春正月 日食
夏四月 司馬昭への再進命
- 四月、有司に命じて先の命令どおり、司馬昭を相国・晋公とし、九錫を加えるよう改めて進めさせた。
- 司馬昭はなお受けようとしなかった。
五月 高貴郷公の討昭計画と死
- 皇帝は日に日に威権を失うのを見て憤りを抑えられず、五月己丑、侍中王沈・尚書王経・散騎常侍王業を召して言った。
- 「司馬昭の心は道行く人にすら知られている。これ以上廃辱を座して受けることはできない。今日は卿らとともに自ら討つ」と。
- 王経は、魯昭公が季氏に耐えられず敗走して国を失い、天下の笑いものとなった故事を挙げ、今や権はすでに司馬氏の門にあり、朝廷内外の人心もこれに帰している、兵も少ない今の挙兵は病を除こうとしてかえって深めるようなものだと強く諫めた。
- 皇帝は懐中から黄素の詔を取り出して地に投げ、「決意は定まっている。たとえ死んでも恐れぬし、必ずしも死ぬとも限らぬ」と言った。
- その後、王沈と王業は走って司馬昭に告げたが、王経は従わなかった。
- 皇帝は剣を抜き、輦に乗って殿中宿衛・蒼頭・官僮を率い、鼓噪して出撃した。
- 東止車門で司馬昭の弟の屯騎校尉司馬伷に遭遇すると、左右が叱咤しただけで司馬伷の部下は逃げ散った。
- そこへ中護軍賈充が外から入って南闕下で皇帝軍に当たり、皇帝は自ら剣を振るって戦った。
- 賈充の配下である成倅の弟・成済が、賈充に「急です、どうすべきですか」と問うと、賈充は「司馬公が汝らを養ったのは今日のためだ。今日は何も問い返すな」と答えた。
- 成済は戈を取って進み、皇帝を車下に刺し殺した。皇帝は二十歳であった。
- 司馬昭は報を聞くと驚いて地に倒れた。
- 太傅司馬孚は駆けつけて帝の股を枕にして泣き、「陛下を殺したのは臣の罪です」と深く悲しんだ。
- 司馬昭は殿中に入って群臣を集めたが、尚書左僕射陳泰は来なかった。
- 司馬昭がその舅の荀顗に命じて呼び寄せると、陳泰は「世間は私を舅に比べるが、舅は私に及ばない」と言って、司馬氏に阿附する荀顗を批判した。
- 一族の強い促しで出仕すると、司馬昭は「玄伯よ、私はどうしたらよい」と問うた。
- 陳泰は「賈充を斬れば、少しは天下に謝することができる」と答えた。
- 司馬昭がさらに次善策を問うと、陳泰は「私の言うところは、それ以上に進むだけで、次など知らぬ」と言い、司馬昭はそれ以上問えなかった。
- 太后は令を下し、高貴郷公の罪を並べて庶人に落とし、民礼で葬るよう命じた。
- 王経とその家属は廷尉へ送られた。王経が母に別れを告げると、母は顔色を変えず、人は誰しも死ぬが、ただ死に場所を得られぬのが恐ろしいだけだ、今回は親子とも義のために死ねるのだから恨みはないと笑って答えた。
- 王経は処刑された。
- 旧吏の向雄は市中で王経を哭して人々を感動させた。
- 王沈はこの一件の功で安平侯に封じられた。
五月末〜六月 高貴郷公の葬礼と曹奐即位
- 庚寅、司馬孚らは高貴郷公を王礼で葬るよう上奏し、太后はこれを許した。
- 中護軍司馬炎が鄴へ赴き、燕王宇の子である常道郷公璜を迎え、明帝の後継とした。
- 辛卯、群公は今後、太后の令書を詔制と称するよう奏請した。
- 癸卯、司馬昭は相国・晋公・九錫の命を固辞し、太后もこれを許した。
- 戊申、司馬昭は、皇帝殺害の直接実行犯である成済兄弟を大逆として一族を滅ぼすよう奏上した。
- 六月癸丑、太后は常道郷公を奐と改名した。
- 甲寅、常道郷公奐が洛陽に入り、その日のうちに皇帝として即位した。十五歳であった。
- 大赦して景元と改元し直した。
- 丙辰、司馬昭に旧来どおりの爵位・九錫を進めたが、司馬昭はまた辞退した。
- 癸亥、王観が司空となった。
呉 浦里塘の工事と孫亮の末路
- 呉では都尉厳密が浦里塘の築造を提案した。場所は丹陽郡宛陵県界で、湖田造成を目的とした。
- 多くの群臣は困難だとしたが、濮陽興だけは実現可能と支持し、ついに軍民を総動員して工事が始まった。
- その負担は数え切れず、士卒の死者も多く、民は大いに怨んだ。
- 一方、会稽では「王亮が天子として戻る」との流言が立ち、孫亮の宮人が、亮が巫祝に祈祷させて不穏な言葉を発していると告げた。
- 有司がこれを報告すると、孫休は孫亮を候官侯に落として封国へ送った。
- 孫亮は自殺し、護送にあたった者たちも罪に伏した。
冬十月〜十二月 魏の人事と王沈の募言政策
- 十月、陽郷粛侯王観が死去した。
