春正月:毋丘儉・文欽の挙兵
- 春正月、毋丘儉と文欽は皇太后の詔を偽造して寿春で挙兵し、州郡に檄を飛ばして司馬師討伐を呼びかけた。上表では、司馬懿の功績を理由にその後継者まで罪を及ぼすべきでないとしつつ、司馬師を侯に落として帰第させ、弟の司馬昭に代えよと要求した。また司馬孚や王凌の子王広らに要職を与えるべきだとも唱えた。
- 毋丘儉はさらに諸葛誕にも呼応を求めたが、諸葛誕はその使者を斬った。毋丘儉・文欽は五、六万の兵を率いて淮を渡り、西の項に進んで守りを固め、文欽を遊軍として外に置いた。
司馬師の東征決断
- 司馬師は対策を群臣に問うた。河南尹王粛は、淮南の将士の家族は州内にあり、関羽軍が家族を失って瓦解した故事のように、急いで進んで彼らの家族を押さえれば反乱軍は崩れると説いた。
- このとき司馬師は眼の腫瘍を切ったばかりで傷が重く、出征を危ぶむ声もあったが、王粛・傅嘏・鍾会らは自ら行くべきだと主張した。傅嘏は、淮楚の兵は強く、将軍たちの勝敗次第で大勢が傾くからこそ、総帥自身が臨まねばならないと述べた。司馬師は決断し、病を押して東征した。
- 戊午、司馬師は中外の諸軍を率いて反乱討伐に向かい、弟の司馬昭を中領軍代行として洛陽に残した。三方の兵を陳・許に集めた。
王基の進撃論
- 光禄勲鄭袤は、毋丘儉は策は好むが事情に暗く、文欽は勇はあっても算がないので、深溝高塁でその気勢をくじくのが上策だと述べ、司馬師はこれを称賛した。
- 司馬師は荊州刺史王基を行監軍仮節として許昌軍を統率させた。王基は、淮南の吏民が本心から反乱したのではなく、毋丘儉らに脅されて従っているだけだから、大軍が迫れば土崩瓦解すると説き、自分を前軍に立てるよう求めた。
- のちに司馬師が駐留を命じると、王基はこれに再度反対した。反乱軍が長く進まないのはすでに偽りが露見し士気が下がっているからであり、ここで進軍せず高塁にこもるのは恐れているように見える、淮南を失い呉につけ入る隙を与えると論じた。
- 王基はさらに、南頓には大きな兵站拠点があり四十日分の糧を賄えるので、そこを先んじて押さえれば敵の戦意を奪えると主張した。司馬師がようやく許したため、王基は㶏水へ進んだ。
閏月:反乱軍の動揺
- 閏月甲申、司馬師は㶏橋に至った。毋丘儉の配下の史招・李続が相次いで降伏した。王基は、戦争は巧遅より拙速であり、内に反乱・外に強敵がある今は長引かせるべきではないと重ねて進言した。
- 司馬師がなお慎重姿勢を崩さないと、王基は「将在軍、君命有所不受」として、自ら南頓へ進んでこれを確保した。毋丘儉らも項から争って向かおうとしたが、王基が先着したと聞いて再び項に戻った。
反乱の孤立と呉の介入
- 癸未、征西将軍郭淮が死去し、雍州刺史陳泰がその後任となった。
- 呉では丞相孫峻が驃騎将軍呂拠、左将軍留賛らを率いて寿春を襲おうとした。
- 司馬師は東方の諸軍に深く塁を築いて集結を待たせ、諸将の項攻撃論を退けた。淮南の将士にはもともと反意はなく、毋丘儉らが欺いて挙兵しただけで、すでに史招・李続の離反で内外ともに崩れている。急戦すれば窮鼠がかえって戦うので、持久して偽りを暴けば戦わずして勝てると見たのである。
