜し求め、威と恩を併用したので、呉人は喜んで服した。