- 十一月、詔して燕王を特別礼遇するよう命じた。
- 十二月甲午、司隷校尉王祥が司空となり、王沈は豫州刺史となった。
- 王沈は着任早々、属城や士民に、長吏の善し悪しや百姓の苦情を述べた者には五百斛、刺史の得失や朝政の寛猛を論じた者には千斛の穀を与えると布告した。
- 主簿陳廞・褚䂮は、賞を恐れて言わない節士がいる一方、利を求めて妄言する者が出るので、言が採用されなければ遠近に不信を与える、と反対した。
- 王沈はなお重ねて、上に益があり下に分を受けるのは君子の操で、なぜ言わぬのかとした。
- 褚䂮はさらに、堯舜や周公が忠諫を得られたのは誠が明らかだったからであり、氷炭が黙っていても冷熱を示すように、徳が本物ならば諤諤の言は求めなくても来る、徳が足りぬのに重賞を掲げても忠諫は集まらないと論じた。
- 王沈はついにこの布告を取りやめた。
春三月 胡烈の偽降事件と王基の諫止
- 三月、襄陽太守胡烈は、呉将鄧由・李光ら十八屯がそろって魏への帰順を謀り、使者と人質を寄越してきたので、江辺まで郡兵で迎え取りたいと上表した。
- 詔は王基に命じ、諸軍を分けて沮水へ進ませ、これを迎えさせようとした。成功すれば江表を震動させる好機とみたのである。
- しかし王基は急使で司馬昭に書を送り、鄧由らの話は疑わしく、まずは事実関係を澄ませるべきで、重兵を深入りさせて応じるべきではないと説いた。
- また夷陵一帯は東西とも険しく狭く、竹木が繁茂し、伏兵を受ければ弩馬も展開できないこと、季節柄、筋角が湿って弓弩が弱く、水害も出始めていること、農繁期にあたって大軍を動かすのは危険だと論じた。
- 姜維の上邽侵攻や文欽の寿春籠城は、いずれも深入りして利益を求めた結果の失敗だと近例を引いた。
- さらに嘉平以来、内難が続く現状では、まず社稷の安定、上下の慰撫、農業の重視、百姓の懐柔こそ先で、外利を求めてはならないとした。
- 司馬昭はたび重なる王基の書に迷い、すでに出発した軍にもその場で停止を命じ、さらに指示を待たせた。
- 王基は再び、漢高祖が酈食其の策で六国再封を考えたが、張良の諫言を聞いて印綬を捨てた故事を引き、今の襄陽策もそれに似た誤りになりうると警告した。
- 司馬昭はついに出兵を中止し、王基に礼を述べた。
- ほどなくして鄧由らは実際には降ってこず、胡烈の報告が当てにならなかったことが明らかになった。
秋八月〜冬 魏・蜀・呉の動き
- 八月甲寅、司馬昭に以前と同じ爵位・九錫を再度進めたが、受けなかった。
- 十月、蜀漢では董厥が輔国大将軍、諸葛瞻が都護・衛将軍となり、ともに尚書事を平決した。
- 樊建は尚書令となった。
- この頃、黄皓が権勢をふるっていたが、董厥・諸葛瞻はこれを矯正できず、多くの士大夫が黄皓に阿附した。
- ただ尚書令樊建だけは黄皓と往来しなかった。
- 秘書令郤正は長年宮中にあり、黄皓と隣家のような近さで三十余年を過ごしたが、淡泊に身を守って書物を友としたため、愛されも憎まれもせず、六百石の秘書令のまま禍を免れた。
- 漢主の弟である甘陵王永は黄皓を憎み、黄皓に讒言されて十年朝見を禁じられた。
- 呉主は五官中郎将薛珝を蜀へ使者に送った。
- 帰国後、呉主が蜀の政治を問うと、薛珝は、君主は暗く過失を知らず、臣下は保身に走って直言せず、野の民は飢えて顔色が悪い、燕雀が火災を知らずに屋梁の下で安楽にしているようなものだと答えた。
- 胡三省は、薛珝は蜀の滅亡の兆しを見抜いていたが、同時に呉でも濮陽興・張布の専権や民怨が深かったのだから、これをどう見ていたのかと含みを持たせる。
北辺 拓跋部の南遷
- この年、鮮卑索頭部の大人拓跋力微が、子の沙漠汗を魏へ入貢させ、そのまま人質として留めた。
- 力微の祖先は北荒にいて中国と交わらなかったが、可汗毛の代に強大となり、三十六国・九十九姓を統べた。
- その後数世を経て推寅の代に大沢へ南遷し、さらに鄰の代に兄弟七人と乙旃氏・車惃氏らに部衆を分掌させて十族体制を作った。
- 鄰は老いて位を子の詰汾に譲り、さらに南へ移った。
- 力微の代になって再び移動し、定襄の盛楽に居を定めた。盛楽はすでに荒廃していた旧県地である。
- 部衆は日増しに盛んとなり、諸部はみなこれを畏服した。
- 胡三省は、魏と敵対した軻比能が死んで北辺がやや安定したのち、拓跋氏がここから勢力を伸ばし、後の北魏建国の基礎となったと位置づける。