- そこで諸葛誕に安風から寿春へ向かわせ、胡遵には譙・宋の間を進ませて反乱軍の帰路を断たせ、自身は汝陽に屯した。淮南の将士は家族が北側にあったため士気を失い、降伏者が相次いだ。実際に兵として動いたのは、新たに編入された淮南の農民が中心だった。
- 毋丘儉は兗州にも急使を送ったが、兗州刺史鄧艾はその使者を斬り、一万余の兵を率いて急行し、楽嘉城に先着して浮橋を作り、司馬師の到着を待った。
楽嘉の夜襲
- 毋丘儉は文欽に命じて鄧艾を襲わせた。司馬師は汝陽からひそかに兵を進めて楽嘉で鄧艾と合流した。文欽は大軍を見て驚き、子の文鴦が「いま敵が未整のうちに撃てば破れる」と進言した。
- そこで文鴦は夜襲を行い、壮士を率いて先頭に立って鼓噪し、魏軍を大いに動揺させた。司馬師は驚き、病んだ眼が飛び出すほどで、苦痛をこらえて寝具を噛み破った。
- しかし文欽が予定どおり呼応できなかったため、夜が明けると文鴦は兵の多さを見て退いた。司馬師はただちに追撃を命じ、一鼓で勢いを得た軍も再度の機を失えば衰えると見抜いた。
- 文欽が東へ退こうとしたとき、文鴦は敵勢をひるませずに去るべきでないとし、十余騎の精鋭で突撃しては離脱することを数度繰り返し、追撃騎兵も容易に近づけなかった。
大目の説得失敗と反乱崩壊
- 殿中の尹大目はかつて曹氏の家奴で、文欽とも親しかった。司馬師は彼を連れて行こうとしたが、大目は単身で文欽を追い、説得して帰順させたいと願い出た。
- だが大目は内心では曹氏のためを思っており、「なぜもう数日耐えないのか」とわざと曖昧に言って、司馬師の病状悪化を待つようほのめかした。文欽はその真意を理解せず、かえって大目を罵って矢を射ようとした。大目は泣いて去った。
- その日、毋丘儉は文欽の退却を聞いて恐れ、夜のうちに逃走した。軍は大潰れとなった。文欽は項へ戻ったが孤軍で立てず、寿春へ戻ろうとしても寿春もすでに維持できず、ついに呉へ奔った。
- 孫峻は東興まで来ていたが、毋丘儉ら敗北の報を聞き、壬寅に槖臯まで進んだところで、文欽父子の降伏を受け入れた。
毋丘儉の最期と淮南処理
- 毋丘儉は北へ走って愼県に至ったが、左右の兵も次々と離れた。草むらに隠れていたところを、甲辰、安風津の民の張属に殺され、首は京師に送られた。張属は侯に封じられた。
- 諸葛誕が寿春に入ると、城中十余万の住民は誅殺を恐れて山沢へ逃げる者、呉へ走る者が多かった。朝廷は諸葛誕を鎮東大将軍・儀同三司・都督揚州諸軍事に任じた。毋丘儉の三族は滅ぼされた。
- 毋丘儉に連なる者七百余人が獄につながれ、侍御史杜友が取り調べたが、主だった首謀者十数人だけを誅し、残りは免じた。
- 毋丘儉の孫娘で他家に嫁いでいた女性も妊娠中であるとして廷尉に繋がれたが、司隷主簿程咸は、すでに他家の母となるべき女まで父家の罪で殺すのは情にも法の大義にもそぐわないと論じた。朝廷はこれを採用し、嫁いだ婦人は夫家の法に従うことを律令に明記した。
夏:司馬師の死と司馬昭の継承
- 舞陽忠武侯司馬師は病が重くなり、許昌へ戻った。中郎将参軍事賈充に諸軍監督を命じた。司馬昭は洛陽から見舞いに赴き、司馬師は彼に全軍統率を託した。辛亥、司馬師は許昌で死去した。
- 中書侍郎鍾会は司馬師に従って機密を扱っていた。宮中からの詔では、東南が新たに平定されたばかりなので司馬昭をしばらく許昌に留め、傅嘏が諸軍を率いて帰還するよう求めた。だが鍾会は傅嘏と図り、傅嘏に上表させて司馬昭とともに発し、洛水南に屯した。
