春正月 呉軍の渦口侵入
- 呉の丁奉が渦口へ侵入したが、揚州刺史牽弘がこれを撃退した。
- 万彧は巴丘から建業に戻った。
夏四月 施績の死と陸抗の就任
- 呉の左大司馬施績が死んだ。
- 鎮軍大将軍陸抗が、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の諸軍を都督し、楽郷に治所を置いた。
- 楽郷は江津の要害であり、陸抗の重要拠点となる地であった。
陸抗の十七条上疏
- 陸抗は、国力が同じなら多い方が勝ち、力が等しければ安定した国が危うい国を制するとして、現在の呉は晋に比べて領土・民力・外援のいずれも劣るのに、ただ長江と山岳を頼みにしているだけだと論じた。
- そして、政治は衰え、民も治まらない現状を憂え、時宜に関する十七条を上奏したが、呉主は受け入れなかった。
交趾遠征の失敗と何定の専横
- 建安道を進んだ李勗は道が不利だとして、先導した馮斐を殺し軍を引き返した。
- これに対し何定は、以前に息子の婚姻を李勗に断られた恨みもあって、勗が不当に馮斐を殺し勝手に撤兵したと呉主に訴えた。
- 呉主は李勗・徐存とその家族を誅し、死体まで焼かせた。
- さらに何定は諸将に競って良犬を献上させ、一匹が高価な縑数十匹・纓紲一万銭にも及ぶほどで、兎狩りと料理のために浪費させた。
- 人々はこれを何定の罪と見たが、呉主はかえって忠勤とみなし、列侯に封じた。
- 陸抗は、小人は道理に暗く、見識も浅い。たとえ忠節を尽くしても大任に足りず、まして奸心の深い者は憎愛次第で判断を変えるものだとして、何定を重用すべきでないと上疏したが、やはり聞かれなかった。
六月 胡烈戦死と西方の混乱
- 六月、胡烈は鮮卑秃髪樹機能を万斛堆で討ったが、敗れて殺された。
- 樹機能の母が被中で彼を産んだため、鮮卑語で被を意味する「秃髪」を氏としたと伝えられる。後の南涼秃髪氏はその後裔である。
- 都督雍涼州諸軍事の扶風王司馬亮は、将軍劉旂を救援に送ったが、劉旂は様子見をして進まず、司馬亮はこの責任で平西将軍に貶された。
- 劉旂は本来斬罪であったが、司馬亮が自分の節度の失敗から出たことだとして助命を願い、武帝はこれを許した。
- 尚書石鑑を安西将軍・都督秦州諸軍事として派遣したが、樹機能の勢いは強く、石鑑は杜預に出兵を命じた。
- 杜預は、賊軍は勝って馬が肥え、官軍は輸送が懸絶しているから、まず糧秣を大規模輸送し、春を待って進討すべきだと論じた。
- だが石鑑はこれを軍務遅滞として弾劾し、杜預を檻車で廷尉へ送った。杜預は尚主の恩典により侯として贖論にとどまった。
- それでも石鑑自身も樹機能を討ち破ることはできなかった。
秋七月―冬十一月 諸王の封建と孫秀の亡命
- 七月、城陽王孫景度が死去した。
- 汝陰王司馬駿を鎮西大将軍・都督雍涼等州諸軍事として関中に鎮させた。
- 十一月、皇子司馬東を汝南王に立てた。
- 呉主の従弟である前将軍孫秀は夏口督であったが、呉主は彼を嫌い、世間でもやがて害されるだろうと噂していた。
- 何定が兵五千を率いて夏口へ狩猟に来たため、孫秀は危険を悟り、夜のうちに妻子と親兵数百を連れて晋へ亡命した。
- 十二月、晋は孫秀を驃騎将軍・開府儀同三司とし、会稽公に封じた。呉人離間の意図を含む厚遇であった。
南匈奴の姓
- この年、並州諸郡に居住していた南匈奴五部は、漢皇室の外孫を自称し、姓を劉と改めていた。