春正月 新律令の上呈
- 正月、賈充らが改訂した律令を上奏した。漢律九章をもとに十一篇を増し、二十篇六百二十条とし、律に入れない部分は令として施行し、全体では二千九百二十六条に及んだ。
- 武帝は自ら講義を行い、尚書郎裴楷に朗読させた。裴楷は裴秀の従弟である。
- 侍中盧珽・中書侍郎張華の請により、新律の死刑条項を書き抜いて亭伝に掲げ、民に示すことにもなった。
杜預の考課法案
- 武帝は河南尹杜預に官吏考課制度を立案させた。
- 杜預は、古の黜陟は人を見て心で判断するもので、法文に泥むものではなかったと論じた。後世になるほど細目は増えたが、かえって官吏の偽りを招く、と批判した。
- そして、達官にその統属官の優劣を毎年評させ、六年ごとに総合して、常に優なら超擢、常に劣なら罷免、多少の差は平叙や左遷で処理し、評価が私情に流れた場合は監司が弾劾する方式を提案した。
- しかし結局、この制度は実施されなかった。
藉田と大赦
- 丁亥、武帝は洛水北で藉田を親耕した。
- 翌戊子、大赦を行った。
二月―三月 呉の三公任命と王太后の死
- 呉では丁固を司徒、孟仁を司空とした。
- 三月、皇太后王氏が亡くなった。
- 武帝はその喪礼についても古礼にほぼ従った。
夏四月―七月 王祥の死と武帝の母喪
- 睢陵元公王祥が死去した。
- その家には雑然とした弔問客はなく、族孫の王戎は、王祥は正始年間の清談名士とは異なるが、実際に語れば理致は清遠であり、徳が言をおおっていたのではないかと歎じた。
- 文明皇后が葬られると、有司は虞祭ののちに除服すべきと奏した。
- しかし武帝は、生涯の愛を受けながら数年の報いも尽くせぬのは情として忍びないとし、前代の近制に一律に限る必要はないとして抵抗した。
- 群臣の再三の請にやむなく一定の形式は許したものの、なお素冠・疏食を三年続け、文帝の喪のときと同様であった。
秋七月―九月 天変と水害
- 七月、群星が西へ流れ、雨のように降って落ちた。
- 九月、青州・徐州・兗州・豫州の四州で大水があった。
石苞失脚
- 石苞は長く淮南にあって威恵を著していた。魏甘露三年以来、十一年にわたる鎮撫であった。
- ところが淮北監軍王琛はこれを憎み、ひそかに呉人と通じていると上表した。
- 呉軍の侵入があると、石苞は塁を築き水をせき止めて固めたが、武帝はこれを疑い、羊祜が「石苞がそのようなことをするはずはない」と弁護しても信じなかった。
- 武帝は、賊勢を見誤って堤を築き百姓を煩わせたとして石苞を策免した。
- 義陽王司馬望に大軍を率いさせて石苞を召還させたが、孫鑠が先に寿春へ走り、兵を放して徒歩で都亭へ出て罪を待つよう勧め、石苞もそれに従った。
- 武帝はこれを聞いて怒りを解き、石苞が朝廷へ来ると、楽陵公として帰第させた。
冬十月―十一月 呉の北辺攻勢
- 呉主は東関へ出て、十月には施績を江夏に侵入させ、万彧に襄陽を寇掠させた。
- 晋では義陽王司馬望に中軍歩騎二万・騎兵三千を率いさせ、龍陂に屯して東西両方面の後援とした。
- まもなく荆州刺史胡烈が施績を破ったので、司馬望は引き揚げた。
- 交州方面では、呉の交州刺史劉俊・大都督修則・将軍顧容らが前後三度交趾を攻めたが、交趾太守楊稷にいずれも防がれた。
- 鬱林・九真も楊稷に従い、楊稷は毛炅・董元を派遣して合浦の古城で呉軍を大破し、劉俊・修則を戦死させた。
- その功で毛炅を鬱林太守、董元を九真太守とした。
- 十一月、呉の丁奉・諸葛靚が芍陂から合肥を攻めたが、安東将軍汝陰王司馬駿に撃退された。
- 晋では司馬望を大司馬、荀顗を太尉、石苞を司徒とした。