資治通鑑魏紀六 邵陵厲公上 正始 四年 243年

正月から五月 魏の成年礼と蜀漢の動き

  • 春正月、魏帝曹芳は元服した。
  • 呉の諸葛恪は六安を襲って住民を掠め去った。
  • 夏四月、魏では甄氏を皇后に立て、大赦を行った。彼女は文昭皇后の兄・甄儼の孫である。
  • 五月朔、日食があった。
  • 冬十月、蜀の蔣琬は漢中から涪へ戻ったが、病がますます重くなったため、漢中太守王平を前監軍・鎮北大将軍として漢中防衛に当たらせた。
  • 十一月、蜀は費禕を大将軍・録尚書事とした。

呉の重臣死去と蜀への疑念

  • 呉では丞相顧雍が死去した。
  • 諸葛恪は遠くまで間者を送り、寿春攻略の機会を探っていた。これに対し司馬懿は兵を率いて舒に入り、諸葛恪を攻める構えを見せたため、孫権は恪を柴桑へ移した。
  • 歩隲と朱然は、蜀から戻った者たちが蜀の背盟を語っていること、舟船や城郭修繕が進んでいること、さらに蔣琬が司馬懿の南下にも乗じず漢中を退いて成都近くに戻ったことから、蜀が魏と通じている疑いは明白だとして備えを求めた。
  • しかし孫権は、蜀に対して薄くした覚えはなく、司馬懿が舒に来てもすぐ退いたのだから、蜀が遠方から即応しなかったからといって疑うのはおかしいとして退けた。人の言は信じがたい、自分が責任をもって蜀を保証するとまで述べた。

王昶の進言と曹冏の宗室論

  • 征東将軍・都督楊豫諸軍事の王昶は、宛から襄陽まで三百余里も離れていては有事に応じきれないとして、新野へ駐屯地を移した。
  • 宗室の曹冏は上書し、古の王者は同姓を封建して親親を明らかにし、異姓を立てて賢賢を示したが、今の魏は宗室を空名の王にして民も持たせず、官職でも冷遇していると論じた。
  • 夏・商・周が長く続き秦が短命に終わったのは、天下を分かち藩屏を置いたかどうかにあるとし、漢も秦の失を見て諸侯を立てたから諸呂の乱に耐えたが、やがて削弱しすぎて王氏の専権を招いたと説いた。
  • そのうえで、魏も宗室を市井の人と変わらぬ位置に置いており、州牧・郡守や偏師の将には外様が用いられるのに、一族は小県の長や百人隊程度にとどめられているのは危険だと警告した。
  • しかし曹爽はこれを採用しなかった。