資治通鑑魏紀九 元皇帝上 景元 元年 259年

冬十月 孫休即位

  • 戊午、琅邪王孫休が曲阿に近づくと、老翁が道を遮って、事が長引けば変が生じる、天下はあなたを待っていると訴えた。
  • その日のうちに布塞亭へ進んだ。
  • 孫綝は孫休到着前に宮中へ入ろうとして百官を集めたが、皆おびえてただ言いなりになるばかりだった。
  • ただ選曹郎虞汜だけが、伊尹・周公のように振る舞うなら、まず迎える王を立ててから入宮すべきであり、先に宮へ入れば人心が揺らぐと諫めた。
  • 孫綝は不快に思ったが、その意見に従って中止した。
  • 孫綝は弟の孫恩に丞相の事務を代行させ、百官を率いて永昌亭で孫休を法駕で迎えさせた。
  • 孫恩が璽符を捧げると、孫休は三度辞退して受け、百官に導かれて乗輿に乗った。
  • 孫綝も半路で千人の兵を率いて出迎え、道ばたで拝礼し、孫休も下車して答礼した。
  • 孫休はその日のうちに正殿に御し、大赦して永安と改元した。

孫綝の権勢維持

  • 孫綝は草莽の臣と称して宮中で上書し、印綬・節鉞を返し、賢者に道を譲りたいと願った。
  • 孫休は召し出して慰撫し、逆に孫綝を丞相・荊州牧とし、封邑を五県増やした。
  • 孫恩は御史大夫・衛将軍・中軍督となり県侯に封ぜられ、孫據・孫幹・孫闓らも将軍・侯に進んだ。
  • 張布は輔義将軍・永康侯となった。張布は孫休が王だったころから近習であり、即位後ますます寵任された。

李衡の一件

  • 以前、丹陽太守李衡はたびたび琅邪王孫休を侮るような行いをした。
  • 妻の習氏はこれを諫めたが、李衡は従わず、孫休は他郡への転出を願って会稽へ移った。
  • 孫休即位後、李衡は恐れて魏へ逃げようかと妻に相談した。
  • 習氏は、君はもと庶民なのに先帝に重く取り立てられ、しかもたびたび無礼を働いたうえ、今また自分で猜疑して逃亡すれば、中国の人にどう顔向けするのかと止めた。
  • 孫休は善を好み名声を慕う人だから、私怨では殺さない、むしろ自ら獄に赴いて罪を請えば優遇されるだろうと説いた。
  • 李衡がその通りにすると、孫休は、斉桓公や晋文公が仇敵を用いた例を引き、過去の遺恨を問わず、李衡を丹陽へ戻し、威遠将軍を加え、棨戟まで授けた。

己丑 孫皓を烏程侯に封じる

  • 己丑、故南陽王孫和の子孫皓を烏程侯に封じた。

皇后・太子を立てず

  • 群臣は皇后と太子の冊立を求めたが、孫休は、自分は徳薄く即位して日も浅く、恩沢もまだ広がっていないので、后妃や嗣子は急務ではないとして許さなかった。

孫綝の失言

  • 孫綝は牛酒を捧げて孫休に拝謁したが、孫休は受け取らず、左将軍張布のもとへ持って行かせた。
  • 酒に酔った孫綝は、少主廃位の際には自分で帝位に就けという勧めも多かったが、陛下を賢明と見て迎えたのだ、自分がいなければ即位できなかったのに、今は礼で拒まれ凡臣同様に扱われる、ならばまた別の計画を立てるまでだと怨言を吐いた。
  • 張布はこれを孫休に報告した。
  • 孫休は内心で怨みつつ、変に備えて孫綝へしばしば褒賞を与えた。

孫綝の武昌出鎮要求

  • 戊戌、孫休は、大将軍の政務が多忙すぎるとして、衛将軍・御史大夫の孫恩に侍中を加え、孫綝と政務を分掌させた。これは孫綝の権限を削る措置だった。
  • ある者が、孫綝は君を侮り怨みを抱いて反逆を図っていると告げたが、孫休はその告発者を孫綝に引き渡し、孫綝はこれを殺した。
  • 孫綝はいよいよ不安になり、孟宗を通じて武昌への出鎮を願い出た。
  • 孫休はこれを許し、孫綝は中営精兵一万余を自らに従わせようとして全員に装船を命じた。
  • 兵器庫の武器も求め、孫休はすべて与えた。
  • さらに中書の郎二人を荊州諸軍事担当として同行させたいと願い、本来なら外任できないところを、孫休は特別に認めた。
  • 一見すると何一つ拒まず、孫綝を安心させた。

十二月 孫綝誅殺

  • 将軍魏邈は、孫綝を外に出せば必ず変が起こると孫休に説いた。
  • 武衛士施朔も孫綝謀反を告げた。
  • 孫休は張布に相談し、張布は、左将軍丁奉は文書仕事は得意でないが、大局判断に優れるので任せられると答えた。
  • 孫休が丁奉を召して相談すると、丁奉は、孫綝兄弟とその党は強大なので平時に討つのは難しく、臘会には殿陛に衛兵が集まるので、その機会に誅殺すべきだと進言した。
  • 十二月丁卯、建業では翌日の会に変事があるとの童謡が流れた。呉では土徳にちなみ辰日を臘としていた。
  • その夜は大風で屋が飛び、砂が舞い、孫綝はいよいよ不安になった。
  • 戊辰、臘会の日、孫綝は病気と称して出席しなかったが、孫休は十数度も使者を送って強引に呼び出した。
  • 孫綝の部下は入宮を止めたが、孫綝は、国命には背けない、ただしあらかじめ府中に火を放ち、そのどさくさで退く準備をせよと命じて出仕した。
  • ほどなく火災が起き、孫綝は退出を求めたが、孫休は、外兵は十分いるので丞相が動く必要はないと拒んだ。
  • 孫綝が席を立つと、丁奉・張布が左右に合図してその場で縛らせた。
  • 孫綝は交州流罪を願い、さらに官奴になることまで願ったが、孫休は、滕胤・呂拠を交州へ流さず奴ともしなかったではないかと言って許さなかった。
  • 孫綝はそのまま斬られ、配下には、共謀者もみな赦すと告げて武器を捨てさせた。放免された者は五千人にのぼった。
  • 孫闓は船で魏へ降ろうとして追撃され、殺された。
  • 孫綝は三族誅滅され、孫峻の棺も暴かれ、印綬を取り上げられ、棺木は斫って薄くし、辱めのうえ埋め直された。

孫休の事後処理

  • 己巳、孫休は張布を中軍督とした。
  • また諸葛恪・滕胤・呂拠らを改葬し、その事件で遠方に流された者を一律に召し戻した。
  • 朝臣の中には諸葛恪のため碑を立てたいと請う者もいたが、孫休は、盛夏の出軍で兵を損ねるばかりで功がなく、託孤の任に応えたとも賢智ともいえないとして却下した。

蜀漢 姜維の漢中防衛策変更

  • かつて昭烈帝は魏延に漢中を守らせ、諸囲に実兵を置き、敵を平地へ入れない防衛をとった。
  • 諸葛亮期の王平による曹爽撃退もその制度によっていた。
  • ところが姜維は、諸囲に兵を分けるのは敵を防げても大利は得られないとして、敵が来たら諸囲の兵を収め、漢・楽二城へ退いて籠り、敵を平地へ誘いこんでから関・頭鎮で防ぎ、遊軍でその虚を突くべきだと主張した。
  • 敵が関を攻めても落とせず、野に穀がなく、千里運糧すれば自然に疲弊し、退却時に諸城・遊軍で挟撃できる、という理屈であった。
  • 漢主はこれを認め、督漢中の胡済を漢寿へ退かせ、王含に楽城、蒋斌に漢城を守らせた。
  • 胡三省は、この変更が後に蜀が険要を失い、外敵に門戸を開く伏線になったとみている。