春正月 晋の廟制と皇后冊立
- 魏の廟をそのまま用い、征西府君以下と景帝を合わせて七室を祀った。
- 景帝夫人の羊氏を景皇后と尊び、弘訓宮に住まわせた。
- 楊弘農氏を皇后に立てた。彼女は魏の通事郎楊文宗の娘である。
郊祀制度の整理
- 群臣は、五帝とは実質的に天帝の異名であり、王気の変化に応じて名が五つあるにすぎないと論じ、明堂・南郊から五帝座を除くよう上奏した。
- 武帝は王粛の外孫であり、郊祀礼について多く王粛説を採用していたため、この議を容れた。
二月―三月 漢宗室解禁と呉使の来朝
- 漢宗室に対する禁錮も解除された。
- 呉は大鴻臚張儼・五官中郎将丁忠を、司馬昭の喪を弔う使者として送った。
呉の政変 王蕃の死と対晋断交
- 呉の散騎常侍王蕃は気概が高く、呉主に迎合しなかったため、万彧・陳声らに讒言された。
- 丁忠の帰還後、呉主は宴席で酔って伏した王蕃を仮病と疑い、いったん殿外へ出したうえで呼び戻した。王蕃が平然と礼儀を整えて進み出ると、呉主は怒ってその場で斬らせた。
- 呉主はさらに登来山にのぼり、王蕃の首を投げさせ、虎に争わせたという。
- 丁忠は北方には守備の備えがなく、弋陽を奇襲すべきだと進言した。
- これに対し鎮西大将軍陸凱は、晋が巴蜀を併合したばかりで和を求めるのは援軍を欲しているためではなく、力を蓄えて時機を待つためだ、いま強敵に対して幸運頼みの攻勢をとる利はないと反対した。
- 呉主は出兵こそしなかったが、晋との国交を断った。陸凱は陸遜の一族である。
五月―六月 王沈の死と武帝の服喪
- 五月、博陵元公王沈が死去した。
- 六月晦日、日食があった。
- 文帝司馬昭の喪では、臣民は仮の制度に従い三日で除服し、葬儀後には武帝も形式上は除服したが、なお白い冠をつけ粗食を守り、実際には喪中のように深く悲しみ続けた。
秋八月 崇陽陵参拝をめぐる議論
- 武帝は崇陽陵へ参拝しようとしたが、群臣は秋の暑さと悲傷による身体の損傷を心配した。
- 武帝は、漢文帝の遺詔は天下の者に過度の哀傷を強いない謙譲の心からであり、自分が山陵を前にして無服でいられるはずがないとして、衰絰を着けて行くことを望んだ。
- しかし尚書令裴秀らは、いったん除服してから改めて喪服を着るのは典拠がないし、君だけが服して臣が服さないのも不安だと述べた。
- 武帝は、要は哀慕の情があるかどうかであって衣服の形ではないと言ったが、結局は群臣の意見に従って取りやめた。
- 羊祜は傅玄に対し、天子であっても三年喪を尽くすのが礼であり、武帝の孝心に従って古礼を復活させる好機ではないかと語った。
- これに対し傅玄は、日を月に代える短喪制度はすでに長く続いており、いま一挙に復古するのは難しいと答えた。
三年喪の実行
- 戊辰、群臣は服色を改めて食事も常に戻すよう奏請した。
- 武帝は、父の深い恩に対し、苴絰の礼を最後まで尽くせないこと自体が痛切であり、そこで稲を食い錦を着るなど到底できない、孔子が宰我に答えた三年喪の意義を思うべきだとして拒絶した。
- こうして武帝は、粗末な服と食事を保って三年を終えた。
- 司馬光は、三年喪は天子から庶人まで共通の古礼であり、漢文帝以来の短喪は父子・君臣の義を損ねたものだとし、晋武帝のみが天性の孝をもってこれを正した点を高く評価している。
呉の改元と武昌遷都の弊害
- 呉は宝鼎と改元し、陸凱を左丞相、万彧を右丞相とした。
- 呉主は他人が自分を見つめることを嫌っており、群臣は目を上げられなかったが、陸凱は「非常時に君臣が顔も知らぬようでは困る」と諫め、自分だけは見ることを許された。
- 呉主が武昌に居たため、揚州の民は上流へ物資を運ぶ負担に苦しみ、また宮廷の奢侈で公私ともに窮乏した。
- 陸凱は上疏して、いまは民を養い財を蓄えるべき時であるのに、奢欲に耽れば民命も国家財政も尽きると警告した。
- また武昌は地勢が険しく土地も痩せ、王都に適さず、建業帰還を望む童謡まであると述べた。
- さらに、後宮の女性や織造関係者が孫権時代には百にも満たなかったのに、景帝以後は千を数えるまでに増えたこと、左右近臣に忠賢が少ないことなどを挙げ、役務の削減・苛政の停止・宮女整理・官人精選を求めた。
- 呉主は不快に思ったが、陸凱の旧望を重んじて特に処罰しなかった。
九月―十一月 政治姿勢の示達と祭祀改革
- 晋では、たとえ詔勅や裁可を得ていても、事に不便があるなら隠さず諫めるよう詔した。
- さらに、晋が魏から禅譲を受けた以上、正朔・服色も前代に倣って一新すべきだとの議が出され、これが採用された。
- 十月朔、日食があった。
- 十一月、円丘と方丘の祭祀を南北郊に併せ、二至の祭場を別建てしない制度とした。
- 山陽国の督軍を廃し、漢献帝後裔への監視・禁制を除いた。
冬十月―十二月 施但の乱と呉の建業帰還
- 永安山の賊施但は、民衆の労役への怨みにつけ込み、呉主の異母弟である永安侯孫謙をかついで反乱を起こした。数千人で挙兵し、建業近くまで進んで一万人余にふくれあがった。
- 施但は吉日を選んで入城しようとし、孫謙の命として丁固・諸葛靚を召したが、両者は使者を斬って牛屯で迎撃した。施但軍は甲冑もなく、たちまち潰走した。
- 孫謙は生け捕られ、呉主は彼とその母、弟の孫俊を皆殺しにした。
- もともと荆州に王気があるので揚州を破る、との占いで武昌遷都が行われたが、施但の反乱後、呉主はかえって自分の判断が当たったと思い込み、「天子が荆州兵を送って揚州の賊を破った」と喧伝させた。
- 十二月、呉主は建業へ還都した。
- 衛将軍で外戚の滕牧を武昌に留めて鎮守させたが、朝士が彼に諫争を期待したため、滕皇后への寵愛は次第に衰えた。
- 滕牧はのち蒼梧へ移され、道中で憂死した。何太后の保護と「中宮は易えてはならぬ」とする太史・巫覡の言を呉主が信じたため、滕后は廃されなかったが、升平宮に隔離され、朝賀や上表を受けるだけの存在となった。
- 一方で諸姫が皇后の璽綬を佩びる異常な状態となり、呉主は州郡を巡らせて将吏・長官の家の娘を徴発し、十五、六歳で毎年検査にかけ、選に漏れた者だけが嫁ぐことを許された。後宮は千人単位に膨らんでも徴発はやまなかった。