- 二月丁巳、司馬昭は大将軍・録尚書事となった。鍾会はこの件を自分の功とみて得意になったが、傅嘏は志が大きくても功業は容易ではない、慎むべきだと戒めた。
呉の人事と文欽の処遇
- 呉では孫峻が、すでに諸葛誕が寿春を押さえたと知って兵を返した。文欽を都護・鎮北大将軍・幽州牧に任じた。
春三月から夏:魏と呉の内政
- 三月、魏は皇后卞氏を立てて大赦を行った。卞氏は武宣皇后の弟卞秉の曾孫女であった。
- 秋七月、呉では孫儀・張怡・林恂らが孫峻暗殺を謀ったが失敗し、数十人が死んだ。全公主が朱公主を共犯として讒言したため、孫峻は朱公主まで殺した。
- 孫峻は衛尉馮朝に広陵城を築かせたが、費用と労力が甚だしく、朝廷で諫める者はほとんどなかった。滕𦙍だけが中止を勧めたが聞き入れられず、結局工事は完成しなかった。
秋八月以後:姜維の再侵攻と洮西の大敗
- 蜀では姜維が再び出兵を議した。征西大将軍張翼は、国は小さく民は疲れているのだから武事をむやみに重ねるべきでないと朝廷で諫めたが、姜維は聞かず、車騎将軍夏侯霸と張翼を伴って進軍した。
- 八月、姜維は数万を率いて枹罕に至り、狄道へ向かった。征西将軍陳泰は雍州刺史王経に、まず狄道に駐屯して自軍の到着を待ち、東西から連携して進むよう命じた。
- しかし王経の諸軍は故関で蜀軍に敗れ、さらに洮水を渡ってしまった。陳泰は、狄道を堅守しなければ必ず変事が起こるとみて急ぎ後続したが、王経はすでに洮西で姜維と戦って大敗し、一万余人で狄道城へ逃げ込み、その他は四散・戦死した。死者は万を数えた。
- 張翼は姜維に、ここでやめるべきであり、さらに進めば大功を損なって「蛇足」となると諫めた。しかし姜維は怒って狄道の包囲を続けた。
- 辛未、魏は長水校尉鄧艾に安西将軍の職務を行わせ、陳泰と協力して姜維を防がせた。戊辰には太尉司馬孚も後詰めとして置かれた。
陳泰の救援成功
- 陳泰が隴西へ進むと、諸将は、敗軍のあとを継いで大勝直後の敵と戦うのは危険であり、まず険阻を頼んで敵の疲れを待つべきだと反対した。
- これに対し陳泰は、姜維は軽兵で深入りして野戦の利を求めてきたのであって、本来は王経が籠城して鋭気をくじくべきだったと述べた。いま王経が敗れたとはいえ、姜維は勝勢に乗って東へ進み、羌胡や隴右諸郡を煽動する道ではなく、あえて堅城狄道の攻囲に力を費やしている。これは客軍が守勢に転じて弱みを見せた形であり、いまこそ迅速に撃つべきだと論じた。
- そのうえで高城嶺を越えて夜のうちに進み、狄道東南の高山に登って多数の烽火を上げ、太鼓と角笛を鳴らした。城中は救援到来に奮い立ち、姜維は不意を突かれて山沿いに急襲したが、陳泰はこれを退けた。さらに帰路を断つ構えを示したため、九月甲辰、姜維は退却し、狄道は救われた。
- 王経は、糧があと十日も保たなかったので、救援が遅れていれば一州が覆滅していたと嘆いた。陳泰は将士を慰労し、王経配下の兵を帰還・再配置させ、城の修築を行って上邽へ戻った。
- 陳泰は一方で戦があるたびに虚報で天下を騒がせないよう努め、朝廷への報告も六百里ごと程度に簡略化した。司馬昭は、これこそ方面大将のあるべき姿だと称えた。姜維は鍾提に退いた。