春正月・二月 政局の停滞
何晏らの制度改変と蒋済の諫言
- 魏では尚書何晏らが曹爽に結びつき、法度の変更を好んだ。
- 太尉蒋済は上疏し、国家の法は卓越した人物でなければ軽々しく改めるべきではなく、無益に民を傷つけるだけだと戒め、文武の官がそれぞれ本務を守るべきだと説いた。
呉の宮殿修築
- 呉主は武昌宮の資材や瓦を建業へ運んで宮殿修復に用いようとした。
- 担当官は老朽化した材では足りず、広く木材を伐り出すべきだと奏したが、呉主は、戦時下に農桑を妨げるべきではないとして退け、既存の武昌宮の材を転用した。
- 呉主は南宮へ移り、三月には太初宮の造営を始め、将軍や州郡にも協力を命じた。
曹爽の専権
- 曹爽は何晏・鄧颺・丁謐らの計に従い、皇太后を永寧宮へ移したとされた。
- 彼は朝政を専断し、身内や党与を重用し、たびたび制度を改めた。
- 太傅司馬懿はこれを抑えられず、曹爽との間に隙が生じた。
- 五月、司馬懿は病を称して政治から退いた。
- この年、呉の丞相歩隲も死去した。
皇帝の遊宴と諫言
- 魏帝は近習や小人を好み、後園で遊宴を重ねた。
- 七月、何晏は、式乾殿への行幸や後園での遊びの際にも大臣を随行させ、政事や経書を論じる場にすべきだと上言した。
- 十二月、散騎常侍・諫議大夫孔乂は、天下が定まった今こそ後園での遊楽や騎乗をやめ、車や輦を用いるべきだと諫めたが、帝はいずれも聞かなかった。
呉の挙兵の気配と王基の判断
- 呉主は大軍を建業に集め、揚州侵攻をうかがう姿勢を見せた。
- 揚州刺史諸葛誕は安豊太守王基に見通しを問うた。
- 王基は、陸遜ら旧将はすでに死に、孫権は老いて後継も不安定、出征すれば国内の変が怖く、将を送っても新旧いずれも頼みにくいとして、本格侵攻ではなく内政の繕いにすぎないと判断した。
- 実際、呉軍は出て来なかった。
雍・凉の羌胡と姜維の出兵
- この年、雍州・凉州の羌胡が反乱し、蜀漢に降った。
- 姜維は隴右へ出兵してこれに呼応し、雍州刺史郭淮と洮西で戦った。
- 胡王白虎文・治無戴らは部衆を率いて姜維に降り、姜維は彼らを蜀へ移した。
- 郭淮は残党を撃って平